里子に出たい心境である(3012文字)
妻は、年上の女性に、なぜだか世話を焼かれる、たいていいつも。
九段坂を上りきったあたりに住んでいた頃、マンションの駐車場に、新しく買った車が届くことになっていたのだけど、僕も妻もそれを、部屋で待つことができなかった。
なぜかというと、すぐ近所にだったけど、新しく部屋を買い、そちらに引っ越すことになっていて、駐車場はあくる日まで使えたのだが、住んでいた部屋にはその日からもう入れなかったからである。
新しいマンションの駐車場が使えるのは翌日からで、だから買った車は、古いマンションの駐車場に納車してもらうことになっていた。
そんな土曜日、僕と妻、――と書いたけど当時はまだ妻じゃなくて婚約者だったわけだけど、ともあれ僕らは、近所の喫茶店に腰を据え、納車される車を待っていたのである。
ディーラーからの電話が入り、妻を喫茶店に残して僕は駐車場に向かった。
「なるべく早く戻るから」
と言い置いて、携帯電話の向こうの搬入者と語り合いながら店を出た。
エーゲブルーのプジョーを迎え、バーミリオンオレンジのホンダを見送った。
愛車との別れにも、新車への挨拶にも、思いのほか時間がかかった。
一時間近く経ってから、新しいキーを指に掛け、喫茶店に戻った。
すると。
席で妻は携帯ゲームに興じていた。
テーブルの上には何冊かのコミックス、それから文庫本。
隣に、喫茶店のお姉さんが寄り添うように座っている。
聞けば、お姉さんが、
「男の人は女の子を残して仕事に行っちゃうのよね、淋しいわよね、本読む? ゲームやる? もう一杯紅茶飲む?」
などと言って接待してくれたのだそうだ。
妻のことだから、喫茶店に残されて、たぶんボーゼンとしていたのだろう。
その様子が、あまりに心許なさげで、だから優しくしてもらえちゃったんじゃないかな。
万事がそんな感じ。
初めて僕の実家に来たときも、妻は、僕の母の前でカピバラのようにふるまい、結果、どういう加減でそうなったのかわからないが、後日お袋は、妻について、自分の姉妹たちに向かってこう言い放ったらしい。
「りーこちゃんって天使みたいな子よ!」
あの○○ちゃん(←お袋のこと)が天使みたいだって言う子はどんな子なんだ!?
と親戚筋はざわついたらしい。
――お袋は、なかなかに厳しい人だったんで。
後に、叔母や伯母にも妻は天使と形容されることになる。
僕の前じゃデビル化もする妻だが、同性者の前では、なにゆえにか、いつもエンジェル化するようで、そのへんの仕組みがよくわからない。
だなんて書いている僕だけど、実はこの僕も、年上の女性と関わるのは得意だったりする。
先に書いた叔母や伯母、つまりお袋の姉妹……、これは3人いるのだが、どの人もやたらと、よく言えば面倒みがよく、悪く言えば口うるさい。
妻と二人で某叔母の家に泊めていただいたときのこと、僕が借りたパジャマの裾について叔母は言った。
「お腹冷えるから、しまっちゃいなさい!」
だらりと出した上着の裾をズボンの中にしまえというわけだ。
さすがの妻も、あとで笑った。
「世話焼かれてるねえ、40過ぎの男がねえ」
ま、そんな感じ。
――長くなるけど、そんな僕らがギリシャに行ったときのことを書こう。
結婚前の旅だった。
宿の予約もせずに砂漠をさまよっちゃうような(エジプト旅行がそれだった)僕だけど、妻を連れての初海外だったのでちゃんとツアーを申し込んだ。しかも移動の楽チンな船の旅。
で、行きの飛行機からしてツアーの仲間と一緒だった。
隣に座った年上の女性の、旦那さんや息子さんについての話に僕は相槌を打った。
どこだったかのトランジットで、その女性の旦那さんが合流。
奥さんは、旦那さんに僕を紹介して言った。
「こちらはナワシロさん。空港からずっと仲良くしてくださったのよ」
牛乳瓶の底みたいな眼鏡を掛けた旦那さんは、某国立大学の、わりと著名な教授だった。
ツアーには他にも大学教授がいた。そちらは某私立大学の先生で、やはり奥さんを連れていた。
若いカップルも少しはいたけど、大半は熟年の夫婦連れであった。
エーゲ海クルーズなんて、引退したか、引退に近い年齢の、あるいは子育てを終えた、時間に余裕のある夫婦連れしかしないのかもしれない。
2組くらいいた若いカップルがどういう人たちだったのかは知らない。彼らや彼女らはあまり団体に交わらなかったから。
僕らは、熟年夫婦と、若いカップルの中間くらいの年齢だった。
で、例によって妻は親切にされた。おじさま方よりおばさま方にモテていた。
叔母さまや伯母さまに世話を焼かれまくって育った僕とてぬかりはない。
「ジュディオングに似てるって言われませんか?」
とか、妙齢の女性を、それとなくくすぐっちゃったりもするわけだ。
「ま、昔はね、昔はよーう!」
とか応えつつ女性は華やかに笑ってくれるのであった。
船上パーティーでは、ドレスコードである「青い何か」を付けたおばさま方と、仲良く、楽しく、踊らせていただいた。
「新婚旅行?」
と訊かれ、
「婚前旅行です」
と応えた。
そんな、普通ならいわばホットな時期なのに僕らは、他の若いカップルとは違って、二人きりで閉じたりせず、ツアーガイドとも、おじさまおばさま方とも、よく打ち解けて睦まじく旅を楽しんだ。
クルーズを終えて、アテネに戻り、アクロポリスよりはメジャーじゃない神殿を、夕日の美しい岬で見学しての帰り道、バスは海辺のタベルナ(食堂)に停まった。
海に突き出た食堂で僕らは、とても新鮮で、5つ星どころか7つ星で評価してさしあげたいレベルの美味しさの、素朴な魚料理を食したのだが、この量がなかなかに半端なくて、おばさま方は口々にこんなふうに言った。
「美味しいわねえ、とっても美味しいけど、でも、もう食べられないわ」
で、当然ながらこういう展開になる。
「ナワシロくん、食べなさい、若いんだから、ほら、あげるから、遠慮しないで!」
で、やっぱり当然ながら僕は応える。
「まじすか、いいんすか、わあ、嬉しいな、美味いな、幸せだなあ」
ばくばく食べていると、またまた当然ながら、他のおばさま方からも……。
「あたしのもあげるわ!」
「レモン絞る? お塩は?」
あっちからもこっちからも次々と皿が……( ̄▽ ̄;)!
さすがの僕もお腹いっぱい。
けれども根っからのサービス精神が、僕にイナフとは言わせない。
妻の実家にうかがったときもそうだった。好きだと伝えていたベルギービールや、用意してくださったローストビーフが、次から次へと運ばれてきて、僕は目に涙をためながら(お腹が苦しかったのだ)、
「美味しいですう、美味しいですう」
と唱え、おかわりをいただき続けたのであった。
そんな僕だから、とんでもない量の魚を食して、これまた当然ながら、ホテルでうんうんとうなることになるわけだが、ともあれ女性というものは、殊に年上の女性というものは、なんでなんだろ、世話を焼きたがるもので、でもって焼いてるときの彼女たちときたら、そりゃもう実にイキイキとしているのである。
銀行に行けば案内係の女性に、病院に行けば受付の女性に、なんでだか僕は世話を焼かれてしまう。
そんな焼かれのプロである僕にまで世話を焼かれちゃうんだから、妻、さしずめ焼かれの名人、ないしは達人ってわけだ。
僕らはまるで子供二人組である。
いろんな人に優しくされながら生きている。
僕らにはまだ、ママが必要なのかもしれないなあ。
二人揃って、どっかに里子に出たい心境である。
文庫本を買わせていただきます😀!