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20,【中央区】中央区総合スポーツセンター近辺は江戸時代は武家屋敷、明治期は政府要人の屋敷が軒を連ねる

この場所は中央区というと名前の通り、東京の中心というイメージがあるが、なにがあるかは地方者ゆえにわからない。

僕のイメージだと

文京区は東京ドームなどの行楽地、有名大学も多い文化的なエリア

港区は白金、高輪などのお金持ちエリア

千代田区は皇居や政府機関があるエリア

中央区??銀座とかかな?全く縁のない土地だ。

地図をみると日本橋浜町とある。
日本橋があるんだ。

なるほど、道路標識的にいえばここが東京の中心だ。
田舎にいって東京から何キロ…という道路標識は日本橋が起点となっている。

日本橋はここから南西の方向にある。

日本橋の上にある高速道路を地下化する計画があるらしい。
僕のような素人目には高架下すれすれの薄暗い道路を、ここが日本橋!と言われても感動はあまりない。見晴らしが良かったらまた違うのかも知れない。

いや日本橋じゃなくて浜町をやらなければ。
日本橋はまた今度。

まずは現代の地図
浜町公園にスポーツセンター、明治座がある。
金座通りというのがある。やはり銀があるからには金もあるのだ。

地図をみたところ、碁盤の目のような区割りの川沿い。皇居の東側にある海抜の低い地域によく見られる街並みだ。

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これだけみると、よくある典型的な下町のようにみえる。

しかし、この場所は下町ではない。

武家屋敷が立ち並ぶ場所だった。

1855年頃の地図だと金座通りから浜町の駅あたりの区画は一橋慶喜、のちの将軍徳川慶喜。
そこから南へ4つの武家屋敷が横長に並んでいた。

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3万石からは城を持てる大名だった。
1万石の大名の場合は現代に例えると社員100人くらいの中小企業クラスの会社の規模だったようだ。
現代に例えると1石が27万円くらいらしいので、10万石となると年商270億円のイヴァンカ・トランプ並みとなる。


一橋慶喜 10万石。後の江戸幕府第15代征夷大将軍 在任期間は1年ほどだった。この時期は大老の井伊直弼と次の将軍問題でもめている時期だ。10男11女。イヴァンカトランプ並みの財力があると言っていいだろう。

牧野貞直 8万石。常陸笠間藩の第8代藩主 幕府方から新政府側

津軽順承 10万石。陸奥弘前藩11代藩主 言志四録を著した佐藤一斎に師事した。弘前藩では名君と名高い。1865年死去。

言志四録は西郷隆盛も好んで読んでいたことで有名。小泉純一郎が引用したりして有名にもなった。

ちなみに小泉純一郎の祖父は横須賀で港湾労働者をまとめて、政界に進出し大臣になった小泉又次郎。刺青を入れていたので刺青大臣と言われていたとか。(ウィキペディア調べ)

純一郎は父も議員、息子の進次郎も議員。小泉家は4代続く政治家だ。
又次郎は荒くれ者ばかりの港湾労働者をまとめていたということから、並大抵の人間ではない。
山口組も港湾労働者をまとめていた組織が出発点である事は有名だ。(全部ウィキペディア調べ)

小泉純一郎が引用した言葉は以下の言葉

少にして学べば即ち壮にして為すことあり
壮にして学べば即ち老いて衰えず
老いて学べば即ち死して朽ちず

ガンジーの名言の

明日死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのように学べ。

というのと似ている。

学びというのは世界共通で普遍的なのかもしれない。

しかし学び とは何だろう。勉強とは違うようだ。
僕は知らない事を知る事が学びだと思っていたが、それも違うようだ

ある人によると
勉強は教えに従って身につけることを身につける。
学びとは自らがこうありたい自分になる事だという。

自らがなりたい自分なる。

私は最近、娘に付き合ってディズニーアニメのアラジンばかりみているので、ジャファーみたいな世界イチの魔法使いになりたい。

偶然にも前回の六本木ヒルズ編で佐藤一斎の墓のことを取り上げた。 佐藤一斎は幕末期の有名人だ。


水野忠良 5万石。駿河沼津藩の第5代藩主 1858年死去。25歳。
大岡忠恕 2万3千石。武蔵岩槻藩藩第7代藩主 跡を継いだ息子は新政府側に恭順。

戊辰戦争、明治維新後に地図はガラリと変わった。
旧幕府軍と新政府軍との戦いだが、旧幕府軍がガタガタになってしまい、途中から新政府軍につく場合も多かった。

勝てば官軍負ければ賊軍で負けたものは領地を召し上げられ、勝ったものは総取りできる。と、地図をみながら思っていたが、廃藩置県によってみな江戸の屋敷に住めなくなっているので必ずしもそう簡単な図式でなかった。
仮に幕府方であっても明治政府にとりたてられたりしている。

元々住んでいた屋敷がそっくりそのまま他の人に渡るのだから、当時は相当の衝撃だっただろう。
いやもうこれは日本近代史上稀に見る衝撃だ。
まあ、一般市民にはあまり関係ないか。

新政府側の重鎮は広大な邸を与えられている様子が当時の地図からわかる。


文明開化時 1876-84(明治9~17年)
隅田川に中州のようなものがある。
武家屋敷だった町並みは様相を変えた。

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北から

戸田邸

時代的に戸田氏共邸だろう。美濃国大垣藩第11代藩主。鳥羽伏見の戦いでは幕府方だったが、その後は新政府側で功績を挙げている。夫人は岩倉具視の3女。この時期に伯爵になっている。氏共は旧大名としては非常に長寿で昭和11年まで生きた。

蜂須賀邸

蜂須賀といえば豊臣秀吉に出てくる蜂須賀小六だ。その流れ。
この時代の蜂須賀は蜂須賀 茂韶(もちあき) 
祖父は第11代将軍・徳川家斉で従兄弟が第14代将軍の徳川家茂 もっというと茂韶(もちあき)は徳川慶喜4女と結婚している。
現在の三田のオーストラリア大使館は旧邸の一部。
こう見ると世の中は上の方じゃ全部つながっているんだなということがわかる。

蜂須賀家は茂韶の子の正氏が数々の不祥事を起こして没落したとウィキペディアにはある。
中には蜂須賀正氏はあのホテルニュージャパンの横井英樹(ラッパーのジブラの祖父で戸籍上の父)と戦後訴訟問題で争ったということもあったそうだ。末裔はアメリカで暮らし、後継はない。


毛利邸

毛利邸は一橋慶喜邸そのままといったところで、池の形が全く一緒。
古地図を見れば毛利に当たるといっていいほど、毛利邸は多いように感じる。
浜町の毛利邸についてはネットにもでてこない。

この時代の毛利宗家は毛利 元徳
東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員。旧毛利宗家邸は現在の東京ミッドタウンの敷地全部だった。


細川邸

水野邸が細川邸となった。
細川は鎌倉時代から続く武家の名門で度々日本の歴史に当時してくる。
応仁の乱の細川勝元、信長の野望にでてくる細川藤孝、細川忠興、総理大臣になった細川護熙などが一般的には有名。
武家は家を守るために本家と分家が時代の経過とともに非常に多くなる。

ここに加藤清正公祠がある。なぜ加藤清正公が祀られているか。
熊本城を築城したのは加藤清正。
加藤家改易後には肥後の国、熊本熊本を治めていたのは細川家とゆかりが深い。

この地が明治維新で、水野家が細川家にわたってからできたものだと考える。細川家は新政府よりで行動をした。

清正寺の縁起に、1861に浜町の細川下屋敷に分祀したとあるが、この1855年くらいの地図の浜町には細川家の下屋敷は見当たらず、1855年くらいの地図では細川斎護の屋敷は茅場町の坂本町公園一帯にあった。

どちらが正しいかどうかはわからない。

久松邸
久松家は松山藩主久松 定昭(ひさまつ さだあき)は1872年に東京の久松邸で亡くなっているので、跡取りの分家からの養子 久松 定謨(ひさまつ さだこと)邸だろうと思われる。

以上、人物については全てウィキペディア調べで信憑性はあまりないが、地図は信じるしかないだろう。

明治末期 1906-09(明治39~42年)

明治初期の面白い地図から、一気に黒塗りのなんの変哲もない地図になってしまった。
唯一の救いの日本橋倶楽部 ここに今回は注目しよう。

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日本橋倶楽部は会員制の社交クラブ。

日本橋倶楽部のホームページにはこんなことが記されていた
以下引用

日本橋がわが国の経済中枢を掌握し、総ての経済動脈が、この日本橋から始まっていた時代、 即ち明治二十三年十月、日本橋区民有志総代として、国会議員 藤田茂吉氏は、欧米における倶楽部組織を移し、商工業の隆盛を目的とする親睦社交機関として、 日本橋倶楽部を区内浜町に創設、各方面の賛同を得て忽ち倶楽部会員三百余名を算えるに至った。

このことから、この時代のこの地域は非常に栄えていた場所であるということがわかる。
日本橋倶楽部は、のちに関東大震災で焼失、またのちに戦災で焼失。
現在は日本橋コレド室町5階にあるようだ。
日本橋倶楽部のマークは日本銀行のマークとそっくりだが、日本橋倶楽部の方が先に登録されているという主張だった。

関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)

住宅でぎゅうぎゅう詰。火事があったら危なそうな地図だ。

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1923年9月1日の関東大震災は東京の歴史を語る上では避けては通れない。
これによって東京は大きく変貌する。

関東大震災は東京の被害が多かったイメージがあるが、実際に震度7で建物の全壊率が30%を超えたのは千葉の館山、神奈川の鎌倉、茅ヶ崎、国府津、小田原。

被害は主にその後の火災によるものだった。
死者は合計10万5000人、そのうちの9万2千人、87パーセントがのちの火災によって亡くなっている。
東京では96パーセントに及ぶ。ほとんどが火災で亡くなった。

隅田川にかかる橋の大半は火災によって焼け落ちたものが多く、永代橋や吾妻橋では多くの死者を出したが、この地図の下方にある新大橋は鉄筋でできていた事もあるが、焼け落ちる事なく多くの人の命を救い、震災後も長い間使われ続けた。

新大橋の西詰には高さが5メートルある大きな避難記念碑が立っている。

罹災時、新大橋に1万人あまりいた群衆は両側より火に挟まれ、地獄絵図と化しているなか、深川区西平野警察の橋本巡査長が先頭にたち、火が燃えうつるのを防ぐために、サーベルをふりかざして人々が持ち込んだ家財道具を全て捨てさせ、そのかいあって橋にいた人達は火災を免れた。

家財道具は必要なものだから持ち歩いているのに、それを川に投げ捨てろというのは相当な批判があっただろうが、結果的には大英断だった。

一方で墨田区の被服廠跡(横綱町公園一帯)では人々が持ち込んだ家財道具が火災の延焼を促進し、避難した4万人ほぼ全員が焼死している。

被服廠跡と新大橋は直線距離で500メートルほどと目と鼻の先にある。

避難時は家財道具は持ち出さないのが当時の鉄則だったが、土壇場になるとなかなかその通りには行動できないのだろう。

土壇場になるとダメと言われていることをやってしまう心理はどうしてもわかる。

例えば、損切りしなければならないとき、いざその場に立つと全くできない。もしかすると上がるかも…が頭をよぎるのだ。
ダニエル カーネマンのプロスペクト理論を高い身銭を切って体感することになる。

身銭ならいいが、この場合は命がけだ。さらには他人を巻き込む事になる。

いざというときの心構えが日ごろから重要だと歴史は教えてくれるのだが、自分の身となると、あらためて考える必要がある。


昭和戦前期 1928-1936(昭和3~11年)

関東大震災以降、道幅に余裕を持たせた作りなった。ぎゅうぎゅう詰めだった場所も空間を作っている。

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人が多く住んでいる地域ではこういった空間は案外大切で、当時、皇居前の東京駅にある皇居前広場のだだっ広い空間はすこぶる評判は良くなかったようだが、結果的には災害時の避難場所になって、多くの人の命を救っている。

明治座が現れた。関東大震災以降の1928年(昭和3年)この浜町に移転した。
今日現在2019年10月3日 五木ひろしの芸能生活55周年公演をやっている。


高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)
NHKの古地図で見る東京大空襲によると、このあたりは戦災喪失区域でほとんど焼けてしまっている。
戦後、浜町公園は浜町野球場になった。
路面電車は健在。

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バブル期 1984-1990(昭和59年~平成2年)
高速道路ができて、地下鉄も通り、現在に近い形の街並みになった。

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まとめ

浜町は皇居の東側の平坦な土地になっていることから、下町だと思っていたが、10万石の有力大名が居を構える武家屋敷が並んでいる場所で、明治維新後には、新政府側の有力者が居を構えていた。

その後は日本橋倶楽部ができるなどの商業の中心地となり、震災、戦災をへて浜町公園ができ、区民の憩いの場になっている。

これを書いている時に台風19号がきてしまった。

東北関東甲信の河川が決壊したり、氾濫したり、多摩川まで氾濫したり大変な事になった。

多摩川が氾濫したのは避難勧告が早くて、川を管理する人も避難する事になって、水量の調節が出来なくなったからという話もある。ほんとかどうかわからないが。


御茶ノ水駅前の神田川は江戸時代初期に人工的に作られ、増水時に大川(隅田川)に水をながし、江戸城東側の水害を防ぐ目的と外堀の役目を兼ねていた。

一見すると危なっかしくみえる隅田川沿いの浜町だが、ハザードマップをみても対岸は災害時に水に2メートル水没する地域があるが、ここは全くといっていいほど水害からは想定外の地域となっている。対岸の新大橋より2mほど高いのだ。
江戸時代から大名屋敷が軒を連ねていたことを考えると、この地は低地ながらも水害には強い土地だといえる。

ということで、ここ日本橋浜町は江戸時代末期から見ても、都内の隠れた一等地であった。

いや全然隠れてないかな。一目瞭然、一等地なのだ。


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