第8話 酒場をめぐり、人に触れ、机の上にはない世界を学んだ。そして大きな流れの渦の中に。


2012年12月。


勉強カフェ横浜関内スタジオのオープンから、4ヶ月が経過しようとしていた。


時刻・・・23時過ぎ。



横浜関内スタジオの平日の閉店時間である。


クローズ作業を終えた頃に、僕の携帯電話が鳴る。



着信先は、大学時代のアルバイト先の社員だった、K島さんからだ。
関内の一つ先の石川町のパチンコ屋が経営する焼肉屋で働いている。


物理的に距離が近くなったことと、もともとかなりの時間を過ごしている仲だったため、
よく連絡を取り合うようになっていた。



「お疲れー。

仕事終わったかい?

いつも通り、今日も繰り出そうや。

バダイ(青葉台のことを、こう呼んだ)か山手、どっちがいい??」



こんな感じで、K島さんからは、かなりの確率で電話がかかってくる。

やたら気に入られていた。そして僕も、K島さんを慕っていた。

というか、先輩後輩という関係を超えて、もはや友達であった。



「いいっすねー。行きましょう。

今日はいつものバダイの焼き鳥屋に顔だして、
2軒目で、山手のこの前行ったバーで店長の話の続きでも聞きに行きませんか。

山手はまだ開拓できてないので、良さそうなところあれば新店チャレンジもありっすね。」



「おお、そうしよう。

また、焼き鳥屋って。

お前、牡蠣スモーク食べたいだけだろー。

わかってるよ。

OK。

じゃ、また石川町駅北口で」


横浜・青葉台駅にある<串工房>という焼き鳥屋に、
大学時代によく通っていた。


焼き鳥も好きだったが、ここの<牡蠣の自家製スモーク>
が好きすぎて、毎回5回、6回、とおかわりしていた。



入店するなり<オーダー、牡蠣スモークお願いします!!>
と叫ばれる歓迎の仕方をされるほどになっていた。


「完全にバレてますね。


はい、また牡蠣スモーク食べ尽くしたいと思います。」



「よし、腹すかしとけよ!」



・・・こんな感じで、僕の23時過ぎからは、よくスタートした。

新店舗の運営にも慣れ始め、オープンから順調に、横浜の方にも受け入れていただき、田町スタジオからも転籍という形で、馴染みのT田さんとY口さんが横浜に来てくれており、受付前のカウンターを盛り上げてくださった。
おかげで、年内で会員数も70名に到達していた。




勉強カフェは、その雰囲気を知っている人がいると、コミュニティが早い。
<気軽に会話していカジュアルな場所である>ということを、最初から理解いただくという
のは一つハードルになっている。その点、最初から知っている方が空気感を作ってくれるのは、ありがたかった。



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当時、25歳。

僕はエネルギーが有り余っていた。
まだまだ、山口にいた時の反動が続いていた。



都会。

お店、いっぱい。

煌びやかなネオン。

飲んだことのない、酒。

食べたことのない、どこかの国の料理。




<うわあああ。こんなうまいものが世の中にあったのかよ>




って、初めてに触れる衝撃 + 感動。



これからここに記すことは、
エネルギーのやり場所に困っていた、「若気の至り」であり、
そして、そこから突然、孤独の闇へ突き落とされる男の記録である。どうか温かい気持ちでお読みいただきたい。





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深夜1時。関内駅からすぐの、不老町の交差点。



僕の有り余ったエネルギーは、たとえ日付が変わった深夜からでも、
アルコールを帯びながら、
ひたすら街中をめぐることに通じた。


その、2012年〜2013年という日々は25年間の中で、過去最高に、
不良少年か、というくらい街の深夜徘徊を行っていた。



朝から23時までのシフトだったとしても、関係なかった。



おそらく、今後どれだけ飲むようなことがあっても、このとき以上に飲んだり街を彷徨う時代は来ないだろう。


一生分を飲んだ、というくらいに。
(こんなことを書くと好きなんだと思われて、よく酒をプレゼントで送られるのですが、今はもう酒は量はあまり飲みません。適量で、料理が活きるような飲み方にシフトしました。)



そのくらい、何があろうと、どれだけ疲れていようと、K島さんの誘いもあったおかげで、
関係なく街に繰り出した。


自分がどこまでだったら疲れて動けないくらいになるんだろう、ということも知ってみたかった。


いろんな場所に行きたくて、
いろんな人に出会いたくて、
一体、横浜という街がどんな風になっているのか、自分の目で確かめたかった。



あとは、単純に、大人になれたことが嬉しかったのだろう。



小学校、中学校、高校、大学。
似たようなコミュニティに身を預け、英語や数学がわかったような気になって、家に帰る。


決まった時間にチャイムがなり、授業は始まり、休み時間になれば
ヤンキーを含むクラスメイトとうまいこと距離をとりつつ、
テストでコンスタントに点数をあげていくような
学生生活は、振り返れば、僕には合わなかった。



その世界で生きていくことだけが正解かのように、信じきっていたあの時代。



ノーノー。
実は世界はもっと広かったんだ。校舎の中なんて、ほんの一部。


学生時代の自分に、「大丈夫、大人の方が楽しいぜ」って言ってあげたい。


つまり、社会人の方が、厳しいけど自由な分、性格に合っているんだということに、気づき始めたのだった。



深夜から始まる、アルコールの匂いとタバコの煙にまみれた、少し危険でも
何が待ってるかわからないワクワク感を伴う街のネオンは、当時の僕の心をつかんで離さなかった。



後から振り返ると、この時の夜から得たあらゆる経験は、あまり体には良くない気がするが、
自分の今につながっている。


いわゆる、「体験学習」ってやつだーーーーー。





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最寄駅に京急線・日ノ出町駅を置く
野毛周辺から始まり、そこから山手に場所を移し、ある時は白楽も行ったり、元町中華街であえて中華以外を攻めたり、馴染みの青葉台に出たり。



関内スタジオの近くでは、
北は相生町付近や、南では曙町・扇町付近に週2〜3回は繰り出した。



また、K島さんとは笑いのツボがよく合った。

酒を飲めば、酔いの勢いもあって、
お互いが、お互いの話に爆笑していた。



K島さんが飲めば、僕も負けずにとにかく飲んだ。
お互い若かったのか、どれだけ飲んでも記憶を飛ばしたり、理性を失うようなことには一度もならなかった。



僕は年下ながら、酔った勢いで思ったことをストレートにぶつけると、K島さんは、それをよく面白がった。
時には、口論になったりすることもあったが、、、そういうことをいってくれる人があまり周りにいないのかもしれなくて、新鮮に思ってくれていたようだった。



K島さんは、
僕が横浜市緑区の長津田駅から徒歩10分ほどのマンションに住んでいた大学時代、すぐ近くの、アルバイト先・「とんかつ和幸」の社員であった。



その後、和幸から転職をして
横浜で数店舗を展開するパチンコ事業を中心とする会社に入社していた。



そこの社長にえらく気に入られ、
平社員から5年でポジションは一気に常務にまで上り詰めるスピード出世を果たしていた。


僕よりは2つ上なので、当時は27歳。一見寡黙そうに見えるが頭の回転が異様に早く、弁が立ち、
物怖じすることなく場をコントールするような立ち回りのプロみたいな人で、それが仕事に存分に生かされていた。



スピード出世の理由を今、分析すると、とにかく社長へのレスポンスが半端じゃないくらい良かった。
K島さんは常にスマホを持ち歩き、社長からのコールに出なかったことはなかった。一緒にサウナに行く時も、
定期的にロッカーに着信がないか確認しに行き、着信履歴があれば、すぐに掛け直している姿を見ていた。
夜中に呼び出されてもすぐに対応していたし、僕との飲みの途中でも何かあれば駆けつけていた。


出世したおかげで増えた、この時のK島さんの月収が、
最後に確認した時点では260万と言っていた。

同世代から比較すると、かなり多い方だろう。

若くして資金を得すぎて、かなり感覚が麻痺していたに違いない。
K島さんは物欲がほとんどなく、服にちょっとお金をかけるくらいで、住まいや車や時計など、一般的な金持ちがつけそうな
ものは購入する気配もなく、「消えるものに金を使いたい」と言い張り、
僕との食事代など含めて、飲食や移動による消費にほとんどを使っていた。


ゆえに、このときの街の巡り方は特殊というか異常で、
基本的にタクシーを使い、その代金の他、すべての飲食代、締めに行くスパ代、レンタルDVD代までもK島さんが支払いを済ませてくれていた。
(唯一、僕が毎回全額を払うことがあった。それは、「DAMカラオケ採点対決」を行う時で、負けたほうが全額をおごるルールを作っていた。
おそらく30回〜40回は一緒に行って挑戦したが、結局一度も勝てなかった。)


飲食をともにすれば、たくさん食べないとむしろ機嫌が悪くなる人で、「振る舞う」のが好きな人だった。



だから、非常に贅沢な、あまり大きな声で言えない大変軽薄な話だが、
途中から寿司や焼肉を、僕はK島さんを喜ばせるために
食べたりしていて、「もう食べたくない」、と思ったこともあった・・・・。



居酒屋に行けば、お互い普通の人よりも食欲旺盛、かつまだ20代というのもあり、飲んで食べまくる。
1軒目はものすごくお腹が空いているし、また、K島さんが僕が食べれば食べるほど喜ぶので、満腹になっても食べたりした。


先ほどの焼き鳥屋であれば
会計は二人で毎回2万円を超えるのだった。(当時の僕らは売り上げに貢献する、相当いいお客さんだっただろう)


そのあと、バーで小一時間過ごし休憩を行う。


少しお腹が空いてきた頃に、今度は、中華街にある24時間営業の「すしざんまい」に行ったりする。

そこで、おまかせ握りを2人前頼み、日本酒や焼酎で飲みの続きを始める。
酒は恐ろしい。

たくさん食べて低下していた食欲を、ある程度復活させる効果があるものだと、この時にわかった。


そうやって勢いづいてまた食べたり飲んだり、周りの店員さんやお客さんにもお酒をおごったりすれば、
また二人で会計は2万近くを計上するのが常であった。



このお金の使い方が、まるで最高の使い方なんだ、と言わんばかりに、
K島さんは僕におごったりすることや、消えるものに使ったことを喜んでいた。


金銭感覚が、おかしくなっていたに違いない。



この時の異常な状態を象徴する、今でも覚えている一場面がある。

ある日の事。

K島さんの車の中に、なぜか100万円束が裸で置いてあった。

僕は疑問に思い、聞いてみた。


「これ、なんですか?」


「・・・・え?100万円。」


「いや、そういうんじゃなんくて、、、何のお金ですか?」



「いやいや、普通に置いてるだけだよ・・・。」



(普通に置いている・・・?

うーん。

パチンコ屋って儲かるんだなあ、、、)



そのあと、K島さんとはいろいろな事が起こる。
これらが表す象徴の通り、すでにそれが始まっていたのだった。
(これは次回以降で詳しく記載する。ただし、今となっては本当にいい経験をさせてもらったと思っているし、感謝しかない。)




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一方で、この夜の日々は、ゲーマーで人見知りだったかつての僕を打ち破り、多少の社交性や多様性を身につけさせてくれた。


街の中で様々な店をめぐる中で出会った人たち、コミュニティに接する機会が増え、
「酒を伴う体験学習」は猛スピードで進んだのだった。



出会い、話した人の中には、

バンドマンもいれば、体にお絵描きをしている人もいたし、会社員の人もいれば
フリーターもいて、LGBTの人、国籍の違う人やアスリートもいれば風俗嬢もいた。


K島さんと自分の長年の付き合いで身につけたコンビネーションは抜群で、
二人で行けば大体の店員の方や近くのお客さんと仲良くなれた。



最初は、K島さんがだいたい、誰かに話しかけたり、お酒をふるまったりする。そのあと、仲良くなってくると
僕が今度はそこに入り、話題を広げる。すると、またK島さんが、その話題を引き継ぎ、
展開していく。すると、今度は店員さんやお客さんから話を振ってくれるようになる。
このパターンだった。そのまま仲良くなって、
一緒にカラオケに行ったり、別日程で飲んだりしたこともあった。


そんなこんなで、街に繰り出すたびに、顔馴染みの店や知り合いがどんどん増えていった。



人と出会うことのワクワクと楽しさを知ったのは、この日々からだ。



生まれた場所や、価値観、年代、性別、仕事、国籍、宗教、様々な条件が異なる人に触れる。


これは、紛れもなく、僕は今でも、「学び」だと思う。


毎回毎回が、どんな教科書にも載ってない、衝撃的な「出会いという学び」なのだ。
学校生活だけしていれば、絶対に知らなかった。


うまくしゃべれなかったりもするし、全然話が合わないこともある。
面白みのないやつだ、と思うこともあれば、逆にそう思われていることもあるんだろう。


それでいいんだ。


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この日々の中から二つ、「出会いから学んだ思い出」を記す。



【麦田町にあったすし処・錦】

山手の先にある、「麦田町」にある気のいい大将が毎回迎えてくれて、
味も一級品の「すし処・錦」によく出入りしていた。


街に繰り出す深夜の時間でも営業していたのと、K島さんとその会社の人の行きつけで、
よく一緒に行くうちに、僕もそこに馴染んでいた。


僕は、いつも行くような回る寿司では普段食べないようなネタをたくさん食べたい、と思い、
いきなり「うに3貫、大トロ3貫」というような、節操のない頼み方をした。



「そんな風に頼むネタじゃねえよ」


と言いながらも快く握ってくれ、

一口食べるごとに


「うめえええええ!!

世界一うまい!!」


と感動しまくる自分を見ては
(本当に、うまかった。)



「ハハハ!

荒井さんはやっぱり、見た目だけ老けてるんだな。

反応が若いな。」



と、握り終えて、休憩がてらのくわえタバコをふかしながら、笑ってくれるのだった。
(僕は当時から見た目より+10歳には見られており、毎回場を盛り上げるために<年齢当てクイズ>を使っていた)



ある時、ビールや焼酎ばっかり頼んでいる僕に、

大将が言った。


「荒井くん、君ね。

焼酎とかもいいけどね、日本酒がいいんだよ。寿司は。

高級な酒なんていらないよ。


沢の鶴とか、置いてるから、
そういう普通のでいいから。いっぺん日本酒と合わせてみな。
それが寿司の食べ方ってもんだ。


試してみるかい。」


とずっと思っていたであろうことを教えてくれて、
素直に僕は


「じゃあ沢の鶴ください!」

と頼んで食べてみた。


すると、実際に寿司とセットの日本酒は進むことがわかったのだった。

それ以来、寿司の時は決まって日本酒にすることにしたり、
あとは日本酒はうまいんだ、ってことがわかって飲むようになった。

これも体験学習の一環ととらえている。




・・・・しかし、ある日。



それは、突然だった。



K島さんからの電話。

仕事中になんだろう?と思い、出てみると。



「荒井・・・・

今、近くに誰もいないか?」



「今はお客さんも少ない時間ですが。

何かあったんですか??」




「今から言うことの、心の準備をしろ。



・・・・



錦の大将が死んだ。

死因はくも膜下出血。

トイレで発症し、そのまま倒れ便器の水たまりに頭から突っ込んでいたところを見つけられたらしい」





「はあ!?



死んだ?




あの大将が??


・・・・



あんなに元気だったのに!?」




「くも膜下出血っていうのは、、、、突然らしい。



大将が握ってくれた最後の寿司、あれ、なぜか格別に美味かったってお互い言い合ったよな。



そういうの考えると、、、なんか、決まってたかのように・・・。


お通夜が急遽決まった。




俺も出席してくるから、今日の予定は一旦リスケで・・・」



それ以上、言葉はなかった。



この電話の4日前も、いつものように、

僕のアホな注文、大トロとうにを笑いながら、握ってくれた。



大将は、50歳前半。平均寿命なんて、ただの数字でしかない。



人は、急にいなくなるんだ。



この世の、情の一切通用しない原理を、ここで僕は痛感したのだった。

ああ、、、、

その日、自分で自分の異変に気付きながら、接客中も少しモーローとしていて、何が起きたのか、よくわからなかったのを覚えている。





【本物の歌】


本人は公言していないので場所は言えないが、
元紅白歌手の「内藤やす子」さんがママをしているスナックに、楽しみでよくいった。


3000円で、好きなだけ歌って飲み放題で、内藤やす子さん本人も、
なんと目の前で歌ってくれるのである。


もちろん、ママなのでやすこさんが料理をつくり、接客もする。
(当時は病気療養中で、芸能活動を停止中だったため。今はもう復帰されたのでスナックは存在しないだろう。)



最初は、本人だと、僕らも気づいていなかった。



今考えると恐れ多いが、
当時の僕たちは歌をたくさん歌わせてもらっていった。


長渕剛の「とんぼ」を、いつものように僕が歌うと


「コリャ、田舎もんの歌だよ」

とママに笑いながら言われた。
(まあ確かに、歌詞の内容は東京に憧れた、とかそういう内容である)


対抗して、その後またやす子さんもなぜか「とんぼ」を入れ、歌い始めた。


(おおお!!!

ママ、めちゃくちゃうまい。ってか、独特の味があって。ちょっと声が出づらそうだけど・・・

この歌、ずっと聞いていたいなあ。)


と、その時思った。
歌い終わって、K島さんが、


「ママ、めちゃうまいですね。」


と言うと、近くにいたスタッフが


「あの、ママに、うまいとか、言うのは失礼なんですよ。

そういう次元じゃないから・・・。」


となぜか、怪訝な顔をされたのが印象に残った。



その後日、
<長渕剛カバーソング集>を聴いていたら、

聞き覚えのある歌声が流れてきた。


(・・・え??

これ、ママの声にそっくりじゃね!?)



僕は、ものすごく驚いた。

それは<ろくなもんじゃねえ>という曲で、
カバーしている歌手は「内藤やす子」と書かれていた。


数日前に聞いた、ママの声とそっくりなのである。


(確か、ママは「やっこ」って呼ばれていたな。

やっこ、ってもしかしてやす子、から来ている?)



この時点で、ほとんど確信していたのだが、
ママがよく、
ジョー山中さんも生前は来ていた、と言っていたのを思い出して、
調べると、

内藤やす子とジョー山中は仲が良かった、とネットの記事に書かれていて


(ああ、やっぱりそうか。どおりで。


あのスタッフが、うまいとかそういう次元じゃない、
っていうのもごもっともだ。

ママの歌がどこにもないくらい感動的なのは、当然のことだったわけだ)


と、ママが「内藤やす子」名義で活動していた歌手であることに気づき、
歌の凄さに納得した。それから、僕らはそのことに気づかないふりをして、通い続けた。(おそらく、気づかれてない、と思っていることが心地よかったと思うから)



ママは・・・・よく美空ひばりを歌ってくれた。


「われとわが身を眠らす子守唄」が好きだったみたいで、
この歌は、毎回、声を絞り出すように歌っていらした。



眠れ 眠れ 我が魂よ
明日は嵐か青空か
みんな自分を愛してる
てるてる坊主の真似をして
死んだりしません 辛くとも



なんか、いろいろ大変だったんだと思う。
調べてみると、2008年のディナーショーで突然倒れ、
そこから夫以外の記憶を失ってしまった渦中の状態にあり、
この歌がその時の気持ちを代弁していたのかな、と思った。



そして、その歌を聴かせてもらいながら、、、、


深夜2時。


焼酎が進んだ。


本物の歌。

酔いの中で、揺れやすくなっている感情を高ぶらせてくれる。


その中に、どうしようもない、孤独が隠れていた気がする。
寂しそうだった。




「また来ますね!」



「おー、いつでもおいで。3000円で歌って飲み放題の店なんて他にないんだからね。」



そう言葉を交わしてから、僕はそのまま会うことなく、大阪に来た。

ママも今は復帰して、歌手活動を再開されているよう。



もう二度と戻らない、「本物」に触れることのできた貴重な時間だった。

こんなことは、どこに行っても学べない、確かな体験という学びだった。



【人に触れ、人から学び、人にやさしく】

人とのつながりを、明確に人生で意識したのは、
大学2年生の時、カナダに短期留学に行った時のことだった。

エレベーターで、一緒になったどこの出身かも、年齢もわからない
海外の人に、


「Where are you from?」

と言われた。


エレベーターの少しの時間、せっかくだからこの空間での縁を感じてくれて、
気さくに話しかけてくれただけだろう。

その人にとっては、日常でよくある些細な一場面。

でも、僕にとっては、衝撃だった。

僕の今まで作り上げられてきた、固定観念をぶち壊してくれた。


< 人は、理由なく人と話していいんだ。 >


よくわからない方もいるかもしれない。



その時まで、僕は、< 人には用事や理由がない限り、話さないもの >と思っていたのだった。



この後の人生に、影響を与える、大きな瞬間に遭遇していたのだった。
もちろん、この経験がなければ、前述の、横浜の夜にもつながっていないだろう。


検索しても、出てこなかった。

確かなもの。



ゲームが好きでゲームばかりやっていた小学校、中学時代。
ソフトテニスにはまって部活ばっかりやっていた、高校時代。


自分が好きなものを、同じように好きな人とだけ、接していた。


カナダに行ってから、自分が知らない価値観を持つ人も、面白いんだな、と思えた。



勉強カフェという新たな挑戦をやっていく上で、「コミュニティ要素」に、なぜか惹かれるのは、そのせいだ。



紛れもなく、自分自身の経験からきていて、それが人生に及ぼす影響が、凄まじく、
また、人生に及ぼす影響、というよりも、それ自体が目的にもなり得る、
人生そのものに変わる魅力を持った要素だからだ。



「学んでいる大人」がいて、そこで< つながることがあるかもしれない >可能性を秘めた空間。

そこに、大きな価値がある。


僕のように、人から何かを感じることがあって、大きく性格が変わる人がいるかもしれない。


人見知りだった自分が、少しは多様性を取得できた、ってことは、いくら勉強してもわからなかったこと。


あの日、人、に出会うまで。
寿司屋の大将に教えてもらったこと、やす子さんの歌から感じた生き様。

夜の街で出会ったすべての人々。


酒は飲み過ぎたけど、多くの人と時間を共有できたこと、は今でも僕の財産になっている。


だから、この体験をできるような、様々な仕掛けを作っていければいい。

それは、今度は酒、ではなくて、
「学び」に変わるんだ。


これからの時代は、酒、よりも学び、になる。


学びは、コミュニケーションツールになる。酒がコミュニケーションの役割を果たしていた時代から、学びがその代役を務める。



きっかけはなんでもいいんだけど。コミュニケーションが取れればね。


でも、その時に、今の時代の流れを見ていると、健康志向だったり、学び直しのことを考えると、酒が合ってない。


居酒屋に行く時間を、どこに置き換えるか。その選択肢に勉強カフェのような、学びの要素が入ってくるだろう。



【勉強、とコミュニティ、にシナジーは果たして存在するのか。】


勉強(自習)は、最終的には一人で超えなきゃいけないこと。
だから、一人で黙々とやる。


そこに、誰かと知り合える要素は、いるのか。

当然の疑問だ。


しかし、現に勉強カフェからいくつもの人が人生を飛躍させていっている姿を見ていると、とにかくここに
可能性が溢れている気がしてしょうがない。


理論はわからないが、仮説を立てるならば、
人間は、人間というものを無視して生きていけない運命を背負っていて、
どこかで、勉強をするという同じ志を持った人の、空気感を空間の中で共有し、
できればそこで触れ合いがあれば、別の自分が見えたり、どこかに行けたりするかもしれない、
という淡い期待の中で、生活をこなしていく、そういう性質があるのではないか。



人は、寂しさを埋めないといけないのかもしれない。


自習というのは、自己と対話し、内面を掘り下げる行為ゆえ、
寂しさが表面化しやすい。


その寂しさは、自習量を減らす可能性がある。

<他者との触れ合う可能性>への渇望、が湧いてくる。


こうなった時、精神衛生面をケアする必要がある。

それは、甘え、とかそう言った根性論の類ではなく、
<自習量を一定に、コンスタントに保つため>という至極まっとうな、本来の目的である自習にフォーカスを当てた対応策である。


寂しい、という感情に起因しているとはいえ、対策すべき項目だ。


今、世の中にコミュニティサロンが増えてきている。

これも一つ、他者との触れ合う可能性、への答えだろう。


勉強カフェとしても、このように、もっと皆が接続しやすいコミュニティとして機能できる仕組みを作り、
また、それが健全に運営されるように調整役を増やし、小さくとも立派なコミュニティを社会の中に
組み込ませていくのが、僕ら運営側の、直近の命題になる。


それは、このように様々な

人から学んだことで大きく変わることのできた、ある日の自分が求めていたものだ。


【勉強カフェとして次の展開】

こんな風に、夜は徘徊をしつつも、自らもコミュニティの中に入りその楽しさに触れ、、日中はそこで得たことを活かしてコミュニティを運営する側に回り、

全力で店内企画を行ったり、さまざなま会員様同士をつないだり、お話をさせてもらったり、
夢中で過ごしているうちに、半年が過ぎた。


気づいたら、ついに勉強カフェ横浜関内スタジオも軌道に乗っていた。



そして勉強カフェ全体の成長スピードも、
全く衰えることなく、むしろスピードを増していく。



ーーーーーーーーーーーーー

2013年2月

朝の9時。勉強カフェ渋谷北参道スタジオのミーティングルーム。


月に1度の社員全員が集まる会議が開かれていた。


創業者である山村さんから、この日、大きな方針転換の発表が行われた。


「勉強カフェの新しい形を、考えました。

勉強カフェは、今までFCを含め、統一感を持って、ブックマークスの指針の元に、運営をしてきました。


しかし、それが果たして勉強カフェの持つポテンシャルを発揮しきれることにつながるのだろうか。

もっとそれぞれ運営側の想いが反映する店舗があってもいいのではないか、と。

この疑問に、挑戦していきたいなあと。

なので、勉強カフェを、日本中に開放することを決めました。」


この山村さんの、社運をかけた決断から、
新たな展開が訪れる。



< 勉強カフェアライアンス >
が産声をあげようとしていた。



これを機に、僕の運命も、製薬会社を辞める決意をしたあの時のように、
何か大きな流れが身を包み、そこに導かれるように進んでいくのだった。


それは、人生でかつてないほど、先の見えない闇の中でもがくような孤独との戦いの時間でもあった。

第9話に続く。

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作者 : 荒井浩介 株式会社ARIA代表取締役
Blog : https//kousukearai.work
Twitter : https://twitter.com/kousukearai
Facebook : https://www.facebook.com/kosuke.arai

勉強カフェ大阪本町/大阪うめだ official WEB : http://benkyo-cafe-osaka.com/
※勉強カフェ®は株式会社ブックマークスの登録商標です。 勉強カフェ大阪本町/大阪うめだは、勉強カフェアライアンスのメンバーです。

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