見出し画像

『アイアンクロー』観たよ

鉄の爪(アイアンクロー)で有名、プロレススーパースター列伝でもおなじみのフリッツ・フォン・エリックの息子たちの悲劇的な運命を描いた映画。親父が有名レスラーだし団体も持ってるので当然息子たちも体を鍛えてレスラーになるのだ、という雰囲気がある中でレスラーになった息子たちがどんどん死んでいく。次男(長男は小さいころに亡くなっているので傍からは長男に見える)のケビンから見たファミリーの悲劇が描かれていく。

ケビンの弟たちは皆死んでしまうが、ギリのところでケビンはプロレスから離れることで生き延びる。この場合のプロレスは父エリックとほとんど同一化していて、いかにして父の呪縛から逃れられるのか、逃れられなければ死ぬ、という即死系の家父長制からの逃亡劇。父のくびきから解き放たれた時のケビンのこととかケビンの家族の話とかは他のレビューとかでいっぱい言及されているだろうと思うのでここでは映画内で描かれている「父=プロレス=家父長制」という構造について書く。

『アイアンクロー』、プロレス視点で絶賛している人もいるけどなかなかあぶねえんじゃないかなと思う。というのはこの映画の中では前掲した構図がかなり支配的で、「プロレスやってると死ぬ」というけっこう身もふたもない結論が色濃い。その前提を作るために、なんかプロレスの描き方も変になっている。まず、現代的な感覚からすると父フリッツはめちゃくちゃセンスがなさそうに見える。アイアンクローなんていうおしゃれなフィニッシャーを使いこなしていたんだから絶対にそんなはずはないのだけど、フリッツはケビンがハーリー・レイスに場外で投げられたときになかなかリングに復帰しないことをめっちゃとがめる。見ている側としては、場外カウントギリまで寝てても別になんも変じゃないというか、ケビンのことをむしろ応援したくなるんでは?という気持ち。ハーリー・レイスは超格上なんだろうし、ピンチっぽくなるのは全然変じゃない。ケビンをそういう、苦しんでピンチで応援されるタイプの選手にしたくなかったんだろうけど(男らしくないから)……。
つまり、スポーツ的な「強い奴が勝つので男らしく強くなろう」という価値観をフリッツは内面化してプロレスの指導にも反映させているわけだけど、そうなると今度は映画の前半で描かれたような、試合前のあれこれの描写と整合性が取れなくなってくる。後半は特に、プロレスの試合にもかかわらず映画としてはボクシングとかそのあたりのジャンルの試合シーンとあんまり変わらなくなってくる。

これに関しては、当時の業界が徐々に全国ネットワークのテレビプロレスぶっちゃけWWFへと移行していく時代だったから、時代に取り残された古いレスラーとしての親父、という視点もあるのかなとは思う。その新時代のプロレスを象徴するレスラーとして非常に印象的に登場するのがリック・フレアーだ。ケビンとの試合でケビンがキレてフレアーをぼこぼこにして流血マッチになった後、落ち込むエリックファミリーの控え室にフレアーがやってくる。「いい試合だった~~~客めっちゃ湧いてた!ありがとう~~~!やるじゃん!飲みにいこ!(金髪が血まみれ)」
ふつうの(つまり凡庸な)レスラーなら「てめー何やってんだコラ!」となるところがならない。スターすぎる。歴史に残る大スターになる新時代のレスラーとの旧態依然のプロレス団体経営をしているエリック家の対比。マジでこのシーンのフレアーはいい。

とはいえ、この映画においては「時代遅れの親父」という方向性にもならないのが歯がゆい。そういう流れにしてしまうと、「家父長制よくない」というテーマから離れて「時代から取り残された男の悲哀」になってしまうから。なので時代に合わせたプロレスの変化みたいなところには踏み込まない。ここで、先ほど言った「試合シーンの撮り方」があんまりよくない方向できいてくる。
映画で描かれるスポーツっていうのはもちろんほかのスポーツとは違って、物語、登場人物の感情、を描くためのある種の触媒となる。ゴールが入って嬉しい、という感情の向こうに、仲たがいした家族との和解が重ねられたりとか、そういうことは映画を作る上で当たり前に行われる。試合中に感情が高ぶったらパンチが強くなったり、プレイがラフになったり、そういう重ね合わせが感情移入の度合いを高める。ケビンが激高してフレアーをぼこぼこにしたのも、そういう意図をもって撮られているのだけれど……プロレスではちょっとこれは、成立していないのだ。

第一義的にフレアー戦でのケビンの行動のだめなところは、激昂して相手を流血させたことなんかではなく、とにかく「勝手な真似をしている」というものだ。ああいう行動をとると、ケビンの怒りによって発露した行動に対して、「あ~なってないな~」みたいな気持ちになっちゃって、それはサッカーとかボクシングとかで描かれる「激高」とはまた別の演出意図に見えてしまう。そもそもプロレスは演劇的にリング上である種の感情の流れ、ドラマを表現するものである。だから映画の中でサッカーとかボクシングとかの競技と同じアプローチでドラマを描こうとしても、そもそもプロレスの試合の中で前提とされている物語とバッティングしてしまってうまくいかない。だから、ケビンの精神が追い詰められていく後半では試合前の対戦相手との準備シーンが描かれない。観客に一度にそんなにたくさんのドラマを見せてもわけわかんなくなるから。でもそれってプロレスの試合ではないよね。
『レスラー』がその点、うまくいったのは、試合の中の流れはとにかく、主人公のランディにとってのドラマが「レスラーとしての/ランディとしての死」の一点に絞られていたからだろう。ドラマの中でそのままプロレス番組をやった『GLOW』も、そのあたりの難しさをうまく処理した例だ。
しかしこの映画では「本来のプロレスの試合内に存在する物語性」みたいな撮り方は後半ではしないことにしてしまったので、観客はケビンとエリックが何にこだわっているのかよくわからない。

なので結局、この映画は「リングの上の出来事と自分の実際の人生との区別がつかなくなってしまった人たち」の話に見える。リングの上と同じロジックで息子を現実でも追い詰めているからみんな死んじゃったわけで、そんなのは当たり前だ。でもそれって家父長制というよりプロレスの問題じゃない?というふうにこの撮り方だと見えてしまう。
とはいえ「家父長制から逃れたら/プロレスをやめたらちゃんと人生がありました」という結論は、それはそれでいいというか、映画としては全然正しい。でも、『チャレンジャーズ』ではギリギリ回避していた、「対象ジャンルを、人間の物語を見せるための道具にします」という態度にも私には見える。ショーン・ダーキン監督はプロレスファンというけれど、やっぱり映画にするっていうのはある意味で、映画という文法に他のジャンルのエンタメなりなんなりを従属させるということなんだろうなあ。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?