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【港区】御成門は日比谷通りに鎮座ドープネス


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御成門については場所は増上寺編でちらっと取り上げたのですが、今回は周辺もちょっぴり掘り下げました。

御成門の由来は将軍家が出入りするときにこの門を使っていたからとの事。

現在の御成門を見ると白茶けていますが、柱の一部を見るともともとは朱色だったのような感じがしますね。


文明開化時 1876-84(明治9〜17年)

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消防隊第二分署の「署」の下が御成門です。

現在の御成門は移築されていて、港区図書館の対面にあります。

もともとは増上寺の裏門が御成門でその場所は今の日比谷通りの御成門交差点にありました。
明治26年に日比谷通り開通にともない移設。


御成門のあった場所、そこは単なる交差点です。

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地下には都営三田線の御成門駅があり、御成門駅という名前もしっくりきます。

かつては東京タワー駅という名前だったようですが、断然御成門駅がいい。御成門以外ありえない。山手線の高輪ゲートウェイ駅なんて結構世間では叩かれているんですけど、高輪大木戸も近いし個人的にはイイと思いますね。

アプリ「大江戸今昔巡り」より

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この門の横は壁がぐるりと取り囲んでいたことが確認できます。

わりと実用的な門だったから豪華絢爛な装飾はなかったのではないでしょうか。家でいうと勝手口みたいな存在。

江戸時代はここから南が増上寺です。増上寺は南は浜松町の駅くらいまで領地があったので、さすがは徳川家の菩提寺といえるでしょう。

東京名所図絵 中野了随 著 明治23.2
日本之名勝 瀬川光行 編 明治33.12
東京名所写真帖 明治35.12

にも御成門の記載はありませんでした。

御成門は名所というほどのものではなかったようです。

増上寺には徳川霊廟の絢爛豪華な門がありましたので、こういった実用的な門は目立たない存在だったのでしょう。

東京名所写真帖より。7代将軍勅額門

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白黒でも豪華さが伝わってきます。消失が本当に惜しいですね。7代将軍の二天門は現存し、改修移築されて日比谷通りにポツネンと建っています。

交差点近くの公園には開拓使仮学校跡の石碑があります。

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開拓使学校は北海道大学の前身です。

明治8年に札幌に移転したと書かれているので、明治初期の地図にも描かれていません。

その後海軍省となっています。

ふと気がついたのですが、海軍省と江戸時代の増上寺内の広度院御本坊という子院と建物の形が一緒なんですよ。

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海軍省はこの明治初期、広度院の本坊を利用していたようです。

海軍省はジョサイア・コンドル設計により明治27年に霞ヶ関に完成します。

増上寺は徳川の菩提寺として繁栄しましたが、明治維新からの政治情勢と戦災によって絢爛豪華な建造物もほとんど無くなってしまいました。

御成門は明治期から注目されず現代も変わらず注目はされていません。

注目されなくっても存在しつづける。

そんな在り方もありですね。

あっ!!御成門って2つあるじゃないか!こっちの御成門だと現在の位置に移動するのは簡単だ。実はこっちの御成門を移動したんじゃないですかね?

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