初めて書いたやつ!(に照らされて)
初めて小説を書いたのは小学五年生のときだった。
クラスに作曲ができる生徒がいて、凄いな、と憧れ、僕にも何か作れないかな、と思って書いてみたのが小説であった。
タイトルは『最後の八分』、原稿用紙で二十枚くらいだったかと思う。
「太陽の光、ってのはね、『八分』も掛かって地球に届くのだよ」
というようなことを授業で聞いて、それをヒントにSFふうの話を書いた。
ノートに書き付けたそれ、今はもう手元に残っていない。
でも記憶の中にはある。
小学五年生の僕にかえったつもりで、以下にあらすじを書いてみる。
だなんてそんな話。
光のスピードに照らして爆風等の到達速度をどう捉えていいのか未だによくわからないし、精度の高いコンピューターなるものが、どうして「光よりも速く」爆発を察知し得たのか(あるいは事前に生じる予兆から未来の爆発を先取りして伝えたのであろうか?)不明だし、地球に影響を与えるほどの太陽爆発がなぜ宇宙ステーションには影響を与えないのか、そのへんの設定の雑さにも呆れてしまうのだが、ともあれさすがは小学生、『光合成で酸素を作る』だの、『混乱とはすなわち泥棒やいじめである』だの、『行方不明の息子という問題を「かくれんぼしてましたっ!」という脱力的なオチにより解決しちゃう』だの、発想が実に半径一メートル的で、ゆえに微笑ましかったりするので、この話、ホントにホントずいぶんと嫌いじゃなかったりする。
『公』と『私』とを対比させて描いているあたりにも、「十年程度の人生経験がもたらしうる洞察の深さをなめちゃいけないなー」と気付かされ、「コドモ、甘くみるべからず!」と背筋を伸ばしたい気持ちになったりもする。
でもって、さてさてこの話、実は印刷されて冊子になっていたりする。僕の手元にはないけれど。
四つ下の弟が、小学生だったとき、グループ制作で本を合作する際に〈なんと盗作しやがった〉のである(笑)!
弟が提出した『最後の八分』に、グループの女子が愛らしい挿し絵を付けてくれ、そしてそれらは美しいブルーの表紙をまとった本として、クラスの人数分きっちり印刷されたようなのである。
「上手に書けてたから、それで拝借したくなっちゃったんでしょうね」
と母が、いつになく丸い言葉遣いでとりなした。許してやってね、という意味だ。
僕の勉強机の引き出しから、弟がどんな気持ちでノートを引っ張り出したのか、尋ねなかったし、未だに想像もできない。
ともあれ、腹を立てたりはしなかった。
表現されたものが伝播してゆくことは好ましいことだし、ありがたいことである。
小学五年生だった僕の書いたものが、小学五年生である弟とその仲間たちにより出版されたのである。よきかな、としか思えなかった。
そんなわけで僕の処女作は、なんとちゃんと少なくはない人(子供たち!)に読んでいただけちゃったわけなのである。
あれからン十年、学生時代にもう一作書いて、 それが文筆の道を歩むきっかけとなったのだが、でも編集者になってからは人様の表現を拝読するのに忙しく、だから自分の創作活動をしてこなかったのだけど、退職し、堰をきったように小説やら、それに似た何やらを書き散らかすようになって月日が経った。
筆は速い。短いものなら一日で、長いものでも一週間以内に書き終える。一筆書き(?)をモットーとしている。一気に書き下ろす。そうしないと勢いが出ないから。
プロットを作っていた時期もあるけど、結局は作らなくなった。字数だけ決めて、大まかな構成のみで書き始め、書き続け、一気に書き終える。
だから初稿が上がるまでは短いのだが、でもそのあとが長い。
推敲にやたらと時間が掛かる。
文章というのは直し始めるときりがないのである。
もっとよいリズムを、だとか、もっと端的で、しかし深みのある表現を、だなんて求めてゆくといつまで経っても脱稿しない。
短いものでも一週間、長いものなら一ヵ月は初校に掛ける。
直したものを読み直し、当然また直したくなり、再校にさらに一週間なり一ヵ月なりを掛けてしまう。
初稿の段階でたいていは音読して妻に聞かせる。あるいは最近だとAIに音読してもらって妻と二人でそれに耳を傾ける。
妻に感想をもらう。
「つまんない」
と言われたらもうその原稿は捨てる。
「わかんない」
と言われたら、むむむ、と思って書き直す。表現を砕く、開く、足したり引いたりする。
「おもしろい」
とは滅多に言われないが、言われて初めて推敲の段階に進むのである。つまり、推敲されることなく打ち捨てられし骸の数は数えきれない。
生き残り、推敲に掛けられ、直されまくった文章をまた妻に読んできかせる。と、ショックなことに、妻はたいてい言うのである。
「最初のと、どこが変わったのかあんまりわかんない」
キャラクターはまずいじらないし、ストーリーもほぼほぼ初稿のままであることが多い。
だから妻には違いがわからないのかもしれない。
エピソードを削ったり増やしたり、あるいは順序を入れ換えて読みやすくしたりもするが、しかし僕は、そこらへんを重視しているわけでは全然なくて、もっぱら文章のリズムや表現のブラッシュアップに心血を注いでいるのだけど、そのあたりのことこそ妻には「どうでもいい」ことらしい……。
上手な文章にも、リズミカルだったりメロディカルだったりする響きにも、気の利いた表現にも妻はまったく(かどうかは定かじゃないが、まあ大方)興味がないのだ。
魅力的なキャラが、先を読みたくなるような展開に晒され、かつ納得し得る結末に導かれてくれたらそれでもう十分、みたいに感じている節がある。
エンタメ作品の編集を手掛けてきた僕だから、そんな妻の感性を尊重しないわけがない。でも僕が残したいのは、『百年後に読まれても恥ずかしくない程度に恥ずかしい』(←その意味はたぶんいずれ語る)文章なのである!
ゆえに妥協はしないのだ。
妻のお眼鏡に(実際の妻は裸眼の人だが……)かなった文章を、時間を掛けて磨き上げ、自分のビームを照射しても朽ちない類いのものに鍛え上げてゆく。これが僕の推敲であり、創作のスタイルなのである。
焼きものに似ているかもしれない。形ができてのち、それを焼き上げてゆくまでが創作なのである。
釜焼きには長い長い時間が必要なのであった。
そんなふうにして今も書いているものがある。
うまく仕上がるようなら世に出してみたい、ような気もする。
僕にしか書けないものを書き、時間を掛けてそれを磨き、うまくいったらそれを遺すのだ。
小説、といっていいのかどうかわからないけど、僕が作りたい文章はそういう文章なのである。
『最後の八分』に負けないくらいにピュアな、すなわち微笑ましいくらいに恥ずかしい文章を、あと何本かは遺して死にたい。
と、そんなふうに思っている。
けど、まあ力まず、成り行きでテキトーにやってゆこうと〈堅く〉〈固く〉心に決めている!
文庫本を買わせていただきます😀!