H&Mに行った

僕はH&Mに行った。

日本を経って半年が過ぎた頃、デリーのゲストハウスで起き上がれない日々が続いた。インド特有の激しい腹痛のピークは過ぎたが、どうも起き上がれないでいる。腹が減れば近所の食堂でおきまりのカレーを食い、トイレでおきまりの喘ぎ声をあげたのち、ベッドで天井を見つめていた。

インドに来て何週間が経ったのだろうか。小学4年生の時、家族旅行でムンバイとゴアを訪れて以来のインドだ。急激に成長を遂げているらしいインドは、10年も経つと確かに空港も店のトイレも、格段に綺麗になったように見える。ファストフード店も、アパレル店も、世界中の都市で見られる店が立ち並び、富裕層を楽しませている。インドの富裕層の購買力はすごいのだ。

そういえば大学入試の面接で、面接官から「アジアに進出している多国籍企業の問題点は何か」と問われ、17か18だった自分は「工場で労働力を搾取している事です」と偉そうに答えた。より安く、より大量に商品を作り世界中で売り捌くいわゆるファストファッションの事だ。「どこで?どの企業が?」と問われ、「インドやバングラデシュです。H&Mやユニクロがそうです」と答えた。どうしたら日本の企業はもっと外国市場で稼げるようになるのか答えるべき質問だったことは、面接が終わった後に気知り、恥ずかしく思った。しかし、もっと恥ずかしかったのは、「本当にそうなの?」と面接官に聞かれ、「そうです。たぶん。」と言葉に詰まった事だった。

そうだ。せっかくインドへ来たんだ。H&Mへ行こう。ベッドから天井を眺めていた自分は立ち上がった。H&Mへ行こう。

久しぶりにPCを開き、HPで住所を調べ上げ、地下鉄を乗り継ぎ、人力車の兄ちゃんと捕まえてH&Mへ向かった。思い立ったら吉日とはよく聞くが、だんだんと日が傾き始めているが気にしない。薄暗い人混みの中を進み続けて目的地が見えた時、ハッと息を飲んだ。垂れ流される汚水、燃やされるプラスチックの鼻を突く悪臭、ボロ切れをまといながら肩を寄せ合って生きる人々。あたり一面は工場地帯らしく、様々なメーカーが集まっているようだった。突如現れたでかいレンガ造りの壁は、まるで監獄のようだ。これまで見て来たインドの姿とは、何かがはっきりと違う匂いがある。

レンガの壁には、メモしてきた住所がはっきりと刻まれている。これがH&Mか。

レンガの壁を歩き回り、中へ入れそうな場所を探す。バイヤーだ、などと適当に嘘をつき、工場の一つに入る。一面ミシンが並び、髭面の男たちが一心不乱に作業を続けている。アパレル工場といえば真っ白で明るい工場で何百もの女性たちがロボットのようにミシンを踏み続ける場面ばかりを想像していたが、薄暗い監獄のような場所で、ホコリまみれの男たちがミシンに向かう工場もあるのだな、と馬鹿げた感想を抱きつつ、工場内を歩き歩き続ける。50か60、はたまた40歳くらいなのか。一人のおじさんがミシンの前で突っ立ってこちらを見ている。髭面のその男は、力の入っていない目で、しかしはっきりと僕の目を見ている。何かを必死に訴えているようにも見えるし、お前に話すことは何もない、と突き放してくるようにも見える。

少し身なりの良さそうな男が話しかけてくる。どこから来たんだ、バイヤーなのか、なにを見に来た。適当に返していたが、髭男の眉間にだんだんと皺が寄ってくるのが確認できた。「やばい。バレてる。」適当に話をそらし踵を返す。レンガを出てからリキシャを降りた場所まで一目散に走る。すっかり日がくれ、工場で疲れ切った男たちが地面で燃やす焚き火のあかりだけが頼りだった。悪臭漂う暗闇の中、ギョロリとこちらを睨む男たちの目がその場の空気をさらに強張らせる。リキシャにたどり着いた僕は疲れ切っていた。

汚い路地や、貧しさに喘ぐ人々は、数え切れないほど目にしてきたつもりだったが、たった今見た景色はこれまで見て来たインドとは、何かが決定的に違うものだった。見てはいけないものを見てしまった気分だった。

インドを去り、タイやラオスを巡った後日本に戻った僕。あの日インドでH&Mに訪れて以来、僕はファストファッションを一切買わなくなり、オーガニックでサステイナブルで作り手が丹精込めて作った服にしか袖を通さなくなった、と言えたらどれほど気持ちが楽だろうか。しばらくして働き始めた僕は相変わらず定期的にユニクロやH&Mに通っている。この文を綴っているたった今も、どこかの途上国の薄汚い監獄のような工場で、埃まみれの男たちがせっせと縫い合わせたであろうパンツを履いている。多国籍企業の問題点は、途上国の労働者を搾取していることですと話した僕に「本当にそうなの?」と問うた面接官。今の僕はなんて答えるだろうか。本当に悪いのは、搾取する企業なのか?それとも不平等な世界の現実を知らずに安い服を買い続ける消費者なのか?はたまた、劣悪な労働環境を目にしたにもかかわらずそこで作られたパンツを履き続けるおまえじゃないのか?インド製と書かれたタグを見るたび、あの日工場で僕の事をじっと見つめていた髭面の男の目が、そう僕に問いかけてくる。あの目は、僕に何を伝えたかったのだろうか。その答えはわからない。それでも僕は、H&Mに行った。


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