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能楽の空白(という濃密)

 能を見る時間の80%は退屈な時間だ。幕があがって囃子方が登場し、切戸口から地謡が出てきて、それぞれの位置に着座する。ワキが登場してなんだかやり取りがあって、それでもなんだか始まったのか始まってないのかわからない。
 そして、そうしたあいまいな空間を突然笛の音が引き裂く。そこではじめてシテが登場する。しかしそのシテもまたひとさし舞っただけで十分に盛り上がる前に去って行く。
 アイが物語る話は多くは主人公の不在であり、いまさっきのシテの存在そのものが実は大きな空白の存在だということを観客は思い知る。
 再び登場するシテはすでに存在しないものの夢幻。自ら狂ったもの、狂わされたものたちが、存在への憧憬を激しく舞ったあとあっという間に去る。
 しずしずと退場するシテは橋掛かりにいても、すでに舞台は空白でその状況がさらに存在の空白を強調する。
 初めて見ると、空白の状態に慣れない人間はその状態を退屈と勘違いする。
 
 能楽の大きな要素としての囃子は、一本の能管と三種類の打楽器だ。これらが奏でる音は、能を見ているという意識がなければ、すぐに自然の風景に溶け込んでしまうだろう。囃子の音は、すぐ風や水が樹々や岩を打つ音のなかにまぎれこんでしまいそうだから。それらは感情や状況を決して説明しない。ただ現れ、降りかかり、暴れ、時には倒れる。
 それは感情を取り去り、人の心をまっさらな空白の器にする。
 
 申楽が寺社と結びついた民のものであったとしたら、それは荘園等の経営が脅かされ、武士が起こり武力が台頭していく飢餓と戦乱のなかで、土地から切り離された放浪に近い民の芸能であったのだと思った。
 
 飢餓と戦乱のなかのひとびとにどのように喜びを与えるのか。
 飢えることは身体と感情のエネルギーの喪失だ。死が間近にあるということは極度な緊張による感情の麻痺だ。
 苦しみと死への恐怖に始終さらされている人々のこころに、純粋なよろこびや楽しみは、すぐには入り込むことができない。
 能はまずそのこころをまっさらな空白にすることを目指したのだ。
 
 そう能はまず、空白によって、疲弊した民のこころを満たそうとしたのだ。

 型による象徴的な振り、面の人を超えた表情、感情ではなく感覚のための囃子。
 感動と興奮で満たすことが現代のエンターテインメントであるなら、その対極に存在しようとするのが能楽かもしれない。

 感情を忘れ去り、現世の悲哀と汚辱からのがれること。それらから自由になれる状態。そうした空白の状態こそ飢餓と戦乱の世での安心だったのではないか、と。

 そうして能が空白にしてくれた心に初めて狂言がいっとき笑いを注ぎ込むことができるのだ。しかし狂言の笑いは、無ではない。その昔、実は毒と悪を隠し持っていたかもしれない、という笑いだ。そうでなければ狂言がこの時代に生まれた意味がないと思ってしまう。能と狂言はしたたかに生きなければならない時代の芸能なのだから。
 

 戦乱の世が終わると、人々は能のこの感情の空白に耐えられない。浄瑠璃や義太夫が、三味線というひたすら感情をゆさぶる楽器を使わなければならなかったのは、それが平和の時代に必要とされたからだ。
 文楽のなかでの語りがくどいほど思い入れ過多に聞こえるのは、そうした感情の表現こそが芸能のなかで求められたということなのだろう。三味線が西洋の弦楽器よりひたすら感情を揺さぶろうと働きかけるのは、それが必要とされた社会のものだからという気がする。

 感情が平穏で弛緩してしまいそうな世のなかで、日常の人生を彩ってくれる三味線という弦楽器が受け入れられたことは、太平の世を表しているのではと思う。

 そして今、能楽をみるということは、複雑すぎる関係性のなかで、多様すぎる感情の洪水に押し流される現代の人間に、再び感情の空白をとりもどして、ゆっくり新しいこころを再生する効果があるのではないだろうか。
能は、心を空白にして整えてくれる。


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