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フュリオサで気になって納得したこと

こちらの記事で『フュリオサ』について色々書きましたので読んでください。読んでいただけましたらそこで書ききれなかったことというか、映像的に根拠となることははっきりとないしさすがにこれは私が勝手に思ってるだけのやつ……と書かなかったことをここで述べます。

映画を見ている間、あれれ?なんか知ってる前提と違う方向に話が進むなあ、と前作のファンなら誰もが思ったこととして、「フュリオサってイモータン・ジョーの妻の一人じゃなかったっけ?」というのがある。『フュリオサ』ではいとうエクスキューズ的に「いったん妻になったけど何かある前に逃げ出してほとんど妻としての時間は過ごしていないっす。ほぼ接触もなし」という描写となっている。前作のセリフやシャーリーズ・セロンのインタビューを見た限りではおそらくフュリオサはほかの妻たちと同じような扱いをイモータン・ジョーからされていたと推測していたので、びっくりした。
ただ、最後まで映画を見て、そして現代のいろんな状況を鑑みて、こういった物語になったのも理解できるなと思った。
というのも、映画やドラマ、小説で「男性が性行為で女性を支配する」という表象はちょっと〝強すぎる〟のだ。それは現実でいくらでも起こっていることであるので、フィクションの中でそういったことがないように振る舞うのはもしかしたら間違っているのかもしれないのだけれど、その行為が絶対に間違っているという前提が果たして社会の中で共有されているのかどうかという点では、かなりの部分、怪しいと私は感じている。本作で「イモータン・ジョーとセックスをさせられるフュリオサ」を描いた場合、フィルムを通して観客席に、少なからず(私も含めて)ある種のポルノ的な劣情が、意図するとせざるとに関わらず生まれることを、この映画は危惧していたのじゃないだろうか。

そしてまた『フュリオサ』の語りは、映画の中で描かれていることが「あの世界の中で実際にあったこと」「前作から類推されうること」と必ずしも一致しなくてもよい、というものになっていることにも留意したい。『フュリオサ』は〝出来事を語ること〟そのものについての映画である。実際に起こったことには触れられない、歴史とはそういうものだけど、それでもそこに生きる人の感情はある、という映画で、だから私はジャックって本当にいたのかな……とわりとずっと思ってる。ジャックみたいな感じで助けてくれた人が何人かいたんじゃないかな……とか、そういうところまで想像するのが許される映画だ。

突然、昔の話をする。私はとある女優を被写体にしたドキュメンタリー映画を見に行った。大手の劇場にかかるような映画ではなく、どこかの公民館を借りての上映だったと思う。その女優は学生時代に性被害を受けたサバイバーだった。体と心に癒しがたい傷を受けてそれでも彼女は女優になった、その半生をドキュメンタリーは記録していた。しかしその映画は端的に言って、ひどいものだった。映画としてのクオリティ云々の話ではない、その映画は明確に、二次加害のために作られていた。映画の中で監督は、女優としての今を話そうと試みる被写体の女性に、繰り返し、性被害を受けた当時の事を質問し続けた。興味津々、知りたくてたまらないのだ。
許しがたかった。そして私はその瞬間、映画を観ることによって、二次加害の当事者になった。
上映後は監督のセッションが用意されていた。会場には反体制的な姿勢で知られるアーティストも来ていた。彼らはその映画がどれだけ素晴らしいかを議論し、山崎貴の『STAND BY ME ドラえもん』と相田みつををくさして大いに盛り上がっていた。
私がこの時思い知ったのは、彼らが抱く確信だ。セックスというものが持つ支配力への無邪気で確固たる思い。セックスを「された」者は、性別やその人の属性に関係なく、すでに他者によって侵害されたものとして扱って見せるという、高らかな宣言。それはあまりにも、当たり前のように世の中に共有されている。

その態度を反映しているように、凛として何物にも屈しない女性を男性が性暴力によってズタズタにする、という類型は創作の中であまりにも濫用されすぎている。どんな完璧で強い女性も、いちど性暴力をふるってしまえば人生ごと台無しにできる、という信念すら、その濫用ぶりからは感じ取れる。それがこの世のリアリティだと考えることは(先述した試写会の景色から)ある程度までは妥当かもしれないが、しかし今、問題にしたいのは、その展開をストーリーのブリッジにする判断をする創作者の良識、そして世界観だ。こういった展開を見る時に私が抱くのは、「じゃああなた、この物語を作ったあなたも、その世界観を肯定するのね?」という憤懣だ。だから正直、この映画の中でフュリオサとイモータン・ジョーの、前作から類推されうる関係性を直接的にあるいは間接的に描くことがなかったことに、私はかなり安堵していた。おそらく観客の一部は、そのシーンを具体的に、あるいは想像できる形で描いてしまえば、フュリオサをそのような眼差しで見ることにまったくためらいを感じないだろう。しかし、そんな感情を喚起してやる必要性は、どこにもない。

『フュリオサ』では描かれていなくとも、少なくとも前作を見ている人間は、イモータン・ジョーとフュリオサのあいだには、映像の中で描かれていないことがあったかもしれないし、なかったかもしれないと想像できるだろう。そして『フュリオサ』で用いられている物語の方法論では、フュリオサについて語る物語の中であえてそれに言及する必要はない、ということも納得できる。私達は、他者に与えられた痛みや傷を興味本位の視線に対して晒す必要なんてこれっぽっちもないのだから。


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