読書感想文(195)瀬戸内寂聴『今を生きるあなたへ』(聞き手:瀬尾まなほ)

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回読んだのはオススメされた本です。
数日前にオススメされてすぐ通販で買って読みました。

感想

良かったです。
自分と考えていることが近かったので、画期的に新しい考え方はそれほどありませんでしたが、頭の整理になりました。
この場合、良いこと書いてあるなぁという感想は自画自賛に繋がってしまうのですが、まあ別に自分を褒めるのも悪いことではないかなと思っておきます。

自分の考えと近いところは、例えば見返りを求めないこと、「自分らしさ」が可能性を狭めること、本が考え方や生き方の方向性や指針を教えてくれること、自分の幸せより他人の幸せを祈ることなどです。

このうち、自分の幸せより他人の幸せを祈るという点において、思い出したエピソードがあるので書いておきます。
大学一年生の時、競技かるたの大会の前日に高野山金剛峯寺を訪れました。
そこでツアーのような一行がいたのですが、ガイドさんがこのような話をしていました。

お賽銭を入れる時、皆さんは何を考えますか。何か願い事を考える人もいるのではないですか。しかし、自分の為にお祈りをしてはいけません。他人の為にお祈りをしましょう。そうやって皆が他人の為に祈ることで、他人の祈りがあなたへも返ってきます。

おおよそこのような話でした。
横で勝手に聞いていた私は、素晴らしい考えだなと思い、五円玉を御賽銭箱に入れて、見たこともない誰かの為に祈りました。
赤の他人の為に祈ろうとすると、普段は考えないようなことを考えました。例えば、確かに自分よりももっと辛い境遇にいる人はこの世界に沢山いるよなぁ、とか。
当時どこまで考えたのかはわかりませんが、今この話を思い出すと、やっぱり普段はそういった人達のことをほとんど考えられていないように思います。
また、今考えても、その人達の為に何か行動を起こすことができていないし、できない、いや、行動しない奴だと思います。自分自身が生きるのも大変なことではあるので、無理はしなくても良いと思いますが、余裕のある時にふと思い出して、何かできればいいなとは思います。
その第一歩が、まず存在を知ること、意識することだと思っています。

話が逸れましたが、これが面白いなと思ったのは、寂聴さんは天台宗の教えを受けたそうです。そこが繋がったのが面白く、何年も前の話が今活きてくるから人生って面白いよなとも思います。

この話にもう一点付け加えると、最近の自分の御賽銭はエゴにどんどん近づいている気がします。
私はいつも五円玉を入れて、これまでの多くの御縁に感謝しています(私は本当に人間関係に恵まれています)。
しかし一方で、これからもどうか良い御縁がありますように、と御利益を期待してしまっている気がします。
少し前までは、そう思うたびに、「いや、できることなら自分よりもっと他の人に良い御縁を」なんて心の中で訂正したりもしたものですが、最近は全くそんなことを考えていませんでした。
今回この話を思い出したことをきっかけに、今後はもっと他人の為に祈ることを心がけようと思いました。

さらに付け加えると、宮沢賢治が熱心な法華経信者だったという話がありました。今、ちょうど新潮文庫の『新編 銀河鉄道の夜』を読んでいるので、偶然が面白かったです。

さて、この本について、或いは著者の考えについて、二点ほど揚げ足を取りたいと思います。

一つ目は「本当の恋愛」についてです。
著者は次のように述べています。

恋愛というのは、理屈ではありません。この人とつきあえばお金が入ってくるからとか、生活が楽になるからとか、そういう理屈で人を好きになるのは本当の恋愛ではありません。恋愛というものは、もうわけのわからないものです。とにかく好きになったら、その人に奥さんがいようが、恋人がいようが、そんなことに構っていられなくなります。

P29

この主張自体はよくわかりますし、一理あると思います。しかし、私はこれが「本当の恋愛」の全てではないと思います。というのも、私は恋愛というものは十人十色だと思っているからです。つまり、何を「本当の恋愛」とするかは、人によって違います。著者にとっては、上に挙げたようなものが「本当の恋愛」なのだろうと思います。しかし、そうではないものを「本当の恋愛」と考える、感じる人がいるだろうと私は思います。
ちなみに、恋愛とは何かという問いについては、スタンダール『恋愛論』が著名です。恋愛を四つに分類する方法は画期的ですが、これも完全に分断できるものではなく、それぞれの要素が組み合わさって各々の恋愛観を形成しているように思います。

もう一つ揚げ足を取りたいのは、仏様の存在を絶対視しているところです。
これも別に構わないのですが、そうじゃない考え方もあるよなと思いました。
もしかすると、有神論・無神論の話が参考になるのかもしれませんが、残念ながら私はほとんど全く知りません。

ここで、また一つ思い出話を。
これはいつの頃だったかわかりませんが、恐らく大学生の頃だったのではないかと思います。
私はとある神社を訪れ、おみくじを引きました。すると、そこには気に食わないことが書いてありました。何が書いてあったのかはわかりませんが、とにかく気に食わなかったのです。そしておみくじは大抵偉そうな上から目線で書かれていますよね。〜しなさい、みたいな。
そこで私は、そのおみくじを真っ二つに引き裂きました。その時の私はこんな風に考えていました。

もしおみくじが神様からのお告げなのだとしたら、私はそれを否定する。
自分は神に規定されるものではなく、自分自身が決めるものだ。
神が私をそのように言うのならば、私は神に反逆する。
これがその見せしめだ。

そう思って私はそのおみくじを真っ二つに引き裂いて、ゴミ箱に捨てました。
その時はちょうど自分のメンタルが最も強かった時なので、そのような大胆な行動に出たのだと思います。そしてメンタルが強かったのは、そうやって自分自身を守らなければならなかったのだ、ということも当時からわかっていたような気がします。

今、仏様や神様の存在を認めてもいいとは思っています。当然それによって救われる人がいるのはわかっていますが、自分自身も別に信じても構わない、と。
ただし、神様を自分より高位なものだと考えたくはありません。別にけなしたいわけでもありません。言うなれば、自分自身も同等に、大切なものとして扱いたいのです。
今、これを上手く表現することができないのですが、「神様と友達」くらいに捉えるのが、面白さもあっていいかなぁと思っています。

だいぶ長くなっているので、最後に二つ書き残して終わります。

一つ目は、嫉妬が少ないのは幸せだ、と書かれていたことです。
これはあまり自分で考えたことがありませんでした。
私は多分嫉妬が少ない方なので、幸せだなぁと思いました。

二つ目は、著者は断定的な物言いが少ない一方、いくつか断定的な言い方をしていたことです。例えば仏の存在、自殺してはいけない、など。
これは恐らくデカルトの「我思う故に我あり」などにも近い話なのですが、要はどこからを「正しい」と信じるかという話です。
数学的な正しさは別ですが、科学的な正しさは先人の知識や実験などの経験を信じることによって進んでいきます。
誰しも、演繹的に論理を進める時には、何かしら絶対的に信じる大前提があって、そこから出発します。逆に言えば、思考を逆に辿っていけば何故か信じている何かに辿り着きます。ビジネスなどで「why」が重視されるのは、これを打ち崩して新しい案を出すためなのだろうと思います。
では自分にとっての大前提は何なのだろうか、と考えました。深くは考えられていませんが、今のところは「他人に迷惑をかけない、ことを良しとする」といった所かなぁと思います。それ以外にも出てきそうな気はするので、考えてみると面白いだろうなと思います。

おわりに

思っていた以上に長くなってしまいました。
この感想文で3000字以上書くのは久しぶりな気がします。
それだけ良い本だったということなのでしょう。自分自身と近かったので、よく理解できたというのもあるかもしれません。

今回で読書感想文が195本目になりました。あと5本で200本になるので、少しわくわくしています。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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