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【特別版】後継者の遺伝子 ~アトツギインタビュー~

去年、父親へのインタビューが思いの外評判がよかったので、自分も記事(広報誌)にしてみました。期間限定で全文公開しようと思います。

ちなみに父親の記事はこちら
[特集] 経営者の遺伝子 ~創業者インタビュー~


[特集] 後継者の遺伝子 ~後継者インタビュー~

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PROFILE
生年月日 / 1976年9月12日
出身地  /  福島県郡山市
趣味   /  料理、一眼レフ
経歴   /  1999年3月 拓殖大学 商学部 経営学科卒業
  1999年4月 株式会社イスト 入社
  2002年9月 株式会社ユニゼックス関東 入社(現㈱ユニフォームネット)
  2012年3月 株式会社ユニフォームネット 代表取締役社長 就任

遊び場はワークショップ

 社長に就任して8年。今年で43歳になる私の半生の記憶をさかのぼると、父の実家の一階で営んでいたワークショップから始まります。
 1975年、私が生まれる前年に父はそれまで勤めていたユニフォーム会社から独立し、自ら外商をする傍ら、作業服などを小売りする店舗(ワークショップ)をオープンさせました。その店舗は祖母と母が切り盛りをしていた為、一緒に付いて行く幼い私にとって大量に吊るされた作業服や長靴・軍手などが所狭しと並び、隠れる場所が多い店内は格好の遊び場だったのです。
 一方で、父は昼夜問わず働いていた為、家にいない事も多く、家族で食卓を囲んだ記憶もほとんどありません。仕事一筋の父からは、後を継ぐようにと幼い時から言われていましたが、最初に意識したのは小学2年生(8歳)の冬でした。お昼休みの校内放送で、将来の夢を発表するクラス番組があり、その中で「お父さんの後を継ぎたい」と言ったのを鮮明に覚えています。
 いわゆる男の子が憧れる警察官やスポーツ選手など数ある将来の夢の中でなぜそう言ったのかと考えると、やはり単純に一番身近な大人「働く男」として父がかっこよかったのだと思います。

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<家族写真、二男二女の長男として生まれる>

理不尽な教え

 私の育った福島県郡山市はソフトボールが盛んな地域で、小学校3年生からスポーツ少年団に入り熱心に打ち込んでいました。6年生になると、4番でキャッチャーそしてキャプテンを任される事になり、普段は仕事で忙しい父も、週末の練習や試合などスポ少活動に関しては保護者代表として毎回参加してくれ、試合の引率なども率先してくれていました。
 そんな小学生時代を過ごしていた私ですが、ある試合で父に強く叱責された事があります。その日は県大会出場が懸かった地区大会の準決勝という大事な試合だったにも関わらず、悪しくも小学校対抗陸上大会と重なってしまい、4人のレギュラーメンバーが選ばれ、こちらの試合に出られなくなってしまったのです。メンバーは陸上大会が終わり次第すぐに駆け付けたのですが間に合わず結果は惨敗。
 帰りがけ、みんなの前で「キャプテンのお前が悪いんだ」と救急箱で父に思いっきりどつかれました。私は、学校側の事情でレギュラーを取られてしまい、その結果大事な試合に負けたのに、なんて理不尽極まりないんだと思いましたが、それは私が「負けたのは学校のせいだ」と愚痴を吐いた事に対してだったようです。どのような状況下でも、与えられた条件で今出来る事を精一杯やり切る大切さを父は私に伝えたかったのだと思います。
 そう思えるのも今になっての事だからですが、当時からすれば強面の父がただただ怖く、ある意味リーダーシップ論を伝えていたなどとは到底感じる事は出来ませんでした。

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<少年時代はソフトボールにのめり込んだ>

人生最初の挫折は苦難の連続

 ソフトボールに情熱を注いでいた少年時代とは異なり、中学と高校では苦難の連続でした。ソフトボールに打ち込むあまり、オーバーワークによって右肘を壊してしまい中学では野球部入部を断念。体の大きかった私は柔道部に入部しましたが、3年次の春大会の試合で右肩を骨折。高校受験を控えているにも関わらず、数ヶ月の間上半身から右腕までをギプスで固定しなければならない羽目に。そして追い打ちをかけるように急性A型肝炎で入院もします(笑)。
 さらに苦難は続きます。滑り止めで受けた私立高校の受験日に大雪になり、自家用車が動かないというトラブルに見舞われ、人生初のヒッチハイクで学校まで行くという状況に動揺したのか見事に不合格。そして、第一志望だった県立の進学校も力及ばす、15歳にして進路を絶たれてしまいました。   
 行くところがない私は、料理好きだった事もあり、地元の料理の専門学校に通い本気で料理人になろうと考えました。もしかしたら人生で唯一「父の後を継ぐ」を断念し、違う職業を選択しようとした瞬間かもしれません。しかし、新年度目前の3月24日。特別枠で追加募集をする高校があると聞き、藁にもすがる思いで受験して入ったのが日本初の女子工業校として長い歴史を持ち、2年前に男女共学になったばかりの尚志(しょうし)高等学校だったのです。
 現在の尚志高校と言えばサッカーの強豪校として福島県代表の常連校ですが、当時は3学年合わせて男子100人に対して女子1600人という周りから見れば羨ましいでしょうが、実情は女子上位で男子のみのクラス編成、プレハブ校舎、男子トイレがほとんどない、男子の部活が認められないといった環境でした。
 そんな中、高校受験を大失敗している私は父と3つの約束をさせられました。①現役で大学に入る。②東京都内の大学に入る。③経済学部又は商学部に入る。この約束を果たすべく、高校生活を勉強に注ぎました。


後継者の就活あるある

 晴れて拓殖大学商学部経営学科に受かり、1995年の3月、、八王子での一人暮らしがスタートしました。①バイトをする事。②4年で卒業する事。③友達をつくる事。これが大学進学時に父から約束させられた三カ条です。最後の一つは若干自信はありませんが、スポーツ系サークルに所属し、居酒屋でホール兼調理場、ワインを出す中華レストランでは見習いソムリエとして働くなど学生生活を楽しみました。
 また学生終盤にはユニフォームの展示会を父と一緒に訪問したり、メーカー主催の研修旅行などにも同行していました。そんな事をしているうちに4回生になり、父から「修行先が決まったぞ」と当たり前のように言われ、就職活動もそこそこに、家業に就く為に修業期間3年という期限付きで都内のユニフォームメーカーに入社する事が決まってしまいました。

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<謳歌していた大学生活>

売れない営業マン

 修行先として入社したのは、メーカー機能を持ちながら都内を中心に直販の部隊があった株式会社イスト(現・株式会社サンペックスイスト)で、配属は飲食店やホテルなどに営業をする部署でした。
 新規営業が中心だった最初の一年は正直に言って本当に売れませんでした。何をしてもダメで、ようやく売れた最初の商品は職人が被る和帽子が2つで1500円。それも、サンプルを買い取ってもらったという話で、同期がそれぞれ売上を上げ実績を作る中、自信喪失の日々を過ごしていました。
 そんな時、当時新人研修の同行でお世話になった先輩Sさんに言われた「社内営業をちゃんとしなさい」というアドバイスは強烈に覚えています。営業がお客様に商品を提案する為に、デザイナーがデザイン画を描いたり、生産担当が在庫を切らさないように生産計画を立てたり、事務員がサンプルを貸し出す為の準備をしたりしてくれる事を当然だと思ってはいけないと戒めてくれ、その為にいろんな部署の人と積極的に関わりなさいと教えてくれました。
 そのおかげ?か、私はとにかく報告魔で、全然達成していない自分の売上状況や営業活動など報連相の徹底と言えば聞こえはいいですが、とにかく何でも話していたので、上司に「お前、あれどうなっている?」と聞かれた事は一度もありません。その癖は今でも変わらずです(笑)。

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<修行先のイスト時代(左奥)>


「東京流」を振りかざして

 3年半の修行期間を終え、家業に就く為に福島へ戻った私は27歳になっていました。若輩者でありながらも「後継者」である私は、とにかく東京で学んだ事を活かそうと躍起になっていて、いわゆる「東京流」を枕詞にあれはダメだ、これはダメだとまくし立て騒いでいるだけの若造でした。
 現在は当社の営業部長であり、当時はトップセールの営業マンに「東京と地方は違う。前の会社を引き合いに出さないでくれ」とはっきりと言われ落ち込みました。今思うと根拠のない不安と焦りがそうさせていたと分かるのですが、上司もいない、部下もいない、宙ぶらりんな状況で、自分の声は届かず社員との溝も深まるばかりで八方塞がりだったのです。
 もう一つ、後継者には必ずと言っていいほど付きまとう「親(創業者)との確執」もありました。給与や社内体制などの不満を社員から聞く度に、社長(父)に改善を求めていましたが、受け入れられる事はなく、反対に「お前は会社を潰すつもりか」と言われる始末。しかし、これも社員の為と言いながら、社員に自分の力を見せつけたいという思いや、親に認めて欲しいという考えがあったのだと思います。
 こんな私の唯一の逃げ道が商工会議所青年部や中小企業家同友会などの活動であり、同じ立場(後継者)の人たちと会う為、夕方になるといそいそと会社を後にし何とか生き延びていました。しかしこの活動もまた、社員からすれば何をやっているのか分からないという状況を作り出し、さらに溝を深める原因だったのですが……。
 それから15年が経ち、今ではその逃げ道であった場所で事業承継について講演をしているのですから、人生とは不思議なものだなと思います。


暗黒時代の到来

 そんな事をしている内に結婚をし子供が生まれ、気が付けば30歳を超えていました。
 一方、父は55歳の時に番頭である工藤専務(現・会長)に社長を任せ、念願だった東京進出の為に単身で福島を後にしました。2年後、東京に基盤が出来たところに私も呼ばれ東京勤務となりました。修行先から実家に戻り、生涯福島で生きていくと思っていた5年目の事です。
 東京進出を果たした頃、会社は更なる転換期を迎えていました。これまでの一代理店という立場からメーカーへの転身を図る為にPB商品の開発、自社カタログの発刊、インターネットショップの開設と多額の投資をしていったのです。
 しかし、経験の乏しい商品生産、在庫の運用、東京での新規顧客開拓など、メーカーへの転身は予想以上に困難を極めた上に、追い打ちをかけるように2008年秋のリーマン・ショックにより売上が低迷し、金融機関からの追加の融資を受けなければならない状況に陥りました。
 そこで追加融資を受けるに当たり、責任の所在をはっきりさせる為に常務になったばかりの私が降格する事になったのですが、東京に来てもなお会社に居場所を見つけられていなかった私には堪えた出来事で、「役立たず」というレッテルを張られた気分でした。
 もう一つ辛かったのが、地元福島であれば同じ立場(後継者)の人に相談が出来たのが、東京ではその相手もおらず、逃げ道も無かった事です。朝礼が終わると同時に会社を飛び出し、最低限の仕事はするものの、喫茶店を3件はしごする事で時間を潰し、夕方に帰社するという不毛な日々を送っていました。
 後継者としての悩みが「したい事が通らない」から「何をすればいいのか分からない」に変わり、そんな状態が一年半続いたところで病み切った私は退社を決意しました。

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<大切な家族との一枚>

自分の強みとは

 「私は会社に必要ないと思うので辞めさせてください」。
 東京駅八重洲口のエクセルシオールカフェに、工藤社長(現・会長)と橋本専務を呼び出しそう告げました。そこで「そんなに焦る必要はないからゆっくり自分の強みを見つけなさい」と言われたのです。一年以上も何も出来なかった私にゆっくりとやれというのは、さらなる拷問をとも思えたのですが、そこから自分の強みについて真剣に考え始めました。
 また同時期に、私がユニフォーム業界の師と仰ぐN氏から、人心掌握術を学ぶ為に池波正太郎の『鬼平犯科帳』と『剣客商売』を読みなさいと勧められ熟読しました。私は人を動かすという事がどういう事なのかを全く理解せずに、当たっては砕け当たっては砕けを繰り返していたのだと気が付き始めたのです。
 これがきっかけになり若干の光明が見え、モヤモヤしていた気持ちが晴れ始めた34歳、2010年の冬、父から「35歳になったら社長にする」と突然宣告されました。
 それまで一切経営についての勉強をしていなかった私は焦り、社長になるまでの一年間勉強させてほしいと頼み、営業の現場を離れる事になったのですが、その矢先に東日本大震災、更に原子力発電所の事故が勃発。事業承継どころか、会社そのものの存続が危ぶまれる危機に陥ったのです。


決意

 未曾有の大震災、原発事故による風評被害を何とか乗り越えた当社は、父の決断で、当初の予定通り2012年3月11日に社長就任のお披露目を福島で行いました。後継者と言いつつも、出口のない暗闇の中を模索していた私がなぜ社長になる決意をしたのか。それは「震災が起きたにも関わらず社員が誰も辞めなかったから」としか言いようがありません。
 2011年当時は、社員の8割が福島県出身者。当然、家族も福島在住という者も多く、周りは被災や原発事故の影響で多くの人が福島を離れるという状況下で、当社でも数名の退職者が出る事は避けられないと思っていました。
 しかし、退職者が出るどころか、誰一人辞める事なく福島県内の営業活動を再開でき、関東圏にいる社員も福島エリアの分までカバーしようと必死に動いてくれました。さらに、福島県出身で実家に戻る為に退職が決まっていた営業社員が退職を一年延長し、福島県内でも被害の大きかったエリアの営業所への転勤を希望してくれたのです。
 その時の私は驚きを通り越して到底理解する事が出来ませんでしたが、難局を乗り越えふと我に返った時、社員との間に大きな溝があると思い込んで、社員を信用していなかったのは自分だったのではないかと気付かされたのです。そして、この時の恩を返す為に社長になろうと決めました。

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<2012年3月 創立満35周年記念及び新社長就任祝賀会>

営業を科学する

 とは言っても、昨日まで辞めようかと考えていた人間がいきなり敏腕社長になれるはずもなく、「社長って何やるの?」という状況だったという事は言うまでもありません。
 ただ一つ、「当たり前にやった事を当たり前に評価される会社」を目指そうと思いました。そんな事当たり前じゃないかと思うでしょうが、当時は一部のトップセールスマンが会社を引っ張っている状況で、成績の良い人たちはもちろん評価されますが、いわゆる頑張っているけれど実績が伴わない人をフォローアップする為の具体的な術がなかったのです。
 当時の社内で蔓延していた「営業はセンス」「タイミングとニュアンスで匂いを感じるんだ」というような属人的な営業手法では、いずれ立ち行かなくなる事をひしひしと感じていました。これは一重に私自身が出来る営業マンではなかったからこそ思えた事だと思います。
 そんな時にあるビジネス塾で「営業を科学する」という話を聞き、これだと閃いたのです。それは営業業務を分解し、目に見える形にする事でプロセスをマネジメントし、再現可能なものにするという考え方で、正しく私が求めている「標準化」が実現できるのではないかと思ったのです。現在ではこの手法を取り入れ、営業は勿論の事、新人の教育から全体の管理の基礎となっています。

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<2018年 メディア取材による撮影の様子。100社分の「user's VOICE」をまとめた冊子を発刊>

社長としての役割

 さらにその過程で、私自身の課題であり、後に強みとなる「見える化」を発見できたのは本当に大きな収穫でした。私の思いが社員に伝わらないのも、父に認めてもらえないのも、すべては私が相手に対して分かりやすいように示していないからだという事に気が付いたのです。現在それは、当社の社員向けに毎年発行する「中期経営計画書」や、私自らインタビューして紹介するお客様のユニフォーム導入事例「user’s VOICE」、女性服専門のオフィスウェアマガジン「Lezene」などの、当社オリジナル企画の制作物を生みました。
 創業者である父は声の大きい人で、「やれ」と言った事に社員は皆従います。そんな鶴の一声に対して私が打ち出せる存在価値は、言わずとも見れば分かるようにビジュアル化する事だと気づき、徐々にですが社長としての私の役割(強み)が見えてきたのです。
 社長就任から早8年、社員数も増え、拠点も拡大していく事ができています。その上で、当社にとって次の課題は「会社の認知度」だと考えています。ユニフォーム業界内では全国でも上位の代理店として認識されていますが、一般的には知る人ぞ知る会社でしかありません。その為に、企業ブランディングと広報活動に力を入れるとともに、単に商品としてユニフォームを販売するのではなく、「企業の課題を解決する」ためのユニフォームとして、お客様の発展のサポートが出来る会社を目指します。
 また、私個人として創業者ではない、後継者だからこその視座を高め、あの日借りた恩を一生かけて返していきたいと思います。

社内報 NET's TIMES 2019年(令和元年)6月発刊

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