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犬の家畜化は人類の言語進化に貢献したか?(その1)

 AD1150年頃、ベーリング海峡を介して、アジアから北米北極圏に激しい戦争状態が波及した。そうした状況を示す証拠として、アジア起源の複合弓や小札式甲冑など新たな武器・武具がアラスカやアリューシャン列島に出現するとともに、要所々々に防御的集落や要塞が建設され始め、さらには戦傷を受けたとみられる遺骸が顕著に増加することが指摘されている。こうした「アジアから来た戦争」という見方に関しては、アメリカ考古学および人類学者の間で、大筋においてコンセンサスが成立しているように思われる(Maschner 2000, Maschner & Mason 2013, Mason 2020)。

 しかしながら、アメリカ考古学や人事類学で唱えられている「アジアから来た戦争」論が成立し得ないということに関しては、昨年発表した論文で、新旧両大陸で使われてきた弓をめぐる考古学的、民族誌学的な分析を通して指摘した通りである(岡安 2021)

 とはいえ、問題のAD1150年頃、ベーリング海峡周辺に居住していた民族集団のチューレ、すなわち現在のユピックやイヌイットなどネオ・エスキモー集団の直接の先祖が、何らかのきっかけで、激しい戦争を繰り広げながら東へ東へと拡散していき、100年も経たないうちにグリーンランドまで到達して、先住者であるドーセット族(パレオ・エスキモー)を駆逐して自分たちの居住地にしてしまったというのは、大筋において、実際にあった出来事だろう。

 チューレ集団が猛烈なスピードで東へ東へと移住することを可能にした背景に、二つの重要なツールがあったことが分かっている。ひとつは犬橇、もうひとつは海獣の革を利用した大型のスキン・ボートである。広大な雪原を犬橇でひた走り、海が行く手を遮ると、折りたたみ式のスキン・ボートを組み立てて、荷物を積み替えて先に進むことができた。大型のスキン・ボートは、帆を備えていたことも知られている。現代風に表現すれば、まさに水陸機動団(Amphibious Rapid Deployment Brigade)といったところである。

1889 Boas, Central Eskimo

 こうした優れた移動手段に加えて、チューレ集団は、中期旧石器時代に北欧に出現したフラット・ボウに起源を持つ、強力なエスキモー・ケーブルバック・ボウを装備していたから、弓を持たないドーセット族には立ち向かう術がなかったに違いない。またたく間にチューレ集団に吸収されてしまったようだ。

エスキモーのケーブルバック・ボウ

さて、もとを正せばエスキモーの弓について調べているうちに、チューレ集団の戦乱を伴う移住と拡散の文献群に遭遇し、その中で彼らの犬橇やスキン・ボートについてのあれやこれやの知見にも触れることになったのだが、さらにそこから、犬好きということもあって、エスキモー犬の家畜化の問題にまで、関心が広がってしまった。あれもこれもと目を通し始めると、収拾がつかなくなりそうなので、目下の弓に関する論文執筆が一段落するまで、犬については面白そうな論文があっても、知らん顔をするようにしていたのだが、あまりにも面白そうなので、禁を破って手にとってしまったのが、この論文、「犬の家畜化は言語進化に貢献したか?」( Benítez-Burraco et al. 2021)である。

自己家畜化の問題は、近年の人類学の最大の関心事のひとつだが、犬の家畜化は、人類の自己家畜化、とくに複雑な言語の獲得に深く関与しているのではないか、というのがこの論文の掲げる仮説である。犬の家畜化と人間の家畜化には類似性があり、両者には、ある種の共進化、反応性攻撃と向社会的行動を制御する選択的メカニズムへの影響が見て取れるというのだ。犬側では、人間に対する社交性が高まり、人間のコミュニケーション・シグナルに対する感受性や反応性が高まる。いっぽう、ヒトの側では自己家畜化された表現型が増加し、最終的には文化的メカニズムによって、より複雑な言語が出現することに貢献したというのである。議論は複雑多岐にわたり、要約するのは難しいのであるが、以下の投稿でその触りを紹介してみたいと思う。犬好きには、堪らない論文。

参照文献

Benítez-Burraco, A., Pörtl, D., & Jung, C. (2021). Did Dog Domestication Contribute to Language Evolution?. Frontiers in psychology, 12, 695116. https://doi.org/10.3389/fpsyg.2021.695116


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