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蒼い時

録画で伝統芸能の舞台を観ていた。
音ない足の運びや姿勢、声の抑揚。作品の内容は全く知らない。
ただ眺めるように観ていた。
鍛錬を経た美しさには強度がある。

心がエアポケットに入って輪郭が夜を迎えたと思うような夜だ。
表現の強度に救われると思うことがある。
もしくは、たとえば珈琲を淹れる時のような、作り上げる過程の集中と洗練を伴った作業にも同じ強度を感じる。
作ろうとする過程にある者は作られたものと等しく美しい。
そういう美しさと強度をいつも肯定していたい。

精錬された美しいものはできるだけ多く知っていた方が良い。
そして触れられる機会があった方が良い。
心がいちじるしく失われたと思うような時に、あらゆる角度からそれらが心を養いにくる。
空隙から再生される存在の愛はあるにしても、悲しみに皮膚感が麻痺しすぎると気配さえ分からなくなる、それを避ける為に。あらゆる精錬された美を摂取する機会を、時を養うのだ。種類は違えど、美は美を補完する。触れようとする感性を補完するからだ。

全く異なるジャンルの一流の選手や表現者同士の対話が成立する話を聞く。
表現する言語は異なっても、各々の道の上で同じ領域に近づくのかもしれない。
その道の上では孤高であっても孤立ではなく、ひとりであってひとりではなく、不思議なことに気配が近づいていると感じさえするのかもしれない。

その不思議な充足、補完は、表現者の醍醐味のみにとどまらない。
表現を受け取る者にもの感受性をすすぎ、内のほつれをも養わせる。
精錬された美を聴き取る機会は、聴き取る者の集中力を養いもする。
みずからの心の深部を恐れず、より良く聴き取る胆力を養う。

また、精錬された美は祈りに似ている。
祈りとは、光を求めることではなく、しるほどにみずからの深部より精錬された美しい力を見出し、それを光明として捧げるように掬い上げる行為だからだ。
その領域に手を差し込む時もまた、孤高ではあっても孤立ではないのだと思う。

エドワード・ゴーリーの絵本「蒼い時」を手に入れた。
20年以来、時をあたためてのお迎えだ。

エドワード・ゴーリーは好みがすっぱり分かれるかもしれない。
小説版「ムーミン」に似たいわゆるキモカワっぽい絵柄に惹かれて開くと、全力でエグみがあるし、旨味を見つけられるかは性癖次第か。
私はこの話が1番好きだ。

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