見出し画像

心の測定に関する4つの問題提議:「心は測れるのか──心理尺度の適切な利用を考える」事後レポート

 楽しくて、豊かな生活のためになる心理学を考え、実践していく。
 その一環として、ほんのちょっとかもしれないけど、とっても大事な変化のきっかけになるようなイベントを企画する。
 そのような想いのもと、2023年6月3日(土)にトークイベント「心は測れるのか──心理尺度の適切な利用を考える」を開催しました。
 当日のトークイベントでは熱い議論が交わされましたが、一方で、問題の焦点が曖昧になってしまっていたかもしれません。
 そこで今回の記事では特別に、登壇者である下司忠大さんにお願いして、イベント事後レポート兼解説記事をご作成いただきました。また、本記事公開に合わせて、イベントのアーカイブ配信を購入できるようにしました。ぜひご視聴ください。
 アーカイブ配信の購入はこちら

 本稿は,2023年6月3日 (土) に行われた,荒川出版会主催のイベント「心は測れるのか──心理尺度の適切な利用を考える」の事後レポートであり,解説記事となっています。本イベントは多数の来場者とオンライン視聴者の方々にご覧いただきました。海外では盛んに議論されている心理測定の根本的な問題について,司会・登壇者の仲嶺真さんとともに議論させていただくことで,心理測定について広く問題提議ができたのではないかと思っております。他方で,心理測定の根本から問い直したいという方向性で考えすぎてしまい,測定自体や心理測定の歴史に関する説明が多くなってしまいました。それによって,私自身が提議したかった問題の焦点が曖昧になってしまったということが私自身の反省としてあります。そこで,その具体的な問題提議に焦点をあてて,本イベントで話した内容を振り返りたいと思います。

左から仲嶺真さん(荒川出版会)、下司忠大さん(立正大学)

問題提議1. 心理測定は「量」を扱っているのか?

 一般に,長さや重さを測定するとき,私たちはその測定器に問題がなければ「これは本当に長さを測れているのだろうか?」「これは本当に重さを測れているのだろうか?」といった問いに直面することはありません。しかし,心の測定になると「これは本当に心を測れているのだろうか?」という問いが浮かび上がってきます。なぜ,長さや重さの測定は問題視されず,心の測定は問題視されるのでしょうか。これは,イベントの議論にも少し出てきましたが,心が「目に見えない」からではないように思います。もし「目に見えない」から問題視されるのであれば,例えば温度の測定も問題視されなければならないことになります。

 心の測定が問題視されるのは,もしかすると心を量として扱えるかどうかが不明瞭な点にあるのかもしれません。なぜなら,私たちが一般に思い浮かべる測定は,量を基盤としているように思われるからです。測定科学者であるジョエル・ミッチェルは,このような測定観を古典的測定論と呼び,その枠組みにおける測定を,1997年の文献[1]では「比を発見すること」と定義しています。例えば,ある棒の「長さ」を測定することは,任意の長さ(例えば,1メートル)とその棒の長さとの比を発見することであると言えます。比を発見するためには,その対象物が量である必要があります。

 「量とは何か」という問題は古くから扱われてきましたが,ミッチェルによれば,数学的に属性が量的であるために必要な公理をはじめて導出したのが,数学者であるオットー・ヘルダーのようです。ヘルダーは1901年[2]に複数の条件から構成される量の公理を発表しており,例えば,ヘルダーの公理を構成する第1の条件は以下のものです。

任意の大きさ (magnitude) a,bが所与のとき,次のうち一方かつ一方のみ(one and only one) が成り立つ:
aはbと等しい (a = b, b = a),aはbよりも大きくbはaよりも小さい (a > b, b < a),もしくは逆にbはaよりも大きくaはbよりも小さい (b > a, a < b)

 「長さ」を例に挙げれば,aの長さの棒とbの長さの棒があるとき,それらの2つの棒を物理的に比べてみると,両者は同じ長さか,どちらかが大きく(小さく)なるはずです。したがって,「長さ」の場合にはこの第1の条件は満たされます。そして「長さ」が他の公理も満たすことができれば(そして実際に満たしているために),「長さ」は量として扱うことができます。温度の場合にも,温度に対応する物理的対象(例えば,水銀)がヘルダーの公理を満たすために,量として扱うことができると考えられます。

 しかし,ミッチェルが1997年の文献[1]で指摘するように,心を量として扱えるかどうかは不明であり,心を表す様々な現象がヘルダーの公理を満たすかどうかは経験的に確かめられていません。たしかに,精神物理学的測定などに見られるように,心は連続的なものとして扱えるかもしれません。しかし,連続的であるからといって量的であるとは限りません。例えば,本の書誌番号は,番号間に無数に番号を追加することが可能であり,そのために連続的であると言えますが,ヘルダーの定理で見られたような「加える」という操作ができないため,量ではありません。心を量として扱えないとすれば,例えば長さや重さのように量を基盤とした測定を適用することができないということになってしまいます。

問題提議2. 心理測定における「測定」をどう定義すればいいのか?

 それでは,心理測定における「測定」とは何を指すのでしょうか。ひとつの理解の仕方としては,心理測定に大きな影響を与えた心理学者であるスタンレー・スティーブンスによる測定の定義が挙げられます。スティーブンスは1946年の論文[3]で,測定を「規則にしたがって対象や事象に数字を割り当てること」(p.680 筆者訳) と定義しました。この測定の定義は,当時の心理学で優勢であった操作主義の思想に適合したものでした。操作主義は概念を,測定する方法(操作)と同義であるとみなす主張であり,これを提唱したパーシー・ブリッジマンは1927年の書籍[4]で「概念はその属性ではなく,実際の操作の観点から正しく定義される」(p.6 筆者訳)と述べています。これによれば,もはや心が量かどうかは問題ではなく,心は操作によって定義されることになります。実際に,スティーブンスは1936年の論文[5]で「科学的心理学は操作的なものであり,…(中略)…私的・内的な経験とは何の関係もない。したがって,私たちはもはや直接経験を心理学の主題や物理学の基礎として考える必要はない」(p.95 著者訳)と述べています。これによって,例えば感覚の測定は,ある実験操作やその実験操作に対する実験参加者の反応として操作的に定義することができます。

 しかし,科学哲学者であるヘソック・チャンが2019年の文献[6]で整理しているように,操作主義にはいくつかの批判があり,その批判のひとつとして,測定を操作主義的な観点から理解したとき,それによって測定される概念の意味が限定されてしまうという問題が挙げられます。例えば,知能という心的概念の意味について操作主義的に言えば「知能とは,知能検査によって数値が割り当てられたもの」ということになります。この定義に基づけば,それぞれ内容の異なる知能検査Aと知能検査Bによって測定される「知能」は異なるものになるはずですが,それではあまりに知能の意味を限定しすぎています。

 そこで,操作主義的な測定観に代わるものとして,潜在変数モデリングによる測定が有力になります。ここで述べている「潜在変数モデリング」とは,因子分析や項目反応理論のように,観測得点の背後に潜在変数を仮定してモデル化することを指しています。すなわち観測得点の次元とは別に潜在変数の次元があり,観測得点の次元の位置から潜在変数の次元の位置を推測することが,ここで言うところの「測定」ということになります。このような測定観は心理学者であるデニー・ボースブームが2004年の論文[7]で述べているものでもあり,この潜在変数モデリングによる測定では,心が量か否かということをもはや問題としておらず,かつ,操作主義的な測定観とは異なり,心的概念の意味が操作に限定されません。

測定の歴史について紹介する下司さん

問題提議3. 心理測定は個人を測定しているのか?

 観測得点の次元から潜在変数の次元を推測するには,モデルを推定し,その推定値に基づいて潜在変数の位置を推測することになります。因子得点の推定がその一例です。このとき,推測されるのは因子得点の「条件付き期待値」です。例えば,外向性尺度の得点に因子分析モデルを適用した場合には,「観測得点が10点であるとき,潜在変数の期待値は1点である」というように観測得点が所与のときの因子得点の期待値(母集団の平均)が推測されます。このときの期待値の解釈として,ボースブームが2005年の書籍[8]で述べるように,心理尺度の場合には2種類の解釈がありえます。1つは,「特定の個人が何度も心理尺度に応答したときの期待値」です。この場合には,その特定の個人の外向性の値が推測されることになります。もう1つの解釈は,「複数の個人(集団)が心理尺度に応答したときの期待値」です。この場合,対象となる母集団の外向性尺度の平均値が推測されることになります。

 どちらの解釈をとるかは,その時得られたデータの性質によります。もし,ある個人を対象に何度も繰り返し心理尺度を実施して得られたデータであれば,その時推測される期待値は「特定の個人が何度も心理尺度に応答したときの期待値」となります。一方で,母集団を代表する集団を対象に調査を実施して得られたデータであれば,その時推測される期待値は「複数の個人(集団)が心理尺度に応答したときの期待値」ということになります。前者は個人の特徴を測定しており,後者は集団の特徴を測定していることになります。

 心理尺度による測定は一般に,集団を対象に調査が実施され,特定の個人に対して何度も反復測定することはほとんどありません。したがって,心理尺度による測定は,ほとんどの場合に集団の特徴を測定していると言えます。この点について,イベント時に「◯◯が高い集団に属する人という言い方はできますか?」というご質問がありました(ご質問いただいた方,ありがとうございます)。その際には「できます」という平板な返答しかできなかったのですが,この点について今一度考えてみたいと思います。

 たしかに,例えば「外向性尺度の観測得点が10点の集団の潜在変数の期待値は1点である」と言うとき,ある10点の観測得点を持つ人物は,外向性が高い集団に属する人,と言えるかもしれません。ただし,その特定の人物の外向性が実際に高いかどうかはわかりません。言い換えれば「10点の観測得点を持つたくさんの人々の中から無作為に1人を取り出して潜在変数の値を確認するという手続きを繰り返すとき,外向性の高い人が取り出されることが多い」とは言えますが,だからと言って,10点の観測得点を持つ,目の前にいるこの特定の人物の外向性が高いとは限りません。

 以上のことから,一般的な心理尺度による測定は,目の前にいる特定の個人を測定しているわけではない,と言えるのではないかと思います。一般に心理尺度で測定されるのは集団の特徴であり,その集団の特徴に対して心的な名称を付与しているのだと考えられます。

当日は『心を測る』を特別価格で販売していた(金子書房さんにご協力いただきました!)

問題提議4. 心は測定できるのか?

 もし,特定の個人に対して心理尺度を何度も繰り返し実施し,そのデータに対して因子分析を行うならば,たしかにその個人の特徴を測定できることになります。そして,その因子に対して「外向性」や「サイコパシー」など,心的な名称を付与することも自然なことのように思います。しかし,この「心」はそもそも私たちの知りたかった「心」なのでしょうか。

 必ずしもそうとは限りません。「心」には,行動を通して他者と共有することのできる側面の他に,私的にしかアクセスできず,他者と共有することのできない側面があるように思います。個人の特徴としての因子は,それが適切に推定されていれば,それは行動を通して他者と共有することのできる「心」の側面を反映したものと考えられます。しかし,その中には,当然のことながら私的にしかアクセスできないような側面が抜け落ちてしまっています。このような意味では「心は測定できない」とも言えますが,項目応答の背後に仮定される因子を「心」と呼ぶのだとすれば,「心は測定できる」と言えるように思います。

 イベントの際にはそこまでの議論をする時間的余裕がありませんでしたが,「心は測れるのか?」という本イベントのテーマに立ち返った時,このような「心」のラベルの用いられ方にまで目を向ける必要があるように思います。特定の個人に何度も心理尺度を実施した際に仮定される因子に心的な名称をつけることもあれば,集団を対象に心理尺度を実施した際に仮定される因子に心的な名称をつけることもあります。また,心理尺度の地域ごとの平均値,時代ごとの平均値などを対象にすることもあり,これらにも心的な名称がつけられることがあります(例えば,「ニューヨーク州の外向性」など)。このように見ていくと,「心」のラベルは個人から集団,それ以上のマクロなレベルにまでまたがるような多次元的なものであると言えます。心を測る際には,どの次元の「心」を測定したいのかを明確にしたうえで,その「心」に即した測定方法をとることが肝要になるのではないかと思います。


引用文献

[1] Michell, J. (1997). Quantitative science and the definition of measurement in psychology. British Journal of Psychology, 88(3), 355–383.

[2] Hölder, O. (1901) ‘Die Axiome der Quantität und die Lehre vom Mass.’ Berichte uber die Verhandlungen der Königlichen Sachsischen Gesellschaft der Wissenschaften zu Leipzig. Mathmatisch-Physische Klasse 53, 1-64.

[3] Stevens, S. S. (1946). On the Theory of Scales of Measurement. Science, 103(2684), 677–680.

[4] Bridgman, P. W. (1927). The logic of modern physics. Macmillan.

[5] Stevens, S. S. (1936). Psychology: The propaedeutic science.
Philosophy of Science, 3, 90–103. https://doi.org/10.1086/286400

[6] Chang, H. (2021). Operationalism. The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2021 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/fall2021/entries/operationalism/.

[7] Borsboom, D., & Mellenbergh, G. J. (2004). Why Psychometrics is Not Pathological: A Comment on Michell. Theory & Psychology, 14(1), 105–120.

[8] Borsboom, D. (2005). Measuring the Mind: Conceptual Issues in Contemporary Psychometrics. Cambridge University Press.(仲嶺真 監訳 (2022). 心を測る──現代の心理測定における諸問題, 金子書房)

「心は測れるのか?」について当日は活発な意見交換がなされた。
(会場はスクリーン映写の都合で、暗めでした)

議論の詳細はアーカイブ動画にて。心の測定について、皆さんの考えるきっかけにしていただければ嬉しいです。

いいなと思ったら応援しよう!

荒川出版会
荒川出版会は皆さんのサポートにより支えられています。頂戴したサポートは、荒川出版会の出版、イベント、講座の運営資金として活用させていただきます。