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「写真の都」を目指した名古屋~中部学生写真連盟につながる写真運動史

 名古屋市美術館(名古屋市中区栄2丁目)で、「写真の都」物語という展覧会が開かれています。副題に「名古屋写真運動史:1911-1972」とあるように、名古屋を中心に活躍していたプロやアマチュア写真家の作品を通して「写真の都」を目指してきた60年の歩みを俯瞰する展示です。
 市美術館の学芸員竹葉丈さん(59)が、収蔵品や個人所蔵の作品を借り集めて、時代にそって6部に構成しています。「写真の都」というタイトルは、日本の芸術写真の表現を築いたとされる愛知県の写真家日高長太郎(1883-1926)の1911年の言葉からとられています。「名古屋にも有力なる写真団体があらしめたい、共に趣味を語り共に芸術の研究に浸りたい、(中略)そして共に倶(とも)に進んで写真の都‼名古屋たらしめたいと云う感念が私の頭にヒラメいた時に」。日高らは翌1912年に「愛友写真倶楽部」を創立。名古屋の写真運動史は、この「宣言」から始まっています。
 会場で目にとまったのが、「カメラマン」という雑誌です。1936年に名古屋で創刊されたアマチュア向けの月刊誌です。竹葉さんによると、地方ではまだカメラの月刊誌はなく、発刊当初は東京や大阪からも購読申し込みがあり、初版5000部が売り切れたそうです。アマチュア向けにもかかわらず、著名な写真家がシュールレアリスムを論じるなど、レベルも高かったようです。
 1940年11月に50号で終刊しましたが、竹葉さんは、この雑誌が名古屋の前衛写真につながるきっかけになったとみています。
 個人的には東松照明から中部学生写真連盟へとつながる展示に関心がありました。駆け出し記者のころ、たまたま訪れた写真展(1979年、名古屋市博物館)で、中部学生写真連盟のことを知ったからです。
 その写真展は巨匠ビル・ブラント(当時75歳)のオリジナルプリントを展示した巡回展でした。中部学生写真連盟のOB会と現役の学生たちが、名古屋開催に尽力したことを記事にしました。新人にしては大きく紙面を飾ったので良く覚えています。
 ビル・ブラントが、「決定的瞬間」のアンリ・ブレッソンと並び立つ写真家だということは、会場の学生から教えてもらいました。そして、彼らの先輩こそが1952年に全日本学生写真連盟が結成されたとき、中部地区代表委員になった愛知大学生の東松照明だったということも。

 「写真の都」のポスターに使われている「混血児 名古屋 1952」(愛知県美術館蔵、©ShoumeiTomatsu-INTERFACE)は、東松照明が1952年の第1回全日本学生写真連盟展覧会に出品した作品です。米軍基地に隣接した町なかで見かけた光景をとらえたスナップ・ショット。おしゃれなサンダルをはいた混血児と裸足もいる日本の子どもたちとの対比にはどのような意図が潜んでいるのか? 
 「私には、日常の光景が、日本の戦後史と重なって、非日常の光景として二重映しに見えるのであった」
 図録に引用されてる東松の言葉をヒントにして、敗戦から7年たったときのスナップ・ショットから何を読みとるか。実は2月2日の内覧会以降、写真を眺めては、いまも思案中です。
 さて、中部学生写真連盟の「高校の部」は1959年に開設されました。図録の中に知人の老舗料亭の主人深田正雄さんの名前を見つけました。学生写真運動のスポンサーであった富士フィルムは、東海高校写真部の部長であった深田さんに高校の部の活動を充実させるように働きかけたという記述です。すぐ深田さんに連絡すると、1964年の「連盟会報12月号」がメールで送られてきました。当時3000人いた会員に向けて、深田委員長が中部学生写真コンテストへの全員参加を望むという激励文を書いています。


 写真の都を目指して、プロやアマチュアが技術を競い合い、学生も活発に写真に取り組んできたことは、特筆すべきことでしょう。翻っていまの若者は、どうでしょうか。学校に新聞部はまず、ありません。ならば自らカメラを持って街に出て、時代の空気を写してほしいものです。

(写真は、壁一面に掲示された全日本学生写真連盟の会報「Young Eyes」と竹葉丈さん)©aratamakimihide

 このコラムは、いつもより長くなりました。内容も42年前の駆け出し記者が書いたような、思いばかりが先走っているようです。これも「写真の都」を目指そうしてきた写真家や学生たちの歩みをつぶさに見てしまったからでしょうか。

(写真は、1968年9月に名古屋で開かれた中部学生写真連盟の合宿に持ち込まれた兵庫県立尼崎工業高校生、高橋章氏の作品。クラスメイトを撮ったスナップ・ショットはその後の連盟の活動に影響を与えたとされる)
(2021年2月16日)

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