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【イスラエル】イスラエル博物館(ピラトの石板)

場所:エルサレム旧市街から西へ約3km
時代:紀元1世紀

イスラエル博物館で最も有名な展示物といえば、ヨルダン川西岸地区にあるクムラン洞窟などで偶然発見された「死海文書」だろう。紀元前3世紀から後2世紀までの間に書かれた現存する最古のヘブライ語聖書で、イスラエル博物館敷地内にある、死海写本が収められていた壺の蓋の形をした建物「死海写本館」に展示されている。
初めてイスラエルを訪れたのは1996年で、2回目に訪れたのが2018年なので20年以上経っていたが、エルサレム旧市街とこの博物館は時の変化を感じなかった。イスラエルを訪れる人は宗教目的の人以外だと、たぶんローマ史などの歴史好きが多いと思う。日本人にはあまり馴染みがなくても、キリスト教徒にとっては一生に一度は詣でてみたいところであり、2018年7月の2度目の訪問時は、カトリック信者である私の妻とその両親、姉2人を伴ってテルアビブ空港に着いた。レンタカーで北部のガリラヤ湖、ナザレなどをまわり、現地ツアーで死海やベツレヘムへ行った。イスラエル最後の目的地は、もちろん聖墳墓教会のあるエルサレムで、とにかくほぼイエス・キリストの足跡を巡る旅行だったが、特に熱心なカトリック信者である妻の両親は感無量だったと思う。
私自身はキリスト教徒ではないが、ヨーロッパの歴史や史跡においては、キリスト教抜きにはほとんど何も語れないので、歴史的な面と建築でキリスト教を知りたいと思っているし、2000年にわたってヨーロッパの文化を支えてきた宗教の原点を見ることができたのではないかと思っている。

イエス・キリスト時代のころのユダヤの骨壺と石棺
左:ユダヤ教の石棺、右:キリスト教の石棺の蓋

ポンティウス・ピラト(Pontius Pilatus)
「ゲルマーニア」や「年代記」などの作品で有名な古代ローマの作家であり、歴史家のタキトゥスが生まれたのは、イエス・キリストの死後20年くらい後であるが、彼の著作の中には、ユダヤ属州総督ポンティウス・ピラトがイエスの処刑を命じたと記述されている。新約聖書の福音書の記述にも、ピラトが在任中にイエスの磔刑を命じたとあるらしい。現代の映画の中でイエス・キリストが描かれているものでは、ピラトがイエスを嫌う強硬なユダヤ教ラビに無理強いされた状況で、彼の死刑を決めるという場面を演じている。つまり裁判とはいえ、生前のイエス・キリストと会って会話した人ということになる。
実際のピラトがどんな人物だったのかについては、ユダヤ総督になる前も後も資料が残っておらず、ほとんどわかっていないそうだ。イエスの処刑を決定した張本人である彼がキリスト教徒に嫌われるのは理解できるが、一説ではイエスに同情的であったという記述も残っている。実在の人物だったのかということについては、彼がローマ皇帝の名で鋳造させた貨幣が存在し、またイスラエル博物館に展示されている「ピラトの石板」が発見されたことで証明された。

ピラトの石板

ピラトの石板
ピラトの石板の碑文
碑文の内容

1961年にイタリア人考古学者が、地中海沿岸の町カイザリアで発見したもので、ピラトの名前が入った碑文が刻まれている石板。元はおそらく皇帝のための神殿にあったものが、当地にある劇場の階段の石材として再利用されていたもので、4行のラテン語文が書かれている。内容は、ピラトが皇帝ティベリウスに神殿を献上したことが書かれており、この石板ではピラトはユダヤ総督ではなく、知事となっている。ともかくイエスの処刑で圧倒的な知名度があるピラトであるが、ヨセフスの記録によると、あるときピラトの軍が多くのサマリア人を殺害し、その釈明のためローマのティベリウス帝のもとへ向かう途中、皇帝が死去してしまった。そしてそれ以降のピラトの動静については記録がなく、全く不明らしい。

イスラエル博物館の位置

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