【渋谷区】道玄坂、800年の陰気(言いすぎか)
道玄坂ユニクロ
道玄坂
道玄坂といえば坂の上のラブホテル街が有名です。
この日も昼間から、共通点のなさそうな年齢差のある男女カップルが坂の上のホテル街に消えていきました。
また他では、ちょっと田舎から出てきた感じの若い母子連れを、丁寧に案内しているスーツの男。果たしてどういった事情なのか。
また別の話ですが上の写真を見てください。とくに意識せずに道玄坂を撮影したら、ジャージの男がコチラをにらみつけているではありませんか。嫌だな。こわいな。
一言でいって陰気な場所
なんだか長くは居たくないなという空気があります。でも繁華街ってそういうものですね。
今回はH&Mからユニクロに向かいました。
ユニクロには年末セールの子供服を買いにいったのですが、なんとなんとキッズ売り場なし!!!
しかもキッズ売り場があるのはここから一番ちかくて新宿なんだとか。今はキッズはネット販売が主流なんですね。
昔、道玄坂2丁目の交差点にあったドン・キホーテの周辺一帯が再開発工事をしています。
116メートル、地上28階建ての複合施設で、1~3階が店舗、4~10階がオフィス、11~28階がホテルで開業が2023年春予定。
渋谷区道玄坂二丁目開発計画(仮称)
○所在地 :渋谷区道玄坂二丁目1番6号
○建物高さ:116メートル(地上28階建、地下1階)
○主要用途:店舗、事務所、ホテル、駐車場、駐輪場
○敷地面積:5737.48平方メートル
○延床面積:40,950平方メートル
○事業主 :株式会社パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス(旧 ドンキホーテホールディングス)、有限会社道玄坂カブトビル、株式会社サン・エトワール
東急がらみのようです。向かいの東急本店も2023年に閉店して再開発するので、道玄坂2丁目近辺は数年後にはガラリとかわります。
明治9~19年 1876年~1886年
道玄坂は思ったより繁華街、駅のないこの時代に渋谷一栄えている場所です。
渋谷といえば明治期は郊外というイメージだったのですが、この道玄坂は江戸時代から宿場町のように栄えている様子が見えます。
ちなみに地図からは見えませんが、道玄坂の西にある松濤の「鍋島公園」ですが、江戸時代末期の地図は鍋島家の敷地ではありません。
徳川慶福(14代将軍徳川家茂)と寄合肝煎 長谷川久三郎、水野大監物忠精より借置 とありました。
寄合肝煎というのは若年寄の管理下の役職になるようです。
幕府の要職で 老中→若年寄 となるので、寄合肝煎というのもけっこうな役職ですね。その人が老中である水野忠精から借りている土地。
この土地は将軍家と老中がもっていた土地ということになります。それを鍋島が明治維新後に丸ごとちょうだいしたと。
鍋島家は薩長土肥の「肥」で、明治維新の裏ボスですね。
鍋島家は現首相官邸の場所も取っていますし、目の付け所が良いんですよね。
地図的にみると薩長土肥の薩摩島津、長州毛利、土佐山内、肥前鍋島でみると明治維新後に良い土地をとっているのは鍋島家だと思います。
表だってリスクをとって活動しているのは藩士や旧藩士だし、そう考えると目立たず騒がず、この激動の時代には一番おいしかったポジションとも思えてくるのですがどうでしょうか。
やりくりもうまくて戦後で社会体制がかわるまで大金持ち番付にのっていたというのは、興味深い所。こういったことは現代を生きるヒントにもなるかもしれません。鍋島関連本に興味が湧いてきました。
話はもどしまして道玄坂。
明治初期でもかなり栄えている様子がみえますが、
なぜ道玄坂といわれているか。
鎌倉幕府の御家人、和田義盛の残党の大和田道玄が山賊となり、この坂の上で金品を奪っていたのが江戸名所図会の説です。
大和田道玄が登ってあたりを見回したといわれる、道玄物見松は江戸時代の地図に書かれています。
江戸時代末期の地図では道玄坂はけっこうながくて、旧山手通りにぶつかるぐらいが道玄坂といわれてる感じだったようです。
江戸名所図会 7巻
建暦三年というと1213年ですから、道玄坂の歴史もかなりありますよね。
他の説に道玄庵というお寺があったという説もあります。これは徳川家康が江戸城に入った天正年間に書かれた天正日記に書かれています。
「22日晴れる 正伝の和尚まいる 久四郎所より 麻布の地図差し上げる。この久四郎は浜松より我らも知る人なり 道玄の庵室由緒差し上げる。道玄の庵室は渋谷道玄寺なり、この寺久しく廃して諸書其年代を詳にせず、しかるにこの記によれば天正の末に尚存せしなり」
和田義盛の一族が山賊になった説もそれっぽいですし、道玄寺があったという説もそれっぽい。
諸説あるということで。
ちなみにちょっと北に工場マークのような場所あります。これは水車のマーク。センター街の交番近辺に水車があったようです。これはなかなかの発見。
明治39~42年
明治以降になるとさらに人口が増えたのが見てとれます。
ユニクロから南側に行くと、東京新詩社跡の碑があります。
与謝野鉄幹が明治34年に麹町から渋谷に移り住んで与謝野晶子と結婚、歌集「みだれ髪」を刊行。明治37年に千駄ヶ谷に移ったということで定着はしなかったみたいですね。
みだれ髪 与謝野晶子 著 明34.8
「乱れ髪を京の島田にかえし朝ふしていませの君をゆりおこす」
今とは違う明治の時代に不倫の詩。
うーん、道玄坂にぴったりかも。
現在も道玄坂にはたくさんのラブホテルがありますが、明治になって渋谷駅ができてから、円山町、道玄坂一体は花街となっていたようです。
現在のNHK,代々木公園にあった代々木練兵場の兵士たちが主な客。
道玄坂についての詩人、児玉花外。以前にも浅草について述べているのを取り上げた記憶があります。基本的にこの方は口が悪い。
東京印象記 児玉花外 明44.8
薄暗い、重く沈んだような空気、耽溺的、陰暗、廃頽的。
もう、この時代から雰囲気が良くなかったことを表していますね。
100年の陰気。いや大和田氏道玄の山賊化からすると800年の陰気ですね。
大正5~10年
東京ガイド 写真通信会 大正5
写真は道玄坂のようです。
やはり渋谷第一の繁盛をしているようです。
どの方面からの撮影でしょうね。左端にある稲荷橋医院ののぼり。稲荷橋は現在の明治通りと246の交差点あたりになります。
昭和3~11年
昭和30~35年
昭和59~平成2年
バブル期の頃の地図とまた大きく様変わりをし始めています。
道玄坂は今後どのように変わるのでしょうか。
楽しみであると同時に、渋谷は僕が上京してきた30年前から、いやもっと前からでしょう、いつもどこかで工事をしているので、永久に完成しないもしかすると完成は目指していない、工事をすることによって雇用を生み出すことが目的のような日本のサグラダファミリア。といった感じがします。
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