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僕と彼女と白衣と。

「先生を呼んで!」

 硬い表情をした彼女が尋常ではないオーラを放ちながら大股で廊下をこちらに向かって歩いてくる。その姿を横目で確認しながら、急いで僕は椅子の背もたれにかけてあるしわくちゃの白衣に腕を通した。

「何かありましたか?」

「ああ、先生!よかった」

 彼女の前に姿を現した僕の顔を見て一気に緊張を緩めた彼女は、すぐにハッとした表情を顔に浮かべた。コロコロとせわしなく変わる彼女を見て、僕は彼女と初めて出会った時を思い出し、笑ってはいけないと思いつつもほんの少し口元が緩んでしまう。

「あら……恥ずかしい……。先生にお見苦しいところを見せてしまいましたね。ごめんなさい」
 彼女は顔を赤らめ、上目遣いで恥ずかしそうに僕の顔を見上げる。そんな彼女がとても愛おしい。しかし、僕は今医者という立場にある人間なので、彼女に個人的な感情をぶつけることは決してしてはいけない事。僕は感情を微笑みの奥に閉じ込めた。

「いえ、そんなことありませんよ。で、どうされました?」
「いえ、何があったとかじゃないんですけどね……ただ、あの……」

 彼女は上目遣いで僕を見上げたまま、自分の服の裾をもじもじといじりはじめた。
 ああ。変わらない。困った時の彼女のクセ。今すぐにでも彼女をそっと抱き寄せて大丈夫だよと耳元でささやきたい。その衝動をグッとこらえつつ、僕は彼女の目をまっすぐに見ながらこう言った。

「ああ、不安になってしまったんですね。大丈夫です。治療も上手くいってますから安心してください。退院できるように一緒に頑張りましょうね」

「先生。ありがとうございます。窓の外の生き生きとした草花を見ていたら、このままじゃいけないような気持ちになって、自分の焦りがコントロールできなくなってしまったんです」

 窓から差し込むポカポカとした日差しを浴びながら目を向けた建物の外では、青々とした草木がこれでもかという生命力を僕達に見せつけている。

「ああ。この季節は自分以外のモノは皆目的をもって順調に進んで行っているように感じますからね。でも、大丈夫です。サキさんも、ゆっくりですが快方に向かってますから安心してください。トウヤさんもサキさんが元気になって帰ってくるのを待ってくれていますよ」

 僕の口にした『トウヤ』という言葉に彼女は満面の笑みを浮かべた。

「そうですよね。トウヤさんの為にも、しっかりと病気を治して帰らないと」

「サキさんはトウヤさんのことを心の底から愛しているんですね。トウヤさんが羨ましいな」

「まあ、先生。そんなことを言ってると、奥様に『先生がこんなこと言ってましたよ』って伝えちゃいますよ」

「ははは。それは勘弁してください。サキさんがトウヤさんを大切に思っているように、僕も奥さんをとても大切に思っているんですから」

「ふふふ」

 二人だけの秘密の話。そんな温かい空気に包まれながら僕と彼女は顔を見合わせながら微笑んだ。この幸せな時間がずっとずっと続けばいいのに。僕は彼女を彼女の部屋まで送って行きながら、幸せなのにツライ気持ちをこれでもかと噛み締めた。


ーー
 リビングに入ると僕は少し黒ずんだしわだらけの白衣を脱いで椅子の背もたれにかけた。

 そして、ゆっくりとその隣の椅子に座り頭を抱え込んだ。

 彼女が僕に怯えるようになったあの日から、僕の存在を彼女が認めてくれるのは僕がこの白衣を着ている時だけ。それ以外の時は、たとえ僕が彼女の方を見ていなくても、僕という存在を彼女が認識するや否や気が狂ったように叫び、暴れるようになってしまった。

 はじめは物忘れが激しくなったかな?という程度だった彼女。もう僕もサキも後期高齢者と呼ばれる年齢に足を踏み入れてから長い時間が経っているので、そういう病気・・・・・・になってもおかしくはない年齢だった。だから僕がずっとサキに寄り添い続けることは当然だと思っていたし、僕の身体と頭が元気なうちは全て僕が面倒を見ようと思っていた。

 しかし、サキは僕のことを忘れてしまった。

 いや、正しくは僕を危険な人間だと認識するようになってしまったのだ。

 彼女の中の『トウヤ』は僕であり、僕ではない。彼女は今でも『トウヤ』を愛しているが、トウヤは自分にとって危険な人間だと認識している。

 だからどれだけ僕が彼女のそばにいたい、彼女の面倒を見てあげたいと願っても、彼女は決して僕を受け入れない。受け入れないどころか、危険分子である僕を自分の世界から全力で排除しようとすらした。

 そんな嵐のような日々が続く中、僕はふと医者の格好をしてみてはどうだろうかと思い立った。彼女は医者という人間に悪い人間はいないと昔っから熱弁していたし、彼女が彼女である限り、その考えは覆されてはいないだろうと考えたから。

 そして、その考えは正しかった。僕が白衣を着ていれば彼女は僕を医者だと認識する。そしてあれだけむき出しにしていた敵意の欠片すら見せなくなっただけでなく、心からの信頼を僕に向けてくれるようになったのだ。

 彼女が僕に笑ってくれる。
 何を言っても、何をしても、僕を獣のような目で睨みつけていた彼女が。

 それだけで十分だ。あの時は心の底からそう感じた。感じたはずなのに。それなのに、こんなに胸が苦しいのはどうしてなんだろう。

 白衣を着た僕に彼女が笑いかけるたびに僕の胸がギュッと詰まる。
 白衣を着た僕を見て彼女が安心する様子を見る度に僕の心の色が消えて行く。

 彼女と離れて暮らすことも出来るけど、僕は彼女のことを今でも心から愛している。彼女が生きている。笑っている。それだけでいい。だから僕は彼女と幸せな時間を過ごしたこの家で、彼女が安心できるように白衣を着て、彼女の傍で笑っていく。そう決めた。決めたはずなのに。

 揺れる時計の振り子をぼんやりと見ながら僕は考えた。

 あとどれくらい彼女と過ごす事ができるのだろうかと。

 あとどれくらい彼女と過ごさなくてはいけないのだろうかと。

<終>

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