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櫻井翔くんになりたかった。 from 宇宙を駆けるよだか

宇宙を駆けるよだか。漫画は1巻だけ読んだことがあった。

続きが気になったけど結局読まずにいた。


ARASHI's DiaryのためにNetflixに登録したんだけど、ジャスミンの友人に「宇宙を駆けるよだか」をおすすめされたからちょうど時間があったし観ることにした。




「誰かに生まれ変わりたい」

っていう。そんな感情になったことがあるだろうか。



〇〇ちゃんが羨ましい、だとかそういうことを思ったことがある人も、熱愛報道された女優さんやアナウンサーに嫉妬したことがある人も。


私もそういう嫉妬心やただただ羨ましいという感情を抱いたことがある。

同級生やすれ違う幸せそうな女の人に対して。



私がまだ幼い時、その羨ましいという感情が気づけば嫉妬心となり、気づけば「生まれ変わりたい」「入れ替わりたい」という感情まで行き着いた人がいる。


その人こそ、今もなお応援し続けている「櫻井翔」くんである。



「誰かに生まれ変わりたいと思ったことがありますか?」

と聞かれて、私ほど強い気持ちで「はい」と言える人も少数なのではないかと思う。



私はそれほど翔くんに生まれ変わりたかった。入れ替わりたかった。


宇宙を駆けるよだかを観てその過去の異常な渇望を思い出した。




今もその感情を翔くんに抱いているかと聞かれたら、それは、ない。

生まれ変わりたいとも入れ替わりたいとも思わない。



「翔くんになれるならなれますか?」と聞かれても、きっぱりと断るぐらいにその感情はない。



「翔くんになりたい。」と思っていた幼い自分は

翔くんのどれほどを知っていたのか、今は思い出せない。



小学生の自分がどこに行ってもマイノリティになってしまう、独りになってしまいがちだったその孤独感を持つ中で偶然顔がどタイプな爽やか好青年の櫻井翔に出会って、櫻井翔くんが「道なき道を歩く」という生き様を知り、人間らしさを学ぶにつれて

その生き様を私個人に投影していく過程で、「翔担」になると共に「櫻井翔くんになりたい」という感情も先に先にと進んで行った。



小学生の幼い私は自分がマジョリティに放り込まれたときにマイノリティだと気づいたその寂しさから救い出すものとして「自分と似た存在」を見つけた。それが櫻井翔くんだった。


その時に翔くんに出会ってよかったのか悪かったのかはわからない。


自分で言うのもアレですが、私もレール上の温室育ちで小さい頃からピアノとバレエをして、エレクトーンも習っていて、音楽家を夢見たこともあり、家庭科が苦手っていう(笑)顔の輪郭も丸顔で二重の感じも似てたりしてですね(笑)


でも、結局、

そんな幼い私が翔くんと重ね合わせて見える未来というのは

14歳で履歴書を自分で送った港区のシジマールなんですよ。どう頑張って見据えたって、それが見えるんですよ。



今では東京の私立育ちは下北や自由ヶ丘でオールしたりして遊んでいるってことも知るようになってきたけど、



あの頃の私は東京から遠く離れた地方で東京を夢見ていた少女


でしたから。そんな私には翔くんの生き様というのは刺激的だったのかなと思います。


話を戻しますが、

私は今、櫻井翔くんになりたいか、と聞かれたら必ず「NO」と答えるし、

もし仮に科学が進歩して明日にでも櫻井翔になれるチャンスがあったとしてもなりません。

そのぐらい、なりません。



だって、私が昔よりも翔くんのことを知ったから。


私が櫻井翔くんになったところで、

翔くんが抱く責任を抱くことは決してできないし、リーダーシップなんて発揮できないし、歌って踊ることすらできないし、翔くんのように全方向に配慮しながら物事を進めることなんかできないから。



というのも、もちろん有る。


ここで急に翔くんの会報での回答を思い出して、

「よ!担タレ!」なんて笑ってしまったんだけども。



うーん、でもね。それは理由じゃないんだよね。

翔くんみたいにはできない、っていう。そんな単純な理由で翔くんにならないことはなくて、それだったらむしろ私は翔くんをやってみたいとまだ思えるのかもしれないなぁ。




2020年になって、20歳になる過程で気づいたよね。


自分は自分にしかできない。


私はだから翔くんにはなれない。



10歳の自分にはわからなかった。

自分が生きているだけじゃないということ。自分だから生きてられるということ。


最近は周りの人に生かされているということをつくづく感じる。



翔くんは生きていく過程できっと「だれ」に生かされているのかも知っていて、「だれ」を生かしているのかも少し知ってると思うけど、

私も同様なことをきっとしていて、されていて、でもそれが確かではないけど、


それを知ることができるのは自分しかいないし、自分にしか気づけないことで気づくべきことなんだと思った。


自分を生きろ、とか言われるけど、

なんやねんそれって思うけど、


自分っていうのは個体としての人間ではないんだと思うんだよね。

私が接している環境も含めて自分という存在になっているから、

自分の環境を理解しないと自分を生きることはできなくて、


「誰かに生かされている」ことや、「誰」に生かされているのかに気づけば、

それだけじゃなくて自分は誰の環境の一部になっているのかを気づくことで初めて自分を生きることになるんだと思う。



それに気づいて、私は翔くんになりたいとは思わなくなったなぁ。だって。なれないじゃん。そんな「翔くんを生きる」ってできるわけないじゃん。


という概念的なことを考えてしまうわけなんですよ。

(お気づきでしょうか、翔くんの話をしてないことに。ただの概念であることに。)


長くつらつら話してきましたが、「自分を生きる」ことができたらきっと翔くんが憧れになるのかなぁなんて思っています。




宇宙を駆けるよだかを観て、そういうことを思った自分を思い出せたし、2020年良い滑り出しなのでは?と思ってます。


ではでは、note初記事でした。今年もよろしくお願いします。



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