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【特別版】経営者の遺伝子 ~創業者インタビュー~

後継者が以外と知らない親と会社の歴史。
面と向かって聞くのは恥ずかしいという人が多いので、インタビューという形式で試してみました。

[特集] 経営者の遺伝子 ~創業者インタビュー~

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PROFILE
生年月日 / 1949年5月5日
出身地  /福島県郡山市
趣味   /旅行(海外49か国)、
     カラオケ(十八番は石原裕次郎)
     演歌歌手の市川由紀乃''''の後援活動
座右の銘 /継続は力なり
好きな言葉 /志(こころざし)
※長男 広志、次男 高志、孫(長男第一子)大志と命名

会津藩士の家系から誕生した魚屋の息子  

 荒川家はもともと会津藩の士族の末裔だったと聞いています。私の五代前の先祖の時に戊辰戦争に負け、明治四年、会津藩は青森県の斗南(現在のむつ市)という地に移りました。しかしその後、明治十四年に福島県にある猪苗代湖から現在の郡山市に水を引く安積開拓が始まり、その開墾の為に、青森に移った旧会津藩から我が家を含め十三戸が現在の郡山市に移住する事になりました。  

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<安積開拓士族 入植者の碑(福島県郡山市大槻町南原)>

 私の父親は農家の七人兄弟の次男だった為、太平洋戦争中の十九歳の時に歩兵として会津連隊に志願し中国に渡り、戦後、故郷である福島に戻ってきました。始めは鉄工所に勤めていたそうですが、二十八歳で私の母親になる女性と結婚するにあたり、鉄工所勤めでは給料が安いとの事で知り合いを伝手に魚屋を始めました。魚屋は店舗と行商をやっていて、店舗は母親に任せ父親は田舎の方へ行商に回っていたのです。  

 ここでようやく私の誕生になります。
私は三人兄弟の長男で、自分で言うのもなんですが、どちらかというと勉強しないでもできるタイプの子どもでした。当時、地元郡山では歴史のある開成小学校、郡山市立第一中学校へと進み、将来は高校の社会科の教師になりたいと思っていました。  

 しかし、父親は家業である魚屋を継いで欲しいのと家が裕福ではなかった事もあり、大学には行かせられないので商いを勉強できる郡山商業高校へ行けと言われ、教師の夢は諦め素直に商業高校へ進学したのです。

輝ける青春時代と親父との決別  

 高校生活は遊んでばかりでしたが、実家の魚屋を継ぐつもりだったので、簿記だけは勉強していて在学中に全商簿記一級を取得しました。このまま順調に高校生活を送っていれば、父親の希望通り今頃は魚屋の二代目でしたが、私の運命を決定するある出来事が起こります。  

 当時はロックバンドのザ・ベンチャーズの全盛期で、私も他の多くの青年と同様に仲間とバンドを組んでいて、高校三年のクリスマスに、五十人ほど入る喫茶店でバンド演奏のパーティーを企画しました。また自分で言ってしまいますが、ボーカルとサイドギターを担当していた私はとても格好よかったのです。 そこで当時付き合っていた彼女に、「友達にチケットを売ってもらえないか」とお願いしたところ、近くの女子高に一緒に売りに行ってもらえる事になりました。そこで女子の集団にチケットを売り捌いていた時、言われてしまったのです。 「あの人、魚臭い」  と。この一言でもう全てが嫌になりました。バンドのボーカルで可愛い彼女もいていい気になっていた私にはこの言葉は思いのほか響いたのです。

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<福島県立郡山商業高校 昭和43年卒 47期 卒業アルバムより>

 そこからは父親との争いです。この事件後、親父の後を継いで魚屋になる事をやめ、別の道を歩もうと決めましたが、親父も会津の一本気質の人間なので折れる事はなく、母親が内緒でくれた東京までの汽車賃と、これまた内緒で受験して受かった日本大学政経学部の入学金六万円を握りしめ上京しました。 アルバイトに明け暮れた東京生活  勘当同然で上京した私は、大学生といえども学費と生活費を稼がなくてはいけなかったので、大学は夜間に通い、昼間はこれも内緒で受けて内定をもらっていた大手旅行会社で働きました。その会社で配属された経理部には高卒で入社した社員が私しかいなく、大卒の女性社員に「大学を出て、高卒の男の子にお茶を入れる事なんてできない」と言われたのを今でもよく覚えています。

 二年次には夜間から昼間に移り、旅行会社も辞めました。しかし、稼がなくてはいけない事に変わりはないので一日に三つアルバイトを掛け持ちするなど、大学時代だけで十六件程のアルバイトを経験しました。その中でも鮮明に覚えているのは日本橋にある三越百貨店の夜間清掃の仕事で、よく仕事帰りに先輩が神田駅のガード下の立ち飲みに連れて行ってくれ、安い酒を片手に夢を語っていました。現在のユニフォームネット本社が神田駅近くにあるのはその時の思い出が強く残っているからです。

 三年次になると、学生運動が激化し始め、日本大学も学校封鎖が続きました。悶々とした日々を送り、四年次になった時に、授業はできないけれど授業料を納めれば卒業証書を出すと言われ、馬鹿らしくなり中退してしまいました。  そしてちょうどその頃、昔から体の弱かった三番目の弟が高校一年生で亡くなり、母親から戻ってきてほしいと言われた為、二十二歳で福島に帰る事にしたのです。

修業時代と慌ただしい結婚

 地元に帰ってからは得意な簿記を活かして税理士になろうと、税理士事務所でアルバイトをしながら資格取得の為の専門学校に通い始めました。しかし、仕事を通して会社というものの内情を知るうちに、稼ぐ為にはどんな職種でもいいから社長にならなければいけないと気付き一年で退職しました。

 といっても何の経験もない若造がすぐには社長にはなれないので、三年間は修業期間と決め、当時職安の求人で最もお給料が高かった福島ミドリ安全株式会社に入社し、作業着を企業に販売する営業として働く事になりました。これが私とユニフォームとの初めての出会いです。

 そこでは毎日朝七時から夜十一時までがむしゃらに働きました。友達とも女性とも遊ばず、仕事中心の生活を送った結果、入社から二年で営業成績が全国トップクラス、二十四歳で最年少主任となり、お給料も公務員の三倍近くもらっていました。

 そんな生活を送っていた頃、従弟から「郡山の銀行に可愛い女の子がいるから見に行け」と何度も言われていました。しかし当時の私は仕事以外まったく興味がなかったので、見に行ったふりをしていたら、十二月九日にその子とお見合いが決まったと連絡がきてしまったのです。しかも、私はその事をすっかり忘れ、親にも伝えていませんでした。

 当日、何も知らない母親の元へ後に妻となる女性と仲人さんが来てしまい、床屋から帰ってきた私は、玄関に珍しく女物の靴があるなと思い、出てきた母親に「お前、今日は見合いなのかい」と言われてようやく思い出したという顛末です。

 それから次の日曜日に一回デートし、さらに次の日曜日には結婚式の段取り、そして出会ってから三週間後の年末の十二月三十日には結婚式を挙げていました。

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<1973年 新郎(24歳)新婦(23歳)>

切符のいい男が二十五歳で独立

 一九七五年三月、二十五歳の時に独立し、ユニフォームの販売を行う個人商店を創業しました。当然初めは私一人でしたので、同居していた母親に自宅で電話番をしてもらい、私は商品を持って行商(営業)に回りました。結局、売る物は違えど父親と同じ仕事をしたという事です。 しかし、簡単に商売を始められたわけではありません。商品を仕入れるのにも、何の信用もない私に売ってくれるところはなく、どこのメーカーへお願いに訪問してもけんもほろろに断られました。そこで、見せ金といって最初の二、三十枚は本物の一万円札で残りはただの紙きれで札束を作り、「これで払うから売ってくれ」と切符のいい男を演じて仕入れをしたりもしていました。そんな事をしているうちにお付き合いしてくれるメーカーさんも増え、何とか商売を軌道に乗せる事ができたのです。

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<1975年 郡商社創業当時の事務所>

 創業から二年後には法人として、資本金五百万円で株式会社郡商社(ぐんしょうしゃ)を設立しました。最終的には、作業服を販売する店舗を福島県内に三店舗持つまでになり、父親と銀行勤めを退職した妻に切り盛りしてもらう傍ら、私は一日中営業に走り回っていました。  社名である「郡商社」の由来は、字の通り、郡山の商いの会社という意味なのですが、実は創業して三カ月くらいは「郡商(ぐんしょう)」という社名でやっていました。しかしある時、高校時代の担任の先生から、君宛の請求書がうちの高校に届いてしまって困っていると連絡があったのです。郡山商業高校は郡商(ぐんしょう)と呼ばれていましたので、郵便屋さんが郵便物を全部高校に持っていってしまうのです。それで仕方なく「社」の一文字をつけて「郡商社」にしました。

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<1979年 アメリカ研修旅行(当時30歳)>

多角経営から専門商社へ

 その後、福島県内の営業(納入)会社「福島ユニフォーム株式会社」(現郡山支店)、茨城県に「茨城ユニフォーム株式会社」(現水戸支店)、栃木県に「栃木ユニフォーム株式会社」(現宇都宮支店)と進出する事で規模を拡大、さらに全国の同業十九社が集まり共同で設立した「株式会社ユニゼックス」でも二代目社長を務めていました。

 また当時はバブル全盛期のイケイケドンドンな時代でしたので、若く野心も旺盛だった私はユニフォームの他にも学習塾と花屋も経営し、十個の会社と十人の社長を作るという多角経営を目指していました。

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<1988年 ユニフォームブティック「Lezene(レゼン)」開店>

 順調に業績を上げていた当社ですが、時代の流れと共に業種、業態の違う会社を複数経営するというビジネススタイルは、労働時間の管理という問題に直面しました。ユニフォームの営業と店舗スタッフでは就業時間も休日も違いますし、まして花屋は繁華街の飲食店をターゲットにしていたので深夜まで営業していました。

 それらを個別に管理する組織を作る力量はなく、それならばいっその事、ユニフォーム事業以外は辞めてしまおうと一九九五年頃から徐々に清算する事にしました。さらに三店舗あった作業服を扱うワークショップも周辺に競合他社が増えてきた為、思い切って閉店し、3県にそれぞれあった会社を、株式会社ユニゼックス関東に集約させ、ユニフォーム専門商社として企業への納入に注力する方針を立てました。またこれは長男(現社長)への事業承継を見据えた戦略の一つでもあり、ユニフォーム一本に絞ったからには代理店日本一を目指すべく、必ず東京に進出する事をこの時決めたのです。

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<1977年 荒川友成 現相談役(当時27歳)、荒川広志 現社長(当時1歳)>

そして東京へ  

もともと社長職は五十五歳で退き、若い人に任せようと考えていました。二十五歳で独立しているので三十年経った五十五歳が社長としての賞味期限だという事です。その考え通り、五十五歳で社長を番頭の工藤君(現会長)に譲り、再び単身上京し東京進出の為の基盤作りを始めました。

 しかし、福島や北関東で実績があるといっても、東京ですんなりと商売ができるわけではありません。東京は地方と違い、飛び込み営業は通用しませんし、独立当初と同じように商品を卸してくれるところも一から開拓しなくてはいけませんでした。さらに「福島の会社が東京へ進出して成功する確率は5%」と地元の金融機関から言われ、東京進出の為の資金を貸してもらう事もできなかったのです。

普通にやったら必ず失敗する――。  

周囲から白い眼で見られていた私はある作戦を考えました。縁があって当時二十四歳で駆け出しの演歌歌手の後援会会長になる事になり、彼女のマネージャーという形で売り込みに付いて回ったのです。その売り込み先には企業も多く、マネージャーとしてコネクションを広げる傍ら、帰り際に「実はユニフォーム会社をやっていまして」と切り出し、三年ほどで現在の東京本社の土台を築き上げました。そうして二〇〇四年には福島から社員を呼び、東京支店が開設されたのです。

 念願の東京支店が開設され、さあ行くぞと勢いに乗った当社は、社名をユニフォームネットとすると共に、新たな試みとして二〇〇六年にPB商品の開発に乗り出します。長年、代理店という立場上、在庫の問題や価格などに翻弄されており、オリジナルの商品を持つ事は、現状の問題を打破する大きな一手と考えたのです。

 しかしこの試みは大失敗に終わります。ユニフォーム(商品)を企画し、生産するには多大なる時間と手間がかかります。また在庫をした事で予想以上の資金が必要となり、その結果借入が大きく膨らんでしまい、二〇〇八年にPB商品からは撤退する事になりました。言葉にしてしまうとあっけないのですが、当時は本当に大変で、その直後に襲ったリーマン・ショックも追い打ちをかけ当社の売上はがたがたになりました。ただ今になって考えると、「2億円を使ってチャレンジした」とも言い換えられるのです。

河の流れるように

 会社を経営していると予期せぬ事が次から次へと起こるのは当たり前です。しかし、二〇一一年の東日本大震災は誰もが想像する事ができなかったと思います。郡山支店も約二週間は業務停止の状態でしたし、七年経った今でもなお震災の爪痕はそこかしこで感じる事ができます。また、当時の事業計画として二〇一二年に、私の後を任せた工藤社長(現会長) から三十五歳になる長男へ社長業を承継する手筈になっていました。このような状況で会社を息子に渡していいのか迷いましたが、決めた以上実行しようと、震災翌年の二〇一二年三月十一日に新社長就任祝賀会を催しました。

 現在、私は相談役という立場で新社長(長男)が舵を取る当社の行く末には、時々は口を挟みつつも、任せているという姿勢を貫いています。ただ一つ今後のユニフォームネットに求める事があるとすれば、私が当社の前身である郡商社を設立した時に定めた企業理念である、「社員の英知は企業の繁栄に。企業の繁栄は社会の貢献に」の精神を忘れないでもらいたいという事です。会社は誰か一人のものではなく、会社が繁栄する事は社員の為でもあり、社会への貢献にもつながるのです。

 相談役という肩書もあと二年、七十歳までと決めています。私自身やりたい事はまだまだ沢山ありますが、起業してから四十三年間心がけてきた「常に河の流れるように」という姿勢を崩さず、時代の潮流に乗り、臨機応変に楽しんでいきたいと思います。  

社内報 NET's TIMES 創刊号 2018年(平成30年)3月発刊

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<1977年 直筆の企業理念(当時27歳)>

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