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【愛媛県】藤原純友居城跡

場所:愛媛県宇和島市日振島明海
時代:10世紀(平安時代中期)

先日、たまたまNHKの歴史番組「英雄たちの選択」で、"海賊"平安朝を揺るがす~真説藤原純友の乱~というのが放送されていて、興味があったので最後まで見ました。平安時代中期に起きた大きな反乱といえば承平天慶の乱ですが、どちらかと言えば東の平将門の乱のほうが有名じゃないでしょうか。私もこれまでにあちこち訪れましたが、茨城県と千葉県を中心に関東一円に残っている関連史跡も多く、中でも最近新しく改装されたばかりの東京大手町のビルの谷間にある「将門塚(首塚)」は、祟りとかオカルト的な話題においても超がつく有名な史跡ですね。

宇和島から日振島へ渡る高速船
日振島明海の港

しかし西の純友の乱も、反乱を起こした期間は将門の乱よりずっと長く、時の政権を畏怖させたことには変わりありません。何より純友が海賊を束ねたときの本拠地と言われている日振島(ひぶりじま)のある宇和島市は、私の生まれ故郷から近いこともあって、何となく親近感を覚えます。ただこの島へ行くには、宇和島の港から1日3便の高速船"あさかぜ"で約1時間かかるため、2005年と2011年の2回しか行ったことがありません。
島は細長く、船は南から順に3つの集落、喜路(きろ)、明海(あこ)、能登(のと)に停まります。日振島は人口が約250人ほどの過疎の島ですが、魚釣りが好きな人には結構名の知られた島だそうですが、釣り目的以外で島を訪れる人はほとんどいないでしょう。島には釣り人のための民宿が数件営業しているようですが、食堂のようなものはありませんでした。私が訪れたのは日曜日だったため、唯一のスーパー(農協の購買部)も閉まっていましたが、農協の前で飲料を買う自動販売機は1台見つけました。運良く宇和島でこの島出身の方にこうした事情を聞いていたので、昼食は乗船前に買って行くことができました。

海円寺の樹木
テングサ干しとリュウゼツラン

藤原純友の関連史跡は、明海の集落に集中しています。細長くて険しく平地がほとんどない日振島ですので、海と山の間のわずかな平地にへばりつくようにして人が暮らしています。狭くて耕地に適さないため、ほとんどの人は漁業を生業にしているようです。明海にある割と大きなお寺、海円寺には時代を感じさせる古い墓もたくさん並んでいて、立派なソテツの木があります。厳しい海風のせいか、立木は一定方向に向けて枝が伸びており、ちょっと変わった景観をつくりだしています。漁船が停泊している小さな港は、漁港にありがちな海面に漂う油やゴミとかは全く見られず、透明度も高くてそのまま泳げそうなくらいきれいでした。近くにはコンクリートの割と大きな建物、おそらくレストランや土産物店などもあったと思われる海水浴場施設が廃墟となって残っており、周囲にはたくさんのリュウゼツランが手入れされることなく、寂しげに繁茂していました。そして閑散とした道路上には、テングサが干されていました。

純友居城跡
「藤原純友籠居之趾」記念碑
みなかわの井戸

明海の港から山へ続く小道を上がっていくと、城ヶ森という頂上に着きます。途中、1976年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で平将門とともに主役を演じた藤原純友(演:故・緒方拳さん)を記念した、朽ち果てた立て札がありました。頂上は平坦になっていて「藤原純友籠居之趾」と刻まれた記念碑が立てられており、ここに居城があったとされています。今はもうほとんど訪れる人もいないようで、朽ちた木製のテーブルや椅子があるのみで、1100年前の純友の時代のものは何も残っていません。が、記念碑のある場所の奥にちょっと高くなった場所があるので、想像ですが、もしかしたら当時の土塁の一部なのかもしれません。周囲の灌木を伐採してここにちょっとした櫓でも建てれば、周囲の海を広範囲に見渡せるので、ここは海賊の拠点として申し分ない場所だと思います。
その他の純友関連の史跡としては、明海の集落に純友が使ったとされる井戸(みなかわの井戸)が残っています。小さな島にあって貴重な真水の供給源であるこの井戸は現在も使われていますが、井桁部分はコンクリート製の丸型で、汲み上げも電動ポンプが使われています。もちろん純友の時代にはそういったものはなく、張り出した大木の枝を利用してつるべで汲み上げたと言われています。

日振島の海
島のネコたち

西暦936年ごろ、藤原純友が海賊の首領として日振島を拠点に、瀬戸内から北九州、宇和海にかけて活躍した経緯はおおよそ以下の通りです。自身藤原北家の出であるのもかかわらず、京では貴族の腐敗政治が横行していて思うように官位を得られないため、下っ端役人の伊予掾として伊予大洲に戻ってきた純友が、海賊退治を仰せつかって海賊たちに接触するうちに彼らに共感し信頼を勝ち得て、ついには首領にまでなりました。
純友の生誕地ははっきりわかっていませんが、父である藤原良範が伊予の国司として伊予大洲に所領を持っていたことから、この地で生まれたという説が有力です。そんなわけで勝手知ったる伊予国に戻ってきた純友は、海賊衆が長老として一目置いていた日振島の佐伯是基という人物におおいに惚れ込まれ、いろいろな知恵を授かったそうです。その中で是基は、海賊として多くの人を動かすとなれば、最後は財力がものを言うということを教え、純友はそれに従い多くの財宝を手に入れたそうです。結局東の将門が討たれ、朝廷は西の純友討伐に集中できるようになったことから勢いを盛り返し、しばらく後には純友も朝廷軍に敗れ、伊予まで逃れたがついに捕らえられ、獄中で死んだと伝わっています。
実は南予地方(愛媛県南部)には、純友が隠したという財宝伝説が伝わっています。99個の大壺に納められた黄金が、現在の宇和島市津島町にある岸壁の横穴に隠されているという伝説が残されているそうです。


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