読書感想文(55)ジョージ・オーウェル作、高橋和久訳『1984年』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回読んだこの作品は社会の未来(或いは現在)を論じる時にしばしばタイトルが挙がる、ディストピア小説の代表作です。
しかし訳者あとがきによると、英国で「読んだふり本」第一位だそうです笑。
なんとなく知っているけど読んだことがないという方はその一員ということなので、是非読んでみてはいかがでしょうか?笑

尚、今回は恐らくネタバレを含みますので、気になる方はご注意ください。

感想

まず第一部を読んでいた時、正直初めの方は少し退屈でした。物語があまり進展しないからです。ただディストピアでの主人公の生活が描かれるだけです。
私は読み始める時にディストピアの社会体制に反抗していく物語を期待していたので、あまり動きがなくて退屈してしまいました。読み終えた今では、そういったエンターテインメント性を求めるものではなかったのだなと思います。

そう、まさにエンターテインメント性を求めるものではありませんでした。第二部でやっとここから動き出すのだ!とわくわくしながら読み進めると、先に待っていたのはまさかの絶望でした。それでもまさかこのまま終わるはずはないだろうと第三部を読み進めていくと、希望は呆気なく打ち砕かれたのでした。

まあ実際(実際と書くのが正しいかわかりませんが)、権力に抗うのってそんな簡単じゃないよなぁとも思いました。先日ホームズを読んでいた時にも、自分がもし悪役の方だったらこういう手回しをするなぁ、なんてことを思いました。私ですらそういったことを思いつくのですから、実際の権力者があらゆる方面に対策をしていないわけがないのです。
なんてこんな事を書いていたら権力者に目をつけられたりして……笑
私は阿呆なのでマークする必要はありません。ご安心ください。

ストーリーについては、「解説」を読んで自分の理解不足を痛感しました。やっぱり世界史と経済は勉強しないとダメだなぁと思いました。ゆえにそれらについてもっと理解を深めてからこの作品を読み直したら、より深く理解できるだろうと思いました。

さて、他にも色々と書きたいことはあります。まず「二重思考」について。
これは作品を読みながら現実でもあることだなぁと思っていると、「解説」でも同じことが書かれていました。心理学では認知的不協和というそうです。
また、これと少し次元は異なりますが、私自身はそれを自覚した上で、いわば多重思考を良しと考えています。
二重思考は単純に物事の矛盾を扱っており、矛と盾という二項対立で考える前提があります。
しかし実際には二項対立で考えるものばかりではなく、主義主張が複数ある問題もたくさんあります。そういう時、何を基準にして何を良しとするかは場合によって異なり、その場合を決める基準もまた何かしらあります。その根源は人によって異なると思いますが、私はまだ結論を出すことはできていません。一応、仮の結論として「恋のパラドックス」論によって「好きな人の幸せ」というものもありますが、最近これが揺らいでおり、そして揺るがしているのは「自分自身の幸せ」であるため、また「恋のパラドックス」を生じさせているのです。
ちなみに「恋のパラドックス」は私が作った概念なので調べても出てきません、すみません。
えー、何の話だったかというと、現実には様々な主義主張の中から自分に都合の良いものを(無自覚に)選んで生きてる人が多いよね、まずそれを自覚することから始めよう、ということです。
その上で自分の選択に正当性を求める時、これも色んな考え方がありますが、私の場合は自分の利益に繋がらない場合は自分自身で信じることにしています。ただしこれも「恋のパラドックス」に繋がり得ることではあります。

さて、次に書きたいのはニュースピークについてです。
これは語彙を減らして思考の幅を狭くしようというのが印象的でした。
語彙というのは確かに増えていく一方のように信じられがちですが、実際に学会で語彙を減らすことが真面目に議論されています。
多様な表現というのは芸術分野に任せて、必要な言葉を学んだ上で考える対象について学ぶことに時間をかけるべきだ、とのことです。
反論として、思考の幅が狭まるということはすぐに思いつきますが、それを論理的に根拠を示しながら主張するのはなかなか難しいです。文系学問の曖昧性が弱みとなってしまっているように感じます。
尚、私自身もこの議論については最近知ったところであり、まだまだ勉強不足です。詳しい方がいらっしゃいましたら是非参考書などご教示くださいませ。

その他、細々と色んなことを思ったので、本文を引用しつつ書いていきます。

今起きていることは、何年も前から始まっていた過程の一つの結果に過ぎない。第一段階は密かに何気なく頭の中で思ったことであり、第二段階が日記を始めたこと。思考からことばへと移行し、いまやことばから行動に移ろうとしている。

これは当たり前のことですが、現実でとても大切な考え方だと思います。
特に私が常々感じるのは第一段階が失われている人がしばしばいるということです。現状に違和感を持つことすらせず、流れるままに生きています。それはそれで構わないのですが、変えようと思えば変えられるのに、初めから無理だと思い込んでしまって、考え始めることすらしない人がたくさんいる気がします。
まず自分の気持ちを大切にして、「思う」ことが大切だと思います。

どんなに思い出してみても、母は際立った女性ではなかったし、まして知的な女性でもなかった。しかし彼女には一種の気高さ、純粋さがあった。それはひとえに彼女が自ら用意した規範に従って行動したからだった。彼女の感情は彼女自身のものであり、外部からそれを変えることはできなかった。実を結ばない行動は、そのために無意味であるなどとは、夢にも思わなかっただろう。誰かを愛するなら、ひたすら愛するのであり、与えるものが他に何もないときでも、愛を与えるのだ。

この姿勢を大切にしたいと私は強く思いました。しかし「母」の末路を思うに、それすら綺麗事、理想論ということかもしれません。ただ、それは死を敗北とするからなのではないでしょうか。或いは「蒸発」することが敗北という方が正しいでしょうか。
確かに本当に「蒸発」してしまえば、哀れな末路かもしれません。でも少なくともこの時点では確かに主人公の心の中に存在しています。その主人公の心の中からも結局は消えてしまったかもしれませんが、同じように誰かの心の中に存在することは否定できません。
そしてその心の中の存在が、心の中で他の色々の物と混ざってその人を形成し、それがまた他の人の心の中に存在する。
そう考えれば「母」の存在は無意味だったと言えないでしょう。
先日読んだ平野啓一郎『マチネの終わりに』において、主人公のギタリストが、自分の影響力が無かったことに孤独を感じる場面がありました。主観的描写だったので実際のところどうかはわかりません。しかし仮に若き天才ギタリストが直接主人公の影響を受けていなかったとしても、主人公の影響を受けた人物の影響を受けている可能性は大いにあると私は思いました。
人間が個人として他者に影響できる範囲は多くの場合限られているかもしれません。しかしその影響は確かに残り、受け継がれゆくということを私は意識して生きていたいと思います。

最上の書物とは、読者の既に知っていることを教えてくれるものなのだ、と彼は悟った。

これは読書をする人にはよくわかることではないでしょうか。私は高校生の頃に坂口安吾の諸作品を読み、自分の考えが整理されて言語化されていることに感動しました(全てに共感したわけではありませんが)。
この作品においては、先に挙げた「二重思考」の話などがまさに当てはまります。つまり、この作品は「最上の書物」というわけです!
まあ残念ながら私の知識不足の為にその真価はまだ発揮されていないように感じますが……笑

「イギリス詩の歴史はその全体が、英語には脚韻を踏める語が少ないという事実によって規定されているんだ」

へー、そうなんだーと思いました。これって本当なのでしょうか?
脚韻というと、例えば「-full」という形容詞を作る語尾を使ったりできそうですが、逆に言えば脚韻を用いる時に末尾の品詞を合わせがちになり、文の構造が似がちということでしょうか。
漢詩だと文構造も含めて「対句」などと言ったりしますが……。
イギリス詩についてもいつか勉強したいなぁと思っています。

オブライエンはあらゆる意味で自分よりも大きな存在だった。自分がこれまで抱いた考えや抱く可能性のあった考えは、どれを取ってみても、オブライエンがずっと昔から知っていて、検証を加え、その上で棄却したものなのだ。彼の精神はウィンストンの精神を包摂していた。しかしそれならば、オブライエンが狂っているとは言えなくなる。狂っているのはこのウィンストンなのではないか。
(前略)オブライエンはウィンストンの千倍も熟知している。彼はそれをすべて理解してしまい、すべて計算してしまった上で、そんなことは問題ではない、究極の目的によってすべては正当化される、というのだ。ウィンストンは思うーー自分より高度の知性を持った狂人に対して何が言えるというのだ? こちらの言い分に十分耳を傾けながらも、自らの狂気じみた主張を押し通す人間に対して?

自分より明らかに格上の人間と対峙する時、人は臆病になりがちです。
現実にはオブライエンのように高度な知性をもって主張を押し通す人もいれば、高度な知性を持っているように見せかけて自分の土俵に巧みに持ち込んで偉そうぶる人もいます。
前者の場合は、為す術もないかもしれません笑。後者の場合は冷静になれば対処できます。
最近前者だと思っていたら後者だったという例がありました。部分的には権威を認め得る人に対しても、一つ一つの議論に対しては対等な立場で臨むことが大切だなと思いました。

感想

以上、長くなりましたがこの辺りで終わります。
結構長めですが、途中でハイパーリンクをつけて引用した『マチネの終わりに』はもっともっと長いので、興味がある方は是非ご一読下さい笑。

というわけで、最後まで読んでくださってありがとうございました。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?