【港区】東京タワーは能楽堂跡に建てられた。
こちらは芝公園から。この辺りは戦前は徳川霊屋があったと思われます。増上寺の徳川霊廟は今でこそ、知る人ぞ知る感じになりこじんまりとしていますが、戦災で焼ける前はかなりの敷地面積でした。
僕のイメージでは増上寺は徳川の菩提寺として隆盛を極め、明治維新と廃仏毀釈で窮地に立たされ、戦争で焼けて大きく衰えた。という感じです。
※写真は2019年10月のものです。
秋空ですね。2020年7月現在、子供は大きくなりました。
子供の「ソクラテス的な問い」がヤバイです。
オトナでなんで攻撃してくる人にはテキトーに答えてしまいますが、ここで適当にあしらってはいかんと無い知恵絞って答えています。
例えば「しらゆきひめ」を読んでいると
「ところがある日、鏡が答えたのです。白雪姫が一番美しいと。お妃は怒りに震えました」
なんで?
「白雪姫が美しいって答えたからじゃない?」
だれが?
「鏡が言ったんだよ。白雪姫がお妃より美しいって」
なんで?
「鏡がお妃よりも白雪姫の方が美しいって言ったんだって。」
なんで?
「今まで世界一美しいと思っていたのに、白雪姫の方が美しいっていわれたから怒ったんじゃない。」
だれが?
「お妃が怒ったんだよ。白雪姫の方が美しいっていわれたから」
なんで?
「鏡がさ、お妃よりも白雪姫の方が美しいって言ったからだよ。お妃は自分よりも美しい人のことが許せないんだよ」
なんで?
なんででしょうか。なぜお妃は自分よりも美しいひとのことが許せないのでしょうか。
人間はあっという間に歳をとり、人の美しさなど後になってみれば刹那的なものにもかかわらず。
モアナと伝説の海を読んでいた時もナンデ攻撃。
「テフィティの心は海の底深くに沈み、その時から世界はゆっくり、静かに滅び続けておるんじゃ。タラおばあちゃんの昔話を聞いて、子供たちはみんなとても怖がりました。」
なんで?
「世界が滅ぶからじゃない?住んでいる世界が滅ぶのって怖くない?」
なんで?
「世界が滅ぶってことは、自分もいなくなるって事なんだよ」
なんで?
「世界が滅ぶってことは自分もいなくなるだけじゃない、お父さんもお母さんもお友達もみんないなくなるってことなんだよ。そんな世界って怖いんじゃないかな」
なんで?
「ほら、オニとか怖いでしょ?世界が滅んで自分が居なくなるのは、そのオニが怖いっていうこともなにも感じなくなるってことなんだよ。」
なんで?
「最悪なことは自分が死ぬことじゃなくって、自分のお父さんもお母さんも奥さんも子供も友達も死んじゃう、もっというと人類が居なくなっちゃう、だれもいなくなっちゃうことが最悪なことなんじゃないかな。それが世界が滅ぶってことなんじゃないかな。だから怖いんじゃないのかな。」
なんで?
話はもどりまして
今回は「東京タワー」一点集中で行きたいと思います。
東京タワーはパリのエッフェル塔を模していると言われます。形もそっくりです。
そういえば僕は一瞬だけ西洋かぶれになってフランスに行ったことがあるんですよ。エッフェル塔にも行きました。近くで写真撮って終わりでしたが。
エッフェル塔がパリ万博を記念して傷ついた兵士を癒すための廃兵院跡に建てられているのに対して、東京タワーは墓地に囲まれた空き地に建てられています。
そしてその東京タワーの素材になったのは、1950年の朝鮮戦争で使用不能になった戦車なんです。
戦後で良質な鉄がなかった時代で、アメリカ軍から払い下げられてきた、死戦を潜り抜けた戦車です。
周りが墓地に囲まれて、戦車が素材なんてという
陰な見方もあるんですけど、いや、そもそも東京の大きな場所で陰じゃない所ってあんまり無い気がするんですよ。
大きな場所取れてるところはなにかしら理由があるっていうのが、今までの流れですね。
古地図を見始めた頃、初台のオペラシティはお寺を潰した跡地に建てられたという事に仰天したけれど、いまはなんとも思いません。
東京の土地は狭い所に凝縮していて複雑な上に歴史は古いですから、屍の上で生活していてもおかしくはないです。むしろ屍の上に成り立っているんです。
僕は生まれ育ちが田舎者ゆえか、やっぱり東京タワーには特別な感情があります。
あの低い天井の土産物屋さんも当時の雰囲気のままで、自分の子供の頃を思い出して、ぐっと胸がつまるような苦しいような気持ちになりました。大学イモを食べているからだけじゃないです。
これからも東京のシンボルとしていつまでも頑張ってほしいです。
青い丸が現在地。東京タワーの下にいます。
起伏が結構あります。東側南側からも登っていかなければならないし、なんか辺鄙なところにあるなというのが印象的です。
文明開化時 1876-84(明治9~17年)
明治初期の地図には紅葉館と能楽堂というのがあり、東京タワーはこの土地に建てられました。
そういえば現在の地図でも東京タワーの東の森はもみじ谷という名前がついています。
訪れたことがある方はお分かりになるかもしれませんが、このあたりの土地の起伏は南から行っても東から行っても結構なものです。
紅葉館の北には金地院というものがあり、金地院崇伝という僧を連想します。
江戸初期の僧侶といえば南光坊天海に金地院崇伝かなと思います。
金地院崇伝はぐっと政治に食い込んで、黒衣の宰相と呼ばれて、武家諸法度や禁中並公家緒法度なんかも作っています。
秀吉の死後、秀吉の子供の秀頼の建てた方広寺の鐘の「国家安康、君臣豊楽」というのに難癖をつけて大阪の陣を引き起こしたという説もあります。
こんなのでよく難癖つけられるなって思うのですが、中世の魔女狩りなんかでも
「書いた作文を数行見せろ、そいつを火炙りにして見せる」
って話もあるくらいだから、いくらでも可能なんでしょうね。
ちなみに方広寺にはこの鐘が現存しているっていうのだから痺れます。
ライバルであった南光坊天海は徳川の菩提寺の上野寛永寺の開祖だし、金地院も菩提寺なのかなと思ったら違うんですね。
東にある増上寺が菩提寺。増上寺は廃仏毀釈と戦火に遭うまでは相当立派なところだったらしいです。
戦争さえなければ今目指しているような観光立国としての価値は相当あるでしょうけれど、もう無いものは今更言ってもしょうがないですね。
金地院も今の地図よりは規模が大きいのが分かります。
東京タワー以前にあった紅葉館の成り立ちを調べると
1881年に会員制の高級料亭として実業家の中沢彦吉が作ったそうです。
中沢彦吉は安田財閥の祖の安田善次郎の後見人であったり、衆議院議員であったりした有力者のようです。
※能楽堂って紅葉館のものでは無い可能性もあります。とりあえず東京タワーは紅葉館跡に建てられたという事になってるので、能楽堂は紅葉館のものかなと思ってますけど。
明治末期 1906-09(明治39~42年)
明治末期になると、紅葉館と金地院の表記しかなくて寂しいですね。そろそろ本当の地図を買おうと思っているのですが、買うならやっぱり明治初期と大正時代です。
紅葉館は鹿鳴館なきあとの国の上層階級な社交の場だったそうです。
鹿鳴館は反対意見が多く、6年くらいしか運用してないんですよ。
小説家、尾崎紅葉の「金色夜叉」の見せ場の場面で、主人公の男性が付き合っていた女性に他の男性がいる事を知って、熱海で取りすがる女性を蹴り飛ばして去っていくって場面があるんですが、
実際に尾崎紅葉の友達が、この紅葉館で働いていた女の子と付き合っていたのですが、友達は二股をかけられていて女の子は違う人と結婚することになったと振られ、友人で直接関係ないのに激怒した紅葉が紅葉館に乗り込んで言って足蹴にしたっていうのが、この場面のモデルみたいです。
時代ですね。今そんなことをしたらこの小説家は逮捕じゃないですかね。
道路は今と変わらない感じで地図を見ると道路にも面白さを感じます。
高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)
60年前の高度成長前夜。東京タワーが完成したのは1958年だからそれより前の地図です。
紅葉館は戦災によって無くなっています。
ちなみに「とうふやうかい」という高級そうなお店もありましたが、紅葉館とはなんの関係もなさそうです。
帰りに東京タワーの1階に入ってトヨタのイベントで記念撮影。
今度は登ってみたいですね。今考えるとなんで登らなかったんだろう。
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