「朝に焼く」


 夜が明ける間近の山は、よそゆきの顔をしている。霜が降りた草葉たちが総出でもやがかったのをつくり、山にベールをかける。黒のタントが走ると、それを切り裂く感じがして気持ちがいい。
 ときおり石を踏むと、スキップした車体が後ろの荷物をおどかすように跳ねさせた。
 これで四度目だな、とぼんやり思う。
 カーブミラーから見える置き型ディスプレイや歯ブラシ、外国の土産屋で買われた粗末な人形などが詰まった段ボールはふたつにもなった。ずいぶんと私は、長い間こんなものたちを所有していたのだなとおもう。
 木々が開けて、なだらかな坂道が現れる。下では陰った街が、重たそうにのっぺりしている。空の向こうが紺から水色のコントラストをつくって、太陽が街の端からにじみだしていた。
 好きではなかったのか、と問われると釈然としない。私は素直に出されるものを受け取って、それに対するお返しをしていたに過ぎない。
 いつもそうだった。
 笑ってくれるのなら、私は笑い返し、悲しみに暮れているのなら、背をさすってやる。国語の教科書に書かれていた道徳とは、相手の望むものをそっくりそのまま返すということだったから、私はそうしたまでだ。「どこかにいっちゃうかもしれないぞ」と言われれば、私はああそうなのだろうな、と考えて、明日にもいなくなるだろう目の前の人に覚悟を決めた。
 わかった、と答えたあとの、彼の変な顔がなんとなく心に残っている。
 冗談と言われるまで私はそう本気で思っていた。
 女友達にはよく言われる。あなたは自分の人生を生きていないと。
 わかっているのだ、それはとうの昔から。



 母の口紅を盗んで、どこかに隠してしまったことがある。理由を聞かれても、ただそうしたかったからとしか答えられない。母の化粧カバンに手を入れて、なんとなしに手に取ったそれを眺めた。右回しに動かすと、ぬめる紅が空間を舐めるように現れるのを観察する。
 ひんやりとした土間があり、そこに古びた甕があったので、放り込んで朝の食卓に戻った。
 食事が済んで、母の出かける支度をすこし面白い気持ちで見守っていた。
 案の定しばらくして騒がしくなった居間を、私は王になった気分で俯瞰していた。
 いくら探しても見つからないので、母の唇がよりいっそう薄くなっていくように見えた。
 だんだん深刻そうに眉を寄せた母に申し訳なくなってきて、私は口紅のありかを教えた。
 中に手を入れて拾い上げた母の唇が、とたんに怒鳴りつける。
「もう、うちの子ではありません」
 私はそのとき、ああ、よそのお家へ行かなければなくなるのだと思った。わかりました、と答えて私は外に駆け出した。それから、同い年の子の家にいって朝も早いのにドンドン、と戸を叩いた。眠そうなおばさんに飛びついて、今日からここの子になります、今日からここの子になります、と騒ぎ立てた。どこかに行かなければ、私はごはんにありつけないと子供心に知っていたからだ。おばさんのなんともいえない表情が、私を石のように見つめていた。
 すぐ、母親が来て、私の手を引っ張った。逃げたって無駄よ、と馴れ馴れしい響きが嫌になり、私は本気の力でその手を振りほどいた。
 あっけにとられた母にすかさず、「他人なのでお構いなく」と言ったらしい。らしい、というのは笑って話す母から聞いたからわかっただけで、その時の私は取り乱していたゆえに何を言ったかまでは覚えていなかった。
 結局は連れ帰られて、もう二度とこんなことはしないように、と軽く言われてその日は終わった。
 ぐずってぐずって仕方なかったのよ、と帰省するたびに話す彼女は、よほどこのときのことが忘れられないらしい。笑って、とは言ったが、私はその表情の奥にいつも違う何かが見え隠れしているような気がしている。笑いきれていないというか、どこかまだ消化しきれなかった小さなダマが、母の目の奥にうつるのだ。それはすなわち、私を見る石のような目である。
 これはなにも、母だけではない。女友達や歴代の恋人たち、関わってきた人の多くに見られる傾向だった。
 つまりは頑固なのだ。頑固で、融通がきかず、真に受けてしまう。それこそ石のような私を、みなが見るからそこに石が映る。
 車はそろそろ、目的の場所につきそうだった。喉が少し乾いて、カップコーヒーを飲む。液体の温度がほぼ直に伝わる。コンビニの冷気がまだ多分に残っている。すっ、とひとくち喉に含んだだけで戻してしまった。
 窓の外に目をうつすと、顔の動きに合わせて頬が髪をなでた。ざらりとしている。ゆるくまとめた黒い束は、胸元までのびている。
 私にしては珍しく、良い男に出会った。私でさえ不思議に思う真に受けがちな性格も、その構造を完璧にわかってその下から優しく手を差し込んでくれる。彼と話していると、私はいつも抱きしめられている感覚に陥った。
 口紅事件のことも、本当は恥ずかしくて誰にも話していなかったのに、彼だけには話すことができた。
 違う、何かが違う、と思わせてくる。触れるたびに違う呼吸をくれる。新たな概念に近かった。
 これは、いけないことだ。
 私が次々と入れ替わっていくのに、あなたはひとつも、得意げにならずに淡々とこなす。こなすのに、それは柔らかでていねいなのだ。
 私は怖かった。
 自分が勝手に書き換えて、忘れたことにした感情を掘り起こされるのが。覚えた感情の手本をすえることで、湧いてくるものと向き合う手間を省いて、テキトーに生きてしまっていたことを。つぶさに彼は、私に思い出させた。
 まっさらな子どもが場合によっては大人をあっと驚かせることをいうように。
 その連続がまさに、彼との接触であった。
 つまり私は、逃げ出したかったわけである。



 すーっと、開けた広場についてタントを止める。降りてドアをパンと閉めると乾いた鳴りが空を打った。
 何かしらの開発あとで、雑多にいろいろな素材が放置されている。どうやら計画が中止になって、半端に様々なものが取り残されて吹きさらしになっていた。
 三年前、もうここにくることはないとぼんやり考えていたのは外れてしまった。
 もうすこしで朝日がのぞこうかという四時。私の儀式が始まる。
 そばにあったドラム缶を起こして、枯れ木を詰めた。あらかじめ持ってきた新聞紙も大量に敷き詰めていく。
 ダンボールを後部座席から下ろして、チャッカマンを手に取った。
 一枚の新聞紙に火をつけて、ドラム缶の中に放り込む。
 ゆったりと火は燃えて、やがてちろちろとその舌先をふちからのぞかせはじめた。
 急に、あたりがじんわりしてくる。
 向こうを見るともう太陽が顔を出していた。
 フェードしていく白にあわせて、私らに載った影がとりはらわれていく。
 ダンボールのディスプレイが鈍く光った。ナイキのスニーカーは本来の赤色を取り戻し、お皿はなだらかな波線を思い出し、緑一色のワンピースが寄りきったしわを見せる。
 ダンボールを掴んで、ドラム缶の穴に向かい、ザラザラと放り込んだ。ガシャン、カラン、パリン。音はあちこちにぶつかって山を鳴らす。
 小物をあつめておいたので、スムーズに投入が終わった。写真たてはぐにゃりと曲がり、真っ黒に笑顔をうかべるテディベアにしなだれる。パラパラと樹脂のアクセサリーが一瞬炎と朝日をその身にうつし、キラキラしてから消える。
 機械的ないやあな匂いがし始めているが、かまわない。次は大物たちだ。これらはひとつずつドラム缶に放り込んでやらねばならない。
 ディスプレイの湾曲した足に手を差し込んで、もちあげる。26インチくらいの大きなものだったから、女の私にはわりと力がいる。
 たらっと感触がして、額がかゆくなる。汗がじんわりとたれはじめていた。
 銃を構えるように前へ差し出して、ドラム缶に近づき、えいっと炎にぶつけた。
 とびきり大きな音が響いた、と同時にガサガサと木が音を立てる。後ろを見ると、白い鳥が淡い空に飛びおどっていた。
 切り絵をまいたような、原始の一枚に思えた。
 爽やかさが胸に湧いて、いっそう儀式をやるべきものと後押しする。
 つい昨日、私は彼に別れを押し付けた。
 きっかけなどはなく、強いていうなら貯金がたまりすぎてしまった。ということになるのだろう。
 映画を一本仕事終わりに見て、なんとなく入ったカフェ。彼はモカを頼み、私はアイスコーヒーを飲んでいた。
 感想やアクション映画のわかりやすさ、それゆえのビジュアルの豪華さなどを軽く話し合って、それから私たちはしぜんと自分たちのことへスライドしていった。
 五月はなにをしようか。テーマパークのおいしいスモーキータッグを食べようか、仕事で上司の体臭が気になっている、続刊の出るシリーズものが予告ばかりでなかなか発売されない。うちの母の体調があまり優れないらしい。
 苦い茶色の液体が、汗をかきながらテーブルを濡らしていく。
 大丈夫なの、と聞けば、一度週末に帰る予定だという。
 病気ひとつしたことがないから心配だ、といってすこしくしゃんだ顔にあいづちをうつと、だんだん思い出がその口からこぼれはじめた。
「わりと、頑固な人なんだよね、うちの母さんはさ」
「ふうん」
 私は、コップに奪われた口紅を塗りなおしている最中だった。彼がいつかのときに、くれたミドルブランドでお気に入りだった。
「昔からそうだった。月極駐車場のこと、ゲッキョクってずっと読んでて、俺が中学生の時に指摘したわけ。それ、ツキギメっていうんだよって。そしたらぜんっぜん認めないの。ゲッキョク、ゲッキョクなのあれは、って。外で言ったら恥ずかしいよって言うとさ、これで40うん年生きてきたんだから恥ずかしいも何もないだって……。笑っちゃうよな」
「なんともいえないね」
「そんなもんだから、俺、めちゃめちゃ反抗したなぁ。それであんまり腹が立ったから、母さんの気に入ってたストールを隠したことある」
 あっ、と、思う間にも彼の声は止まらない。
「食器棚の上の奥にぎゅーってしといたの、ぎゅーって。そしたら、身長低いから母さん、全然見えないわけよ。それ見てニヤニヤしてたら、俺よか背の高い兄ちゃんが見つけちゃってさ。いやーっ、あのときは怖かったね。隆ー! こらー! こんな悪い子どもを産んだ覚えはない! ってその次の晩までご飯抜き。授業中も腹減って仕方なかったなぁ」
 ナプキンはもう円状にコップの底を吸って、じんわり湿って波打っていた。
「あー、それって……」
「ん、なに」
「いや、なんでもない」
「なんだよ変なやつだな」
 私が口紅のことを話したことなどまるで覚えてない、みたいな顔をしている。
 あなたに、ほんとうは聞きたかった。
 どうしていま、そんな話をするのって。
 細まって笑うその目からも、不安を覚えるということもあるのだとそのとき私は思った。
「ね、そのあとはどうしたの?」
「え?」
 ただの笑い話、くらいに考えていたんだろう。皿になった目が素直にこちらを見る。
「ぷつんって、何かが切れた気がしなかった?」
「え、ううーん。別に。いつものことだから、全然気にしなかったよ」
「そう」
 会話をする裏で脳の中は、目のの前にあるぬめった紅の先っぽのことしかなかった。
「ああでも、本気で家を出てやろうかなってくらい俺も怒ったよ。腹が立ってたって仕方なくて、母さんにあらいざらい全部ぶちまけた。もの隠したくらいでなんのかんの、虐待だーネグレクトだー母としてどうなんだーっ。ひととおり怒鳴り終わってさ、それでも無言な背中を見て、急に崖っぷちに立った気がした」
「え?」
「なにしてんだろうって。ギリって、なんか胸の奥で砂を噛むような感じがして。それから俺思ったんだよね」
「なにを」
「めっちゃ傷ついたぁってさ。そんなこと言って欲しくなかったんだほんとうは。それでもうちの子だって認めて欲しかった。それに気づいたら急に目が熱くなって、わんわん泣けてきて、全部それいったよ。心の中身が全部でるみたいだった。そしたら、だまって夕飯の唐揚げを並べてくれて、それで解決したんだよなぁ。涙でほとんど味がしないんだけど、うまかったんだよな、唐揚げ。ま、母さんのことがなんだかんだ大好きなんだなぁ俺は」
 気づいたら口紅が私の顔の間近にあって、それから隠すように甕へ放り込んだあのときの空気。
 口紅を思わず置く。
 コップを掴んでごくごくと液体を飲んだ。冷たさが喉の輪郭を教えるようにくだるが、私にはもうそれさえわからなくなっていた。
「そんな急いで飲むなよ」
 彼に言われても、私には止めることができない。ただひたすら、何かを口にしていないと今は耐えられないような気がした。
 だんまりになった私を見つめて、彼は目をまた細める。
 その奥に、石はいない。
 結構なことだ。
 結構なことなのだ。本来、私にとっては。
 そのまま鈍感なままであってほしいと願う。ただの、偶然ないたずらっ子であってほしい。そうしたほうが私には捉えやすく、飲み込みやすい。まっすぐなものしか、この頭を裏返さずそっとしておいてくれないのよ。
 でも私は、わかっていた気もする。
 あなたの目が、薄い線から、楕円の面積に変化して、急にやわらかくなったのを見る。
 瞳はつるんとたまごのようだった。
 笑いもせず、ひきつりもせず、自然な調子でつぶやかれる。
「あぁ、昔の口紅の……」
 たんっ、と席を立った音を置き去る勢いで、私は走り去った。彼の待っての音は、耳に届けどこの背中に追いつけなかった、そんな気がする。
 レンガ通りの街灯は、オレンジの果実のように夜にぽつぽつと連なってぶらさがっていた。ヒールで走るのは思いの外足に負担で、きしんだかかとが鈍い痛みをうったえる。かっかっ、と地面を蹴る度に街が揺れるので、私が動いているのかそれとも世界が私を跳ね上げるのかさだかではなかった。
 どうして、あんなタイミングで、私をいとも簡単にひっくり返すのだろう。あてずっぽうに私をえぐるだけで終えればいいのに、なぜあんなにも優しく下の隙間から手を入れてくるんだろう。いっそ忘れていてくれていた方がその後を気にしなくて済んだのに、なんなのだ、あの目は。

 もう、うちの子ではありません。

と言われたとき、私は本当は、母に言ってやりたくて仕方がなかったのだ。

 とってもとっても、傷ついた。どうしてくれる。私は本当に心が痛かったんだ。どうしてくれるんだ。この場に立っていられないぐらい、苦しくて苦しくて、苦しいよ。

 叫び切って、それでふと空っぽに襲われたかった。幾重にも覆われた見ないふりの茂みを払いたかった。立ち返りたかった。見たかった。

 皮がぷちりと剥けるように、みずみずしい涙を流しながら抱きつきたかったんだ!

 膝が折れそうになる。吐き気がこみ上げる。気づいてしまった、気づいてしまった、気づいてしまった。私はとうとう、一番奥のひた隠しにしていたところまで、あなたに丸裸にされてしまった。もうこれでは嫁に行くこともかなわない。
 生皮を剥いで現れる筋の、その果実にういた雫が連なった。
 だからこうして、私はまた山を訪れることになったのだと思うことにした。
 別れようのメールを打って、洗面台に立つと、無機質でひんやりとした私の目が並んだ。




 間接照明のランプシードを突っ込み終えたところで、ようやくダンボールは空になった。
 ドラム缶はいよいよ異臭と炎を放つ魔の大砲へと変わり、まったく人工的で有害そうな煙が街のほうへとなびいていく。
 一人目の彼から木製の置物をもらったことから、はじまったことであった。
 反応が可愛くない、と吐き捨ててどかどかと出て行ったのを最後に、帰ってこなくなった。
 私は、彼が一生を共にしようといつか言ったカフェのことを思い出していた。それから、目の前の曲がった現実が脳みそを探る感覚がした。
 私が悪いのかしら。
 あなたの好きなぶどうも、ミートソースも、体位もやってあげたのにねえ。
 気づけば膝を殴っていた。何度も、何度も。
 悔しかった。ただ、騙されたように自分が感じていたことが。裏を探る努力を忘れて、いつしか石に成り果てた私が。
 閉じた扉を見ていられなくて、目を背けた先に置物があった。彼が唯一、どこかからのお土産で買ってきてくれたものだ。たしか沖縄だったろうか。
 握ると、人型に手のひらが押される。私は、許せなかった。なぜ部屋から出ていったときに、これも回収していってくれなかったのだろう。別れる、というのなら、ひとつの残り香も置いていってはならないことを彼は知らないのだ。
 燃やそう。
 ふと拾ったように頭がワードをつぶやいて、すっとした。
 手に取った鍵がいつしかハンドル横で捻られて、私は山の中を走っていた。その日はうってかわって夜で、闇をハイビームで切り裂くのが楽しかった。助手席にのせた置物がはねてなんどもおっこちそうになった。
 テキトーな当てをつけたわりに、今日の広場をすぐ見つけることができた。
 そのときはたしか、ぼろぼろの一斗缶を使ったと思う。
 枝をどんどん入れて、火が燃え盛った。静まった山の中に現れた赤は、泉のようにもうもうと揺らめく。
 握りしめた右手を振り上げた。
「死んでしまえ」
 ガゴン。
 パチパチと、火がくだけて粉になる。それが水中の泡みたいだ、と思った。



 それからというもの、私は恋人と別れるたびに、相手からもらったものを全て燃やすことにしている。
 彼は、本当によくものをくれる人だったから、こんなにも大荷物になってしまった。
 さて、最後の仕上げだ。
 コートのポケットから直で持ってきたハサミを取り出す。
 ドラム缶に近づくと熟しきった熱がもわもわと体へにじりよった。
 爪は1日に約0.1ミリずつ伸びるという。髪は、その三、四倍の長さで伸びるらしい。
 一ヶ月で9ミリ、一年で10センチ。
 三年では30センチにもなる。
 ゆるくまとめた髪の先をぎゅっと握り下に引いた。そしてぐっと、ゴムの根元に刃をあてこむ。
 ばかみたいな真面目さは、長い髪が好きだとの言葉に、千日も美容室を遠ざけさせたのだ。
 じょきん。
 幾十万の糸の細かな凹凸は、こんなにも私の手に繊細に、そして一挙に押し寄せる。
 ばららっと黒い線が、塊となって落ちた。
 炎はそれをすんなり受け入れて、ふくらみもせずただ燃える。ゴムをとってそれも投げ入れると、戻った毛先の位置がなつかしかった。
 終わったのだ、と思った。これからもずっと一緒にいるつもりだったのになぁ。
 ふ、と思う。なぜそんなことを今考えたのだろう。
 彼からはそんな約束、ひとつも受けてなどいないというのに。
 ちりちりと音がして、さきほどとはまたちがった、いやぁなにおいが漂ってきた。
 タンパク質の焼ける、ひどく生臭い空気。
 咳き込んで、思わず距離をとった。それでも臭くて臭くてかなわない。
 風向きがこちらに変わり、ダイレクトに臭気が襲った。解釈のしようがないその不快さは、足をふらつかせた。朝の薄い影が、地表をスライドする。ハンカチを取り出して鼻を押さえると、さきほどよりかマシになった。
 髪の焼ける匂いが苦手だとは、二十数年生きてきて初めて知ったことだった。
 まなじりが生理的な涙で濡れている。
 とおもうとどんどんあふれて、いつの間にか大きな流れが顔の横にできていた。後から追ってくる胸の詰まりを感じて私はやっと、これが匂いによるものではないのだとわかった。
 左目の涙がハンカチの角に引っかかって、止まっている。
 どうせなら、すんなり流れなよ。もういいじゃんかよ。
 すっと手をどけて、ハンカチをしまった。とたんに新たな涙がすぐ垂れて、顎の先に集まった。顔があたたかい。それは明るくなった朝のせいだ。きっと、朝日が雫のプリズムを通ってきらめいているにちがいない。……などと考えるのももうやめにしよう。表面なんて、もうどうでもよい。
「うああああああぁあぁぁ」
 炎がすべてを焼き尽くして音もしなくなるころである。ひとりの女が、化粧の溶けたマヌケな顔でようやく立ち上がったのは。
 清々しいと女はのちに思ったという。
 すると、ふとスマホが震えて、女は我に返った。
 手に取って開いてみると、女の顔はなんというか、変な曲がり方をした。おそらく、人生で初めてする顔である。
 スマホを揺らしたのは、隆という男からの連絡だった。
「忘れ物をしているよ、前で待ってるからね」
 その文章とともに載せられた写真を見て、女の口から嘆息が漏れた。
「なにそれ……」
 女はつぶやいて、固まり、それから急にふっとやわらかくなり、無意識のうちに手が髪をなでた。
「降参」
 黒い車に乗り込んで、女はキーをひねる。ギギィと音がして、女はハンドルを握った。その目には朝日が入りこんで、小さな白丸が打たれていた。真っ直ぐその顔は、迷いなく先を見ているようだった。
 女は深呼吸をして、もう一度、とただおもった。
 その写真には女の家のドアと、男の手がうつっていたのである。女は見たのだ、その指の先につままれたものを。
 かつて女が男からもらった、それは真っ赤なルージュを。

                                ー終ー

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