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【新サクラ大戦レビュー】また歩き出すための完璧な一歩であり、 今はまだたったの一歩でしかない物語/赤野工作(模範的工作員同志)

弊サークル夜話.zipでは、幻のC98新刊として、サクラ大戦評論本『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』を刊行しています。

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今回は同書の特集「賛否激突!『新サクラ大戦』クロスレビュー」より、作家・ゲームライターの赤野工作(模範的工作員同志)さんによる、『新サクラ大戦』のレビューを掲載します。

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 私も良い歳になったから流石に泣きまではしなかったが、望月あざみの生年月日を計算し、太正一五年五月一五日(一九二六年五月一五日)という日付を目にした時には、胸にこみ上げてくるものがあった。史実における大正は一九二六年一二月二五日をもって終わりを告げ、その日を境に時代は昭和へと改められた。それはつまり、シリーズが新サクラ大戦へと生まれ変わり、花組メンバーが一新された今でもなお、主たる登場人物が史実においても「大正生まれ」であることを意味していたからだ。長らく「終わらなかった大正」の情景を描いてきたサクラ大戦シリーズにとって、登場人物たちが夢溢れるあの大正時代を生きた人々であることは最早作品アイデンティティの一部でもあった。だから、一目見たときには単純に嬉しかったのだ。「ああ、まだ太正は続いていたのだ」と。だが、その一方で少し切なくもあった。あの日の花組の戦いがまだ終わってはいないという事実を、眼前に突きつけられたようにも感じられたからだ。

 そもそも何故サクラ大戦シリーズが「終わらなかった大正」を舞台にしてきたのかと言えば、それは原作者の広井王子の言葉を借りれば「昭和をやらなくても済むから」。もっと簡潔に言えば、かつてのこのシリーズがドラマチックアドベンチャーであった以上に、戦乱の世を回避する歴史改変SFだったからに他ならない。史実の大正が万民にとって平和な時代だったかと言えば勿論違うが、実際のところ、サクラ大戦の歴史は史実の昭和とそれに連なる第二次世界大戦を避けるようにして時計の針を進めてきた。一九一四年の欧州大戦は霊子甲冑の登場によって勝者無しの休戦に終わり、疲弊した欧州列強は世界中の植民地を放棄、世界は史実より半世紀ほど早く独立の時代を迎えた。よって、彼らの生きる太正の日本には、我々の知る昭和と比べての話だが、陰鬱な帝国主義も台頭していなければ無軌道な全体主義も蔓延ってはいない。降魔という敵の出現によって人類同士で争う局面も史実と比べ格段に減少し、この世界は「やがて訪れる昭和」の対比としての「終わらなかった大正」として瑞々しく描かれてきた。

 「夢のつづき」という歌を聞いたことがあるだろう。『サクラ大戦2』のエンディングテーマとなった名曲だ。その一節にこんな歌詞がある。「この夢がずっとずっと続いて欲しい」当時こそ深く考えはしなかったが、かつての私にとって、この歌に語られる「夢」とは「サクラ大戦」そのものであり、サクラ大戦とは即ちそこに描かれた「終わらなかった大正」という架空の歴史を意味する言葉だった。『サクラ大戦2』は一九二五年が舞台の物語であり、史実においては大正の終わる直前の物語だ。だから彼女たちが声高らかに夢のつづきを歌えば歌うほど、私はそこに羨望と儚さを感じずにはいられなかった。一〇〇年後の未来を生きる人間として、彼女たちが夢とまで称した時代がたったの十五年で終わり、「終わらなかった大正」なんて未来は訪れなかった史実を私たちは知っている。もし大正の世が続けばこの国にはもっと夢が溢れていたかもしれないなんて考えは馬鹿げているとは思っていた、思ってはいたが、そんな妄想に浸れるだけの浪漫と説得力がそこには存在していたのだ。

 新サクラ大戦にも、そんな歴史観は色濃く継承されている。本作の舞台は一九四〇年、丁度、史実において「東京オリンピック」が第二次世界大戦の影響で中止になった年である。平和な世であれば開催されたはずの五輪を下敷きに、「終わらない大正」における第二次世界大戦の代替的存在として世界華撃団大戦が描かれることになった。新生花組の隊員の生い立ち一つとってもそれは明らかで、彼女たちのオリジンは旧花組隊員と比べると実在の歴史的事件に紐づけられた特徴が極端に少ない。袁世凱のクーデターによって両親を失った紅蘭、ロシア革命で祖国を追われたマリア、マルヌの戦いでドイツ軍を迎え撃ったアイリス。対する新生花組の隊員たちは、真宮寺さくらの背中を追いかけた天宮さくらを筆頭に、初代サクラ大戦から続く降魔との戦いの時代を生き延びた者たちによって構成されている。両者の違いはやはり、彼女たちが生まれた時代がどれだけ史実と変わっていたかに起因するものだろう。新生花組の生きてきた歴史は我々の知る姿とは大きく変わっているのだ。それは勿論、私たちと旧花組隊員たちが紡いだ歴史、「終わらなかった大正」の影響によって。

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『新サクラ大戦』第3話より。

 新サクラ大戦の物語開始時点において、天宮さくらは十七歳、つまり生年月日は一九二三年三月一九日である。奇しくもこれは真宮寺さくらの花組入隊とほぼ時を同じくしている。天宮さくらがサクラ大戦の世界に生を受けたとき、既に彼女の住む帝都は帝国華撃団によって守られていた。よりウエットな表現をするなら、新花組の隊員たちは皆、私たちがサターンのコントローラーを振り回したその先の未来が至った「終わらなかった大正」にしか存在しえない人々であるということだ。私であり貴方が守った人々は、史実と同じ歴史を辿らず、夢のつづきにある新たなる世界を迎えた。歴史改変SFとしての旧サクラ大戦は見事に本来の目的を遂げ、太正の治世を続けることに成功したのだ。しかし、それでもなお、彼女たちはあくまで史実における「大正生まれ」であり、フィクションの中にしか存在しない完全な「終わらなかった大正生まれ」ではなかった。その事実は、既に昭和期へと移った新サクラ大戦にかつてと変わらぬ大正浪漫を感じる理由と表裏一体となって、かつての戦いが未だ終わっていないという強いメッセージ性をもこの作品に齎している。

 新サクラ大戦を遊んでいると、旧サクラ大戦と同じく、いや下手をするとそれ以上に、「夢」という言葉が印象的に使われているシーンに多く遭遇する。その最たるものが主題歌「檄!帝国華撃団〈新章〉」の中に歌われる「夢は蘇る 帝国華撃団」の夢だ。しかし改めて考えてみれば、新生花組の隊員たちの見ている夢とは一体どういう夢なのだろう。既に「終わらなかった大正」に生きている彼女たちは、私たちと同じ歴史を生きていない以上、史実の大正に羨望など抱きようがないはずだ。しかし彼女たちの語る夢には往々にして、かつて私の見ていた夢と同じもの、華やかな帝劇であり、花組のスタアたちであり、浪漫溢れる大正時代への郷愁が存在している。そうして夢を語る彼女たちの表情を眺めていると、ふと、当たり前のことに気がつくのだ。「夢」とは「終わらなかった大正」を意味する言葉である前に、それを描いてきた「サクラ大戦」という作品そのものを意味する言葉だったではないか。よくよく考えてみれば、新生花組の隊員たちほどプレイヤーである私たちと同じ「サクラ大戦の歴史」を体験してきた人々も他にいないではないか、と。

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『新サクラ大戦』第1話より。

 PS4で美しく蘇った帝劇を初めて散策した時、この世界が旧シリーズの上に成り立っている世界だということを、貴方も嫌と言うほど思い知らされたはずだろう。名札も無く閉ざされたかつての隊長室に、過去を語りたがらないかつてのスタア神崎すみれの表情。それは大神一郎という男が初めてこの場所を訪れた時のオマージュのように見えて、やはり決定的に何かが違った。かつてこの場所に遺っていた米田一基や藤枝あやめの歴史とは違い、今その場所にあったのは、かつての私や貴方が遺してきた歴史だったからだ。歴史改変SFであった旧サクラ大戦が「やがて訪れる昭和」の歴史を回避した代わりとして、シリーズを重ねた旧サクラ大戦そのものがこの作品に積み重なった「終わらなかった大正」の歴史を遺している。作中、大帝国劇場の支配人となった神崎すみれは過去の因縁にケリをつけるべく、帝国華撃団の再興に向けて動き出している。その動機は、欧州大戦にもなければ天海暗殺にもなく、北条氏綱の失踪にもない。史実のどこを探しても存在しない架空の歴史の中にしか見つけられないものだ。

「太正」の文字に追加された一画の点について、いつか広井王子がそれを画期的なアイディアだと語っていたことがある。大正の字に一点をつければ、華やかな大正をいつまで描き続けようと、架空の時代「太正」の話なのだから全てが許されるでしょうと。新サクラ大戦に描かれた一九四〇年の帝都の姿は、確かに、そうした当初の願いが結実した未来の姿に見えた。もしも大正デモクラシーの世が続いていれば、この国には別の素晴らしい未来があったのかもしれないという旧シリーズの問いへの回答だ。歴史改変SFである旧サクラ大戦の後日談として、新サクラ大戦という作品は完璧な世界を示してくれた。しかし、ドラマチックアドベンチャーである旧サクラ大戦のフィナーレとして考えたとき、新サクラ大戦という作品が示した答えはどうだろう? まだ、たったの一歩だ。なにせ彼女たちの物語は未だ、花組という組織をなんとか存続出来た段階にすぎない。サクラ大戦シリーズはもう既に、歴史改変SFと見做すには独自の歴史を積み重ねすぎてしまった。だから、当たり前の話なのだ。そんな一歩でこれからの未来が変えられるほど、このシリーズの積み重ねた歴史は決して短くはないのだから。

 冒頭、私は「良い歳になってしまったから流石に泣きまではしなかった」と言ったが、実のところゲームを遊んでいるうち一度も泣かなかった訳ではない。エンディング曲「新たなる」を聴いていた時に、悔しいかな、やられてしまった。「新たなる世界 新たなる未来 新たなる夢」という一節だ。「夢のつづき」の「春は巡るいつも美しく いつかまたこの夢のつづきを」に負けるとも劣らない、素晴らしい歌詞だと思った。かつて私は「夢のつづき」を初めて聴いた時、この歌の語る夢の情景に強く心を打たれた。しかし、「新たなる」を聴いた時には、彼女たちの歌う新たなる夢が一体どういうものなのかが全く想像がつかなかった。それもそのはず、「夢のつづき」の語る夢とは、「あの浪漫溢れる大正時代がもしも終わらずに続いていたら」という夢であり、それはあくまで私たちの生きる史実との対比としての夢だ。しかし「新たなる」の語る夢とは、私たちの夢の中にしか本来存在しなかった人々の見ている夢である。私たちにはもう、これからの彼女たちの生きる世界、生きる未来を想像することは難しい。史実と比較してサクラ大戦の歴史を語ることが、ほとんど不可能になってしまった今となっては。

 現実の歴史を下敷きとした歴史浪漫としての旧サクラ大戦は、新サクラ大戦をもって一応の終わりを迎えただろう。そうして新たにこれからは、サクラ大戦シリーズが独自に積み重ねてきた歴史を下敷きとする歴史浪漫としてのサクラ大戦が始まっていくはずだ。新サクラ大戦は、それを感じさせるに十分な作品であった。自慢じゃないが、私たちの見てきた「終わらなかった大正」の歴史はあまりにも膨大で、現実の歴史と比較したって一朝一夕で全てにけりをつけられるようなものじゃない。だから新生花組の隊員たちには、胸を張ってこう言いたいのだ。新サクラ大戦の物語は、旧サクラ大戦の後日談として完璧で、君たちの完璧な一歩目を私は見届けた。そして同時に、頭を下げてこうも言うしかない。新サクラ大戦の物語は、旧サクラ大戦のフィナーレとなるにはまだ足りず、この作品を一歩目としてしまうほど、皆さんにはまだまだ尻拭いしてもらわなければならない宿題を、私はあの時代に残しておりますと。

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『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』では、赤野工作さん以外にも、哲学者やエロマンガ家、初代リアタイ勢から『新サクラ大戦』からの新規プレイヤーなど、多くの方の『新サクラ大戦』レビューを掲載しています。また赤野工作さんに本記事とは別の視点からの短文レビューも寄稿いただきました。これを読まなきゃ「サクラ」は語れない!!

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