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読書感想文 バトラー後藤裕子『英語学習は早いほど良いのか』

こんにちは。札幌で英語講師をしているアラと言います。

今日は読んで面白かった本を紹介してみようと思います。バトラー後藤裕子著『英語学習は早いほど良いのか』という岩波新書の本です。

本書は、書名の疑問、英語学習は早い時期から行ったほうが良いのかどうかについて、現時点でわかっていることを整理した本です。2015年の本ですが、ここ5、6年で日本人が急に英語ができるようになったとか、あるいは急にできなくなったという話は聞こえてこないので、本書の内容はそのまま今も通用するんじゃないでしょうか。

「子供は母語となる言語を自然に身につける。だから外国語も小さい頃から触れていれば自然に話せるようになるはずだ。」こういった考えは、ほぼ何の批判もなく、ひろく受け入れられていると思います。小学校でも英語が教えられるようになりましたが、それだってこのような考え方がベースにあったからでしょう。

本書は、その考え方を種々の研究を参照して検討していくものです。各研究の詳細とその含意が本書の魅力です。成果だけでなく調査方法の限界も明確に書かれているので、そこから導かれた結論にはとても説得力があります。もちろん結論といっても暫定的なものです。なんといっても、人間の言語にはまだまだわからないことばかりですからね。

早々に結論を言ってしまうと…

では英語を学ぶのは早ければ早いほど良いのでしょうか。それは、It depends. 場合によります。仮に幼児期に英語圏に移住したとしても、そこから英語で高度な言語作業ができるようになるためには、さらにいろいろと乗り越えるべき条件が必要なようなのです。学校だけでなく家庭内でも英語を使うとか、本人に英語を学ぶ意欲があるか、とか。

どうしてこんな曖昧な結論になってしまうのかというと、言語能力を測ること自体が難しいからです。会話の能力は言語だけでなく、社交性とか自分の容姿に自信があるかなど実に様々な要因が絡むでしょうし、文法の能力は、問題には正しく答えられるがなぜ正しいのか説明できないケースをどう捉えるのかが結論を大きく左右しそうです。実施するテストが違えば結果もちがうので、あるテストでは早くから学習した子が高得点をとり、また別のテストでは逆の結果になったりしているのです。

日本語だって勉強したから出来るんだ

私たち日本人は、何年も学校に通って勉強してようやく、難解なことで有名な評論家の文とか、入試で出たら受験生が悲鳴を上げる作家の作品とかを読めるようになるわけです。もちろん、必ずしも理解できるというわけじゃなくて、あれこれ勉強して、とりあえず書いてあることはわかるようになるわけです。英語だってそれは同じで、いわゆる「英語がペラペラ」の人だからといって、スティーブン・ピンカーとかデヴィッド・グレーバーの本を読めるとは限らないわけです。小林秀雄の文章を読むのに日本語だけ勉強をしていればいいわけではないのと同様、英語だけ勉強して、世界中の人々の考え方に影響を与えるような本が読めるようになるわけではありません。いろいろな分野の教養が必要なのです。当たり前といえば当たり前なのですが。

個人的な結論

本書は改めてこの当たり前のことを教えてくれたと思います。僕が本書から勝手に受け取った結論は、英語学習にかかわらず、勉強には意欲と継続が一番影響力を持っているということです。そして、学習の開始年齢がどれほど勉強の成果に影響するのかは、依然不明であると感じました。個々人の差が大きすぎて何とも言えない。そしてこれは、外国語学習に楽な方法なんてない、ということを示唆していますね。才能も環境も大事だけど、本人の努力も大事、ということなんじゃないでしょうか。もっとも、楽な方法がないからといって、別に苦しまなければいけないわけでもないとは思います。英語や英語圏の文化に関心があれば意欲も湧くでしょうから、勉強の楽しみもでてくるはずです。

要は学ぶ意欲がないまま英語に囲まれた生活を送っているだけでは、職業的に意味があるレベルの力は身につかない、ということでしょう。ほぼあらゆる分野のことに当てはまっちゃいそうな話なので、果たしてどれだけ意味があるか怪しい結論ですが。

今言えるのは、決まったやり方なんてないから自分の興味を大事にコツコツ頑張ろう、ということです。普段中高生を相手にしていると、驚くほど多くの子が、日々コツコツやるのが大事、ということを理解しています。それでも大抵、どこかにもっと楽な方法があるのではないか、と期待し続けて勉強のスタートが遅れます。「楽な方法なんてないよ。」と大人が言ってあげることが良いきっかけになることもあると思います。嫌われちゃうことも多いですが。

おまけ

もう言いたいことは言っちゃったんですが、付け足し。本書の終盤に、韓国の小学校で英語教育を導入する際の現場を取材した話があります。韓国は日本に先んじて小学校での英語教育を開始したのですが、そのために掛けたお金と労力はなかなかのものだな、と思いました。小学校の先生方がかなりみっちりと英語の研修を受けていたのです。教える側の英語の理解度が上がらなければ、わざわざ小学校で英語を教える意味がない、という決意を感じました。僕は、結局「良い先生」というのは科目の知識が多く理解度も高い先生だろうと思っているので、そこにダイレクトに手を打つのが一番子供たちの学力に効く政策だと考えています。もちろん生徒一人一人の努力量こそが学力を決めると思っていますが、それは正直政策のターゲットにはなり得ないでしょう。人権侵害になっちゃいそう。政策的にできることは、なるべく良い教師をつける、ということだと思います。そこにお金を使わなければ、最新の教授法を導入してもあまり見るべき成果はでないのではないか、と危惧します。

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