何もかも具体的じゃなくて憂鬱な夜に~遅れてきたコロナ禍~

最近の僕は、グレてます。

今日日真顔で「グレる」って言葉を使う人もすくないそれが適切な形容な気がします。

もっと言葉を噛み砕いて説明すると、僕は「グレる」というのは、

「世界に対して拗ねている」状態だと思っていて。

最近は、自分の周りの停滞感に、対抗も反抗もできずに、拗ねています。

世界は大きく変わった

3月とか4月とか、流行り病のせいで世界が文字通り「病んで」いた時期。

僕はある程度のショックを受けつつも、「こうなったからには出来ることをやるしかない」という反骨精神のもと、むしろアクティブにいろいろなことを考えてました。

バンドとして今こそアイデア勝負だからいろいろ考えてみよう、

手を出していなかった長編の作品を鑑賞してみよう、

これまで一緒にものをつくったことのない人たちと企画をやってみよう、

新学期始まったゼミでの活動に力を入れてみよう。

母親からの「世の大学生はみんな大変みたいだけど、怜は気を病んでいない?」という心配をよそに、精神的にははつらつと過ごしてたわけです。

そこから半年近く経って、本当に世界は大きく変わりました。

オンラインの授業はさらにできることが増えて、それを少しずつ学生も受け入れ始めたし、

ライブハウスの多くには配信設備が導入されて、配信のクオリティは大きく上がりました。

あれだけ待ち望まれていたオリンピックは中止になって、

マスクをしないで行ける場所はなくなった。

上げればきりが無いほど世界が変わったと思います。

そして、半年前に準備を始めていたものたちも、続々と公開でき、受け取ってもらうことができました。

なのに。

世界はこんなに変わっているのに、僕の暮らしは、僕の周りのセカイは、この自室を中心として全然変わらない、という思いが募っていきました。

セカイは停滞している

本名で活動をしている以上、言動と行動には人一倍気を使っているので、「自粛疲れ」と言われればそれまでなのかもしれないですが、それ以上に、得体のしれない圧倒的な停滞感が、しんどい。

たくさん映画を見れば、なにか

いままでになかったタイプの企画をしっかり形にすれば、なにか

こんな状況でもいつもと違う人と関わる機会が増えれば、なにか

サークルはできなくなったけど、その分個人練習で好きなバンドの曲をコピーすれば、なにか

(ずっと育ててきた曲のMVを公開すれば、なにか)

流行ってるゲームのサブカル的な知見を書いてみれば、なにか

アウトプットに気分が乗らない時期が来たから、noteからしばらく離れてみれば、なにか

変わると思ってたんですけどね。

逆にいうとそれまでの期間はずっと何かしら前進感があったと思ってるということでもあるんですが。でもしんどい。

別に、成果がなにも上がらなかったわけではないんです。僕のことを応援してくださる皆さんには、ちゃんと受け取ってもらえていて。

反応も頂いて、それはとても嬉しいのだけど、圧倒的な停滞感がどうしても拭えないんです。

全然変わらなくて、全然進めなくて、拗ねちゃってるんですよね。

ここまで書いてきてることが、状況の羅列であって、なんでしんどいのか具体的じゃないのも、しんどいポイントです。

「具体性のなさ」に苦しめられて

「具体的じゃない」、みたいなことって今の時代性のキーワードだと思ってるんですけど、まさにそこに苦しめられている感じがします。

ちょっと脱線しますけど、僕は「エモい」という言葉にまつわる議論の最先端をずっと走っている(と自称して)いて、最近また認識がアップデートされました。

僕はずっと、若者の感覚に言葉の実装が追いついてないが故に、現状の日本語で「えもいわれぬ」感情のことを「エモい」って読んでるとしばらく主張してたんですけど。

でもなんか、ここ最近世の中で使われてるエモいは、もうそんな感じじゃないなぁって思うんですよ。

「エモい」って言葉は段々と、「具体性を欠いてるけど、いい」って意味になっていったなと感じています。

具体的な作品は思い出せないけど、具体的な人は思い出せないけど、なんかこういう「いい感じ」のビジュアルとか、雰囲気とか、言動とかってあるよね→「エモい」ね。

的な。

地雷系メイクとか、TikTokで画像や動画の加工を教えている動画とか、新海誠っぽい構図とか、女の子が泣いてるバンドのMVとか、花言葉とか、寝落ち通話の募集とか、インスタのストーリーとか、

ぜんぶ「具体的でないけど、いい感じ」のもの。そういうものたちに「エモい」って言葉は飲み込まれて行ったなと思います。

話を戻すと、僕はこの「遅れてきたコロナ禍」によって、「具体的でないもの」とか「具体的でない感情」に疲れたんだなと思います。

本当に物理的に景色が変わることが少なくなったから、周りの状況の変化も具体的じゃなくなったし、

(特に個人の活動において)伸びる伸びないとか、売れる売れないとか、そういう具体的じゃないロジックを考えるのも疲れたし。

そしてやっぱり、得体がしれないから流行病は怖い。

罹患しても症状の出ない人もいて、でも人によっては重大な症状が出る。その実態の不確実性も、具体的じゃない。

なのに僕の周りは、(自分視点)「根拠のない自信」みたいなものでなんとかこの状況でもやってくしかないよ、と前に進み始めている。

ちゃんと対策すればできることが増えるのはわかってるし、僕もその場にいるときは一緒に頑張りましょう!って思うんです。

でも今の自分のセカイの中心、自室に帰って来て我に返ると、「本当にそれでいいのか?」って思うんですよ。

自粛にいくら疲れようが、毒性が弱まったわけでもなんでもないし。

いちいち判断に迫られなきゃいけないし、その価値基準が具体的じゃないのが、もう本当にしんどい。

「コロナ禍」なんて言ってられないムードの世の中で、僕はまだどう判断していいかわからなくて、辛いです。

でも、黙ってて打破できる停滞感ではないなと、そうおもったから、とりあえず「言葉にして」抗おうと思いました。

僕と同じく「具体性のなさ」に苦しめられている人が、読んでどこか寂しさが紛れたら嬉しいです。

もしいたら、一緒にお酒を飲みましょう。オンラインでもなんでも、お付き合いします。

ここまで読んでくださった皆さんには、もう完全にストレス発散のために書いた文章だから申し訳ない思いでいっぱいです。

けど、これだってエッセイだと思うし、こういう感情をTwitterという140字に加工して具体性を欠如させなきゃいけない場所で書かなかったことが、唯一の救いかなと思います。

でも、これが書けたから、少なくとも一歩前進のような。

と、いかにも「エモい」締め方で、今日は終わり。

それでは。

【最後まで読んでくださった方へのおすすめ記事】

所属バンド、底なしの青の最新MV「ホロウ」はこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?