読書感想文(281)岡潔『春風夏雨』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は久々に岡潔のエッセイを読みたくなったので読みました。
このGWは結構数学をやっているので、ちょうど良いかもしれません。
数学の話はあまりありませんが……。

感想

今回もわからないなりに考えながら読みました。
最近、仏教に対する理解が少し深まったのでもうちょっと理解できるかと期待していたのですが、また別の宗派の話が中心だったので以前とほとんど理解度は変わりませんでした。

人の情緒は固有のメロディーで、その中に流れと彩りと輝きがある。そのメロディーがいきいきしていると、生命の緑の芽も青々としている。そんな人には、何を見ても深い彩りや輝きの中に見えるだろう。ところが、この芽が色あせてきたり、枯れてしまったりしている人がある。そんな人には何を見ても枯野のようにしか見えないだろう。これが物質主義者と呼ばれる人たちである。

P15

固有のメロディーというのは、個人毎という意味にも取れそうですが、大自然のメロディーというもの、初めから知っている心の中にあるメロディーという意味かなと思いました。
と、書いている今は意味がわかりますが、一ヶ月後に読み返したら何言ってるのかわからないんだろうなぁと思います笑。

喜びという情緒一つをとっても、上の子はある瞬間の鋭い喜びを見せるし、下の子は、鋭くはないがいつも「普遍的な」といっていいような喜びに包まれている。

P17

喜びをこのように二種類に分けて考えるのは、何となく印象に残りました。

文化は食物と同じで、同化してはじめてその人のものとなって働くことができる。そして同化とは、ひっきょうその人のメロディーがそれだけ密度を増すということにほかならない。密度が増せば喜びも強くなる。

P21,22

これは私が大学生の頃、『和泉式部日記』をより深く理解しようとした時、歌詠みの気持ちは歌詠みにしか分かるまいと思って、和歌を詠み始めたのに近いかかもしれないと思いました。
私はこのように本で書いてあることを既に実践していることが多々あるのですが、なぜ自分がそのような行動を起こせたのか不思議に思います。きっと気づいていないところで、どこかで学んでいたのでしょう。これは無分別智ではなく、環境が恵まれていたことが大きい気がします。

いま日本で洋画家の大部分は(河上さんは洋画家なのです)、厭悪を催すような色を平気で使っている。他人は厭だから使わないのに、自分しか使えないのだと思っている。またそんなものがもてはやされ、高く売れるのである。

P88

この部分を読んだ時、真っ先に岡本太郎を思い出しました。
岡潔も岡本太郎も私は尊敬しているつもりなのですが、両者の価値観の違いが如実に表れている所かもしれません。
私なりの言葉で言うなら、岡潔は自然と調和していた過去に還るのを良しとしており、岡本太郎は現状を打ち破り未来へ進んでいくことを良しとしている、この点が決定的に違うのではないかと思います。岡本太郎の言葉としては「今日の芸術はきれいであってはならない」や「弱者だからこそ進化する(こちらはうろ覚えです)」といったものが思い出されます。

最後にもう一つ。
いつも書いているような気がしますが、岡潔の文章は利己心が感じられないのが魅力的です。文章というより、岡潔に利己心が感じられないのです。切に世の中を良くしたいと思っていることが感じられます。
そのため、この本の中でも教育について何度も言及があります。
現代において、教育のあるべき姿は社会で活躍できる人材の育成などとよく言われます。しかし、今の社会に迎合する人を育てるのが本当に正しいのだろうか?むしろ、今の社会に立ち向かい、打ち勝っていく人間を育てるのが良いのではないか?しかし、個人の存在を小我で捉える限りは、そんな教育ははた迷惑なものです。これを乗り越えるにはやはり人々が真我を悟らねばならないのですが、その価値観が本当に「良い」ものであるのか、私にはまだ自信がありません。

おわりに

本書で何度か『紫の火花』が出てきました。
これも岡潔のエッセイですが、まだ読んだことがないので、またいつか読みたいです。
ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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