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【新宿区】「映画・君の名は。」と東京三大貧民窟と甲州街道の防衛線

東京時層地図・四ツ谷 須賀神社

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2019年6月訪問

今回は「君の名は」の舞台となった四谷の須賀神社近辺を東京時層地図で探る。

「君の名は。」は主人公の瀧くんと三葉ちゃんが、ときには瀧くんの身体に三葉ちゃんの心が入ったり、三葉ちゃんの身体に瀧くんの心が入ったりして織りなす青春ラブストーリーだ。

重要なキーワードとして万葉集の一節がある。

たそかれと われをな問ひそ ながつきの つゆにぬれつつ 君まつわれそ

「貴方の事を待っている私に、あなた誰ですか?なんて聞かないでください。」

という歌である。

誰彼わからなくなる時間帯の事を劇中ではカタワレ時といっている。


この物語には仮のタイトルある。

「夢と知りせば(仮)男女とりかえばや物語」

思いつつぬればや人のみえつらん 夢と知りせばさめざらましを

古今和歌集第十二 恋歌二 小野小町

思いながら眠ったからあの人は夢にでてきた
夢だと知っていたならば目を覚まさなかったのに

という歌だ。

小説中でも瀧くんと三葉ちゃんの入れ替わりが突然なくなったあとに、瀧くんは眠る前に三葉ちゃんを強く思いながら眠りにつくのだが、結局は出てこない。

好きな人の夢を見た後の切なさは時代を超えて普遍的であり、設定も男女の入れ替わりが夢で行われるという仕組みなので、この題名が付いていたようだ。

男女が入れ替わる話はけっこう古くからある。

12世紀半ば以降に作られた「とりかえばや物語」

とりかえばや=取り替えたいの意味。

さる権大納言の家庭にうまれた瓜二つの腹違いの姉弟が、生まれながらに性的役割を逆転して、

女性は男装し(女中納言)男性は女装して(男尚侍)生活をしていたが、宮の宰相というのが絡んできて、

女装の男尚侍に肉体関係を迫り、また男装の女中納言の正体を女だと見破り、妊娠させ子供を産ませると言う昼ドラみたいな展開。

男装のまま赤子を産むシーンが当時(平安時代)話題になったらしい。

紆余曲折あったあとこの男女は19歳で再会し、そこでお互いに役割を入れ替えて女性は女性、男性は男性として生きることになった。

その後は男性は関白左大臣となり、女性は帝の子を産んで国母となって表面的にはめでたしという話。

なんかこういう設定は今でもよくある気がする。

男女の入れ替わりって普遍的物語なんだな。

「君の名は。」は万葉集、古今和歌集、平安時代の物語と普遍的三重奏といってもいい。

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君の名は。のエンディングでは瀧くんは新宿駅南口から、三葉ちゃんは千駄ヶ谷駅から、この須賀神社の階段まで走る。

瀧くんは階段下、三葉ちゃんは階段上。

私は新宿3丁目から歩いていったのだが、この須賀神社までどこをどう遠回りしたら、階段下にたどり着けるのか。

新宿から来たら瀧くんは階段上になるんじゃないのか。

もし何かに突き動かされながら走っているとしても、横丁に迷い込んだ時点で不安で仕方ない。

もう私の脳内がつまらない大人化している。

わかってるんだ。フィクションなんだ。現実をアニメにしてるわけじゃないんだ。

お互いの姿をすれ違う電車の中で見かけた二人は駅を降りて駆け出し、3、4kmもスーツで走って階段にきた。

ここしかない、やるしかない。

振り向いて、イッセーのせでタイミングを合わせて

「君の、名前は、」

でハッピーエンド。きた。眩しい。

桜の季節に青い空が美しい。

胸が苦しい。青春ラブストーリーだ。

僕はこんな眩しい青春はひとかけらもなかった。

というか「秒速5センチメートル」でもそうだったが過去に引っ張られすぎなんじゃないか。

須賀神社はいまでも人気で、海外の観光客のスポットになって若者が多く集まっていた。

その中の1人が携帯か何かで、海外流行歌謡曲だろう音楽を流しながら闊歩していた。

異国の地でこれが我が国の最先端なんだと言いたい気持ちはわかる。

高低差がすごい。谷になっているのがハッキリわかる。

ここにはかつて海が入り込んで来ていたのだ。

海!海辺、貝塚、遺跡、社寺仏閣!!

中沢新一アースダイバーの方程式が当てはまりそうな場所だ。

これは縄文の遺跡があると思って東京都教育委員会のHPを見たところ、基本的に四谷近辺は縄文遺跡はあんまりない。

若葉一丁目に貝塚はあるのだが。ああ、三葉ちゃんと若葉もちょっとかけてあるのね。

東京都教育委員会のホームページより 緑色の丸がこみあたりが現在地

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縄文時代に大繁栄していた青山墓地と何が違うのか。
地形なんてよく似ているし、場所もそんなに違いはないのだ。

ほど近い新宿御苑は内藤町遺跡といって縄文前期から後期の遺跡が出ている。

結局の所、ある程度の広い土地ではないと諸事情で遺跡は出ないのかもしれない。

この辺りは戸建も多い。

なんか出たからといっていちいち中止していては工期が遅れるし、なんといっても遺跡の発掘費用は地主持ちなのだ。

「出てきた!やったね!」じゃなくて
「見ないことにしよう」の世界だろう。

「あるけど出ない」というのが、いままで回を重ねてきた中での結論だ。

須賀神社、ちょっと西には四谷怪談で有名なお岩稲荷田宮神社がある。
赤いラインが須賀神社の階段で緑の印が観音坂

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歩いたルートは四谷三丁目から須賀神社に行って、信濃町経由で帰ろうと思っていたのだが、

観音坂を登って四谷中学校まで行ってもどり、たい焼きわかばでたい焼きを買って、タップ整骨院前を通り、さかもと屋でカステラを買って、よつや児童遊園でちょっと遊んで、新宿通りを四谷三丁目まで戻ってきた。

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たいやきわかばのたい焼きはあんこがたっぷりで美味しい。座席で食べることもできる。

事前に調べているわけではないので、後から見るとお岩稲荷や服部半蔵の墓を素通りしていたりするので惜しいことをしている。

ある地点で画像をキャプチャして、街歩きして地図は後で見ましょうというのが現在のスタイルなので、なかなかイヤイヤ期の2歳児を連れて自分の思い通りというわけにはいかないのでしょうがないといえばしょうがない。


観音坂は結構な坂道。

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江戸時代以前には四谷周辺は潮踏みの里と呼ばれており、谷の部分に位置する真成院の観音様の台座が湿ったり乾いたりしていたらしい。

地形図をみると、やっぱりこのように谷間があり、海が入ってきていることを表している

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遺跡がザクザクでても良さそうな所だが、結局は遺跡が見つかったといっても広く敷地の取れる場所だ。個人宅や細切れになった土地からはあまり遺跡は見当たらないが、実際には広範囲に遺跡だらけだろう。

文明開化時 1876-84(明治9~17年)

江戸時代末期1857年ごろの地図を見ると「牛頭天王 別当宝蔵院」だったがこの時代は須賀神社と書かれている。

赤いラインが現在の階段のある場所だが、この時代の地図からは明確に確認はできなかった。

崖っぽい上に道路も繋がっていないからないのかな?

須賀神社というよりも勝興寺の裏手のように見える。

勝興寺は幕府の試し斬り御用を務めた首切り朝右衛門の墓がある。

黄色ラインは新宿通り、あとでも書くが--------は玉川上水の暗渠。青いラインはお寺が並ぶ門前通りを形成している。

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この辺りは四谷区と称されていた。

社寺仏閣が多い。寺をこのように集めるのは江戸時代の政策。
1640年くらいの外堀工事で麹町から強制的に移転させられたものであるらしいが・・・外堀工事というのは城の守りを固めるための工事、寺の移転は他の目的があった。

寺の集合体は幕府にとっての万が一の時の防衛線となる。

大きな建物や、林立した墓石が要塞となって敵を食い止めて、攻めるも守るも時間を稼ぐことができる。

なるほど!!

前回の三田では江戸時代の政策として寺が並んでいた。

どういう意図の政策として寺が並んでいるのかはわからなかったが、三田の場合は江戸から地方への東海道の玄関口である高輪大木戸があり、その北側には神社がズラズラと並んでいた。

なんでなんだと思っていたが、三田は東海道の防衛線だったのだ。

1857年頃の地図だと、三田の寺群の後ろに控えるのが現在の慶應義塾大学近辺にあった松平容保邸。
松平容保は水戸徳川で御三家の一つであるので、古くから重要な守りの要を担っていたというわけだ。
前回の謎が今回でとけた。

東海道からの江戸城への最終防衛線は三田から川を隔てた増上寺のある芝公園だろう。まだ行っていないので是非行きたい。

そして日光街道の最終防衛線は上野にある徳川の菩提寺、寛永寺となる。

これも先回調べて、江戸期には上野の山全部が寛永寺だったことがわかった。

ちょっとオカルティックに江戸城の鬼門に位置する北東に寛永寺を設置し・・・という感じで語られているが、実務的な意味でも日光街道からの最終防衛線が寛永寺であることは間違いない。

そもそも鬼門の発想自体が、中国で北東から異民族がやってくるという発想なので、防衛に備えるというのは理にかなっている。
形を変えた戦いになったが戊辰戦争でも上野が舞台になっている。

寺は有事の際の防衛拠点にもなるのだ。

そしてここ四谷に関しては新宿御苑の橋、サンミュージック近くに四谷大木戸跡があり、江戸とそれ以外との境界線であり、四谷の社寺仏閣は甲州街道の防衛線となる。

この四谷の谷の部分も寺が二列の構造になっている。それだけではなく、武士を集めている大縄地があり、伊賀忍者出身の服部半蔵の墓があるのも四谷だ。半蔵門近辺に住んでいた伊賀者が江戸城工事のさいに四谷に移された。

なるほどなぁ 江戸城は外堀内堀だけでなく、さらに外側にも防衛線を張り巡らせていたんだ。まさに日本一の名城と言える。


地図を見ていると変化は予測できずに、突然やってきている。

例えば関東大震災前までは四谷は新宿より数段栄えていた繁華街だった。偶然の変化の連続だ。

目を転じて新宿通り。
栄えていた様子が地図上からでもうかがえる。

江戸時代には四谷からの新宿通りは玉川上水の暗渠になっていた。

この時代の地図でもなごりがある。地図で黄色い線を引っ張ってある場所に--------と表記されているのがそれ。

工事は1654年。この時代世界有数の給水事業といえる。

四谷には大商店が並んでいて、新宿に住む人は四谷に買い物に出かけ、四谷の寄席を聞きに行き、うまいものを食べにでかけた。

明治36年の伊藤銀月の最新東京繁昌記には

「この区の繁華は物価低廉的繁栄也 この区の趣味は物価低廉的趣味也 人間らしき人間三分五厘 馬糞に着物を着せたがるが如き人間六分五厘 山手一番の商売繁盛也。」

とある。物価の安い四谷、住みよい四谷、お祭り、呉服、瀬戸物、活動写真、相撲の巡業の小屋がかかったのも四谷だった。


現在の信濃町近辺ではまだ水辺が残っている。

永井邸と言うのは1857年くらいの地図を見ると奈良の 大和新庄藩 永井若狭守直幹と書かれている。

永井邸の周りは茶畑が多く、谷には水があり、なんとものどかな様子がうかがえる。
鳥居のマークがある(緑色でマーク)祠があったのだろう。

今の地図と見比べて、あれ?っと思うのはお岩稲荷がない。
時代を下っていてもバブル期まで地図上に見当たらない。
四谷怪談で有名だった神社じゃないの?

これには理由があって1879(明治12)年に左門町内の火災により社殿が焼失し、中央区へ移転。1952(昭和27)年再建ということらしい。

田宮家のお岩さんが婿の伊右衛門の浮気に気が触れて行方不明になり、その後関係者が全員死ぬ物語だが、別な話もあり、伊右衛門とお岩さんは仲良く、家に伝わる稲荷を信仰し、田宮家は再興、お岩稲荷は評判になったという話だ。

実在したお岩さんから200年後の鶴屋南北が前者の話と当時の殺人事件を結びつけて、四谷怪談を作って大ヒットした。

明治末期 1906-09(明治39~42年)

路面電車が走り始めた。

赤丸に松平邸が出現する。松平直亮伯爵邸だ。旧松江藩藩主で、神楽坂の屋敷から永井邸に引っ越したと表記するホームページもあったが、場所はどうやら少し違う場所に建てた。

須賀神社の東側の道はこの時代にできた。

おとりさまといえば、今では新宿の花園神社が有名だが、昔は須賀神社の方が盛大で歴史も古かった。

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若葉町の旧町名は鮫河橋谷町という。

ちょうど谷になっているこの部分は、非公認の遊郭が江戸時代の天保年間(1831~1845年)で取り潰しになるまであり、明治から昭和にかけては東京3大貧民窟となっていた。

明治26年に二葉亭四迷や幸田露伴とも親交のあった松原岩五郎が著作「最暗黒の東京」の中で鮫ヶ橋にきてこの地域の親方に頼み込み、残飯屋で働かせてもらってルポタージュを書いている。

なぜ残飯屋かというと、北側には今の自衛隊市ヶ谷駐屯地の場所に東京鎮台と陸軍士官学校があり、ここで出た残飯を回収して量り売りしていたのだ。
一日中働いて残飯を買って鍋を借りて布団を借りて木賃宿に泊まったら、もうその日の稼ぎは無くなる生活が110年前にはあった。

明治32年に横山源之助は著作「日本の下層社会」で四谷鮫ヶ橋、芝新綱町、下谷万年町の3地区を東京3大貧民窟としてあげている。

毎日新聞の記者でもあった横山源之助は、明治28年(1895年)1月2日に鮫ヶ橋谷町二丁目を歩き、見かけた女性にインタビューした。

「はぁ、なんでこんな酒飲みの旦那と結婚してしまったんだろう、悔しくて仕方ない。こんなんじゃ将来の希望はないから、別れようと思ったけれど結局別れられないんだ。今度こそ別れたいと思うんだけれど・・・また元に戻るんじゃないかと心配だ。あんたどう思う?」

すると子供がやってきて

「おかあちゃん、おとうちゃんがベロベロに酔って、お昼なのにおかあちゃんがいないって怒ってるよ」

女性はため息をつきながら帰っていく。子供の泣き叫ぶ声が聞こえる。

今から125年くらい前の話だが、なんだか今でもありそうな話だ。

この2冊は明治期の記録文学の傑作として評価が非常に高く、今の時代も新品で購入できる。

このあたりの事を調べるまでは全く知らなかった。

おそらくこういったことは新海誠監督は知っていて、暗に織り込んでいるのかもしれない。

もちろん「君の名は。」は大衆ウケに重きを置いた普遍性の三重奏だから、そういうことは出ない部分かもしれないが。

なぜ?主人公が若葉の名前をもじった三葉だったり、そもそもなんで須賀神社の階段なのか??

こうして読者にいろいろ検討違いな事を妄想させるのもエンタテインメントの内なのだろう。

「君の名は。」の次作である「天気の子」の須賀さんのセリフに新開誠監督の思いが集約される。

「あのなあ、こっちはそんなのぜんぶわかっててエンタメを提供してんの。そんで読者もぜんぶわかってて読んでんの。社会の娯楽を舐めんじゃねえよ。」

「君の名は。」をほうぼうで批判されて、頭にきて自分の好きなものを作ってやる!となったらしい。

ちなみに現在の若葉は高級マンションがポツポツと立ち並んでいる。

谷が生活環境が悪かったのは昔の話で、今はどんなところにでも埋立地だってなんだって、岩盤まで杭を打ち込んでマンションを建てるので関係ない。

むしろ土地代は他のところと比べて安かったりして建てやすいのかもしれない。今再開発が進んでいるところも、昔は住むにはあまり環境が良くなかったところが多い。

今じゃ砂漠にだって超高層ビルが経つ。


関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)
関東震災前の地図は本当に美しい。

震災後に被害の多かった浅草や銀座の商店が、新宿にうつり、新宿は爆発的に栄える。
四谷と繁華街としての立場は逆転することになる。

鮫河橋谷町は谷町と名称を変える。

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昭和戦前期 1928-1936(昭和3~11年)
戦前。手書き感がある地図だ。
この辺りは1944~1945年の空襲で信濃町付近をのぞきあらかた焼ける。青いラインより上は全部消失している。
一般市民の多く住む所はほとんど焼けてしまっている。

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高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)
「文化放送♪~文化放送♪~JOQR~♪」でお馴染みの文化放送が四谷にできた。
もともとはキリスト教布教のための組織だったようだ。建設当時は修道院兼用で本格的な聖堂もあった。
文化放送の吉田照美のやる気MANMAN(1987年4月6日 - 2007年3月30日)はよく聞いていた。松平ホテルは1949年開業、1960年閉鎖。

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バブル期 1984-1990(昭和59年~平成2年)
新宿通りは拡張工事がなされて今のように広々とした道路になった。

反対に横丁はあまり道路の幅は変化がないように見える。

若葉2丁目の谷になっている様子がよくわかる。

外苑東通りの標高33mに対して、谷の部分は表記が見えないけれど20mと高低差がある。

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最後に新海誠監督の言葉を引用。

「自分の住んでいる場所が好きじゃないとか醜いと思いながら、何年もその場所に暮らすことってたぶん、人はできないと思うんですよね。この場所で生きていくためにも、積極的に美しいと思えるものを見つけなければやっていけなかった。」

これは小説「君の名は。」の瀧くんのセリフそのままではないか。

「御社を志望いたしました理由は、私が建物をいえ、街の風景を、人の暮らしている風景全般を好きだからです。」

そうなのだ。私だって東京が好きだ。とりわけ東京時層地図でたどりはじめてから好きになった。
古地図をたどることで、その土地との親和性が高まるのではないかとおもう。

参考図書

「新日本古典文学大系26 堤中納言物語 とりかえばや物語」
「小説 君の名は。新海誠」
「新海誠展」
「江戸・東京 歴史の散歩道2」
「江戸東京 街の履歴書3 斑目文雄」
「日本の下層社会 横山源之助」

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