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不幸から脱出する方法


Youtubeにて本記事をアニメーション付きで説明した動画もありますので、ご覧になりたい方は以下を再生ください。

現代社会の不幸な人たち

世の中には不幸から脱出するためのアドバイスがあふれています。
ありのままの自分を認めようとか、プラス思考になって物事の捉え方を変えようとか、行動を変えて習慣化しようとか色々ありますが、何をしても不幸から脱出できず、辛い日々を送っている人も大勢いるのではないでしょうか?

不幸の原因がわからなければ、対処方法もわかりません。
不幸から脱出できないのは、不幸の本当の原因がわかっていないからです。

人が不幸になるのは外部環境のせいか、自分のせいかのいずれかです。

外部環境のせいで不幸になるケースとして、自然災害に巻き込まれるといったある意味仕方のないケースとは別に、テロや無差別殺傷事件など、他人に巻き込まれて不幸になるケースがあります。

最近日本で起きた無差別殺傷事件といえば、京アニ放火事件、大阪ビル放火事件、京王線刺傷事件、小田急無差別刺傷事件などが有名です。
これらの犯人は「無敵の人」や「ジョーカー」とも呼ばれ、自らの破滅も厭わず罪のない人々を巻き添えにします。
その動機は「死刑になりたいから人を殺そうと思った」というような身勝手で理解できない動機が多いです。
そんな理由でそれらの犯罪に巻き込まれてしまった人たちは本当に無念だったと思います。

不幸を撒き散らすのは凶悪犯罪者だけではありません。
家庭内暴力、校内暴力、いじめ、ハラスメントをする「まだ捕まっていない人」や、モンスターペアレンツ、クレーマー、荒らし行為、バッシング行為などをする迷惑な人も強制的に周りを巻き込み不幸を撒き散らしています。

特定の思想に過剰に執着して、周りを巻き込む人たちも多く存在します。
最近はポリコレ、ジェンダー、反ワクチン、自粛警察、ビーガンなどが話題になっていますが、宗教の原理主義者、人種差別主義者、他人の粗探しをする人たちなども世の中には溢れています。
そのような思想を持つのは個人の自由なので全く問題ありませんが、周りを巻き込み他人の自由を奪うようになったら、ただの迷惑行為でしかありません。

こういった犯罪者や迷惑な人たちは社会に多くの不幸を生み出しますが、彼ら自身も間違いなく不幸な人たちです。
犯罪や迷惑行為を正当化するつもりは全くありませんが、こういったことをしてしまう彼らは皆、不幸という迷路に閉じ込められ、脱出するために足掻いた結果、周りを巻き込むしかなくなってしまった人たちです。

ですが、彼らもまた、間違いなく過去に「巻き込まれた側」であった人間です。
巻き込まれた被害者の彼らが、次第に巻き込む加害者になってしまうのです。
そうして負の連鎖が続いていきます。

忘れてはならないのは、私もあなたも過去に他人を巻き込んだ結果、今幸せを享受できている可能性があることです。
私は人間に生まれながらの悪はいないと考えていますが、悪意なく悪を働くのが人間だと思っています。

例えば、いわゆる「成功者」にも価値観を押し付けるという形で周りを巻き込む人が大勢います。
自分が関わることのない通りすがりの「成功者」なら良いのですが、それが国や地域の権力者、会社の社長や上司、両親といったむげにできない「成功者」だと巻き込まれざるを得ません。

彼ら「成功者」の言い分としては、良かれと思って教えてあげている、導いてあげている、ということなのでしょうが、相手の立場を尊重できないのであれば余計なお世話でしかありません。
一見幸せそうに見える彼ら「成功者」の中にも、不幸から他人を巻き込む人が大勢混ざっています。

周りを巻き込むことをしない人でも、お酒やギャンブルなどの現実を忘れさせてくれる刺激に溺れ、病気になったり、社会的な信用を失ったり、なんらかの依存症になったりします。
誰もが知っている俳優など、社会的には成功を収めている人が自殺してしまうのは、彼らが周りを巻き込まなかったからですが、残されたご家族はむしろ巻き込んで欲しかったと悔やみ続けることになります。
自殺まではしなくても、低い自己肯定感に悩んだり、自傷行為に走ったりする人は大勢います。

もっと日常的なことで言えば、家庭や職場の人間関係に悩む人も多いでしょう。
自分の理想と現実のギャップに打ちひしがれることもあるでしょう。
現代社会には様々な不幸があり、不幸から脱出しようともがいている人たちが大勢います。
脱出不可能と思える迷路で絶望し、周りを巻き込んだり、自分を傷つけたりしてしまいます。

我々は、表面的な言動に目を奪われてしまいがちです。
「死刑になりたかった」などの犯罪者の語る動機を本音と思ってしまいがちです。
宗教の原理主義者など、過激な思想を本音と思ってしまいがちです。
遺書に書かれた言葉を本音と思ってしまいがちです。

「私は大丈夫」という言葉を信じてしまいがちです。

彼ら不幸な人たちも、自分の動機や思想を本当の願いだと当然ながら思っています。
嘘偽りない本心だと、そう思っています。

でも、私はそれを彼らの本心だとは認めません。
不幸になりたくて生まれた人なんていません。
生まれながらの悪なんて存在しません。

なぜそこまで言い切るかというと、彼らは偽物の自分を「認知」できていないだけだからです。

偽物の自分を認知できるか?

それが不幸から脱出する鍵であり、不幸という迷路のスタート地点に置き去りにされて泣いている本当の自分と再会するための鍵です。

幸せな経験の記帳で不幸から脱出できるか?

ここで、前の記事である『幸せとは何か?』の内容を一部おさらいしてみたいと思います。
不幸を理解するために、幸せについて論理的に説明します。

幸せは2種類に分かれます。
幸せな状態と幸せな経験です。

幸せな状態は、身体的、精神的、社会的に良い状態であること意味し、これらが良い状態だと、特に理由もないのにイキイキしているとか充実しているといった幸せな状態になることができます。
英語ではWell-beingと言います。
幸せな状態は、感情としては弱いものの継続的に感じることができるという特徴があります。

2つ目の幸せな経験は「嬉しい」や「楽しい」などの一時的に強い感情を生み出す経験のことで、英語だとHappinessと言います。
仕事で評価された時や宝くじに当たった時などを想像するとわかりやすいと思います。
嬉しいと思う幸せな気持ちは強いですが、すぐに慣れてしまって幸せを感じる期間の方は短いです。

まとめると、感情の強さと期間は「幸せな状態」は感情として弱いが期間は長め、「幸せな経験」は感情として強いが期間が短め、ということになります。

人は『幸せとは何か?』と質問されると、家族や友人と心のつながりを持つこととか、お金持ちになることと回答する習性があります。
しかし、揚げ足を取るようなことを言えば、幸せとは「嬉しい」とか「楽しい」といった感情そのものであるはずです。
家族・友人やお金というのは幸せの原因であり、それらの「おかげ」で幸せな感情が生まれます。

どうして人間には原因の方を考えてしまう習性があるかというと、人間は言語を操る生き物だからです。
幸せな「感情」を言語化した「嬉しい」とか「楽しい」という表現は、どの程度の強さなのかわからないという欠陥があります。
一方、幸せの「原因」は家族・友人・お金の「おかげ」といったように言語化しやすいため、言語を操る人間はどうしても幸せの「感情」ではなく「原因」の方を考えてしまいます。
幸せな「感情」の本質は、先ほど説明したように、その「強さ」と、それを感じる期間の「長さ」でしかありません。
よって、幸せな「感情」は言語化するよりも、数値化する方が適しています。

言語化が適している幸せの「原因」は、「〜のおかげ」という切り口で適度にシンプル化できます。
まず、お互いのおかげ、自分のおかげ、他者のおかげの3つに分けられ、もっと細かくすると協力、貢献、夢中、他者、運のおかげの5つに分類することができます。

幸せな経験をしたら、その原因と感情の強さを言語化・数値化してセットで記録します。
幸せの原因は、協力、貢献、夢中、他者、運のどれに当てはまるか考え、幸せな感情の強さは、例えば幸せレベル1〜5点といったように自分の尺度で数値化し記録します。
記録をし始めてすぐに気がつくことですが、いかに自分の幸せが偏っているかが客観的にわかります。
また、記録を続けていくと「幸せの味」がわかるようにもなります。
そして、「今を生きる」という価値観を醸成することができます。

詳しくは前の記事の『幸せとは何か?』をご覧になっていただければと思いますが、幸せの原因と結果をセットで記録し続けることで、食事と同じくバランスよく幸せを経験しやすくなり、小さな幸せよりも大きな幸せを優先しやすくなり、今しか経験できない目の前の幸せを噛み締めることができるようになります。
これが『幸せとは何か?』で説明した幸福度を上げるアプローチでした。

しかし、不幸にはこのアプローチが有効とは言えません。

まず、不幸について、誰の「おかげ」ならぬ、誰の「せい」であるか分類して記録しても、それが真実だとは限りません。
不幸について、人は誤った認識をしがちだからです。
自分で自分を不幸にしているのに、親や社会などの他者のせいで自分は不幸なんだと思ってしまうことはよくあります。
逆に、運や他者のせいなのに、自分のせいだと自分を責めてしまうこともあります。

また、不幸はまだ経験していない未来を想像して感じることが多いです。
今を生きるどころではありません、未来に心が囚われてしまいます。
不幸な経験の大半がこの未来を想像して感じる不幸だと言っても良いです。
そしてこの不幸は、未来が予測できなければできないほど強く感じる性質もあります。
死への恐怖はまさにこれで、死ぬ経験なんて誰もしたことがないので、想像によって大きな不幸を感じてしまいます。

想像で生み出す不幸は、実際に経験する不幸を凌駕するほど強くなることがあります。
遭難した時に絶望して感じる不幸は、実際に肉体が傷ついたわけでもないのに、確実に寿命を縮めるほどの悪影響を身体に及ぼします。
もっと身近な例では、子どもにとって注射は、打たれる前の方が不幸レベルが高いです。
実際に注射されると、そんなに怖がる必要はなかったと思うものです。
やらない後悔よりやって後悔の方が良いと言われるのも、頭の中で想像する不幸の方が実際に経験する不幸よりも辛いことが多いためです。

というわけで、『幸せとは何か?』で説明した幸福度を上げるアプローチで不幸から脱出することはできません。
幸せの反対は不幸だと考えると思いますが、「不幸」について考察をすると、そんなに簡単に不幸をシンプル化できないことに気づいて驚きます。

言語化でも数値化でも問題をシンプルにできないのであれば、一つ次元を上げて「構図化」によって問題をシンプルにするアプローチが有効です。
ここから少し本気を出して、本幸福論のメインフレームワークである「VALUEサイクル」を使って論理展開していきます。

不幸になる原因は「環境」と「欲求」

VALUEサイクルとは価値観、行動、経験、感情の基本の要素の流れを表したフレームワークです。
『思考は現実化する』やマザーテレサの名言など、世の中には原因があって結果が生まれるという”直線状の”因果関係を示した言葉や教訓が多々ありますが、VALUEサイクルはその名が示す通り、経験した感情が価値観に「フィードバックされる」点を明確に表した”円環状の”姿をしたフレームワークです。

VALUEサイクルの4つの基本要素の間には「能力、環境、捉え方、認知」というVALUEサイクルの流れに影響する項目があります。
また、VALUEサイクルの内側には「理性、WB、期待、欲求」という要素もあります。

不幸の原因についてVALUEサイクルを使って結論を申し上げますと、不幸になる原因は「環境」と「欲求」です。

1つ目の「環境」はVALUEサイクルの「行動」と「経験」の間にあります。
事故や犯罪に巻き込まれるという、自分以外の外部環境のせいで不幸になることがあります。
ですが、この不幸はどうしようもないことが多く、対策としては「環境」を変えるしかありません。
しかし、それも限度があります。
どこかで割り切る必要がありますが、現代の日本はこれでも人類史上最も不幸に巻き込まれにくい「環境」です。

2つ目の「欲求」はVALUEサイクルの内側にあります。
人間の行動は全て欲求を基にしています。

欲求が不幸の原因になる理由は、人間は「偽者の欲求」を持つことができるためです。
偽者の欲求とは、文字通り本当の望みではない欲求のことで、幸せにつながらない欲求である場合が多いです。
無差別に人を殺したいとか、社会に報復したいといった凶悪犯が持つような欲求は、間違いなく偽物の欲求です。

偽物の欲求がなぜ生まれるのか?
そもそも欲求とはなんなのか?
それをこれから解説していきたいと思います。

欲求の”天動説”

欲求で有名なのはマズローの欲求5段階説です。
生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求という5つの欲求からなっています。

自己実現欲求は成長欲求、それ以外は欠乏欲求と言われ、欠乏欲求は満たされていないとそれを欲する気持ちが常に湧き上がってきますが、成長欲求は満たされていなくても問題なく生きていける性質が強いです。

欠乏欲求が満たされた状態は、幸せな状態Well-beingと言っても良いです。
幸せな状態Well-beingは身体的、精神的、社会的に良い状態であることを意味しており、マズローの欠乏欲求を解消することで満たすことができます。

マズローの欲求階層説は、なにぶん80年ほど前の古い説ですので様々なツッコミどころがあります。

まず、欲求がどうやって発生するのかちゃんと説明されていません。
低次の欲求がある程度満たされれば次の欲求が自然と生まれるという説明ですが、お腹が空いていても承認欲求は発生します。

また、安全欲求はよくよく考えると別の概念です。
安全か危険かというのは未来の予測です。
高いところが怖いのは、落ちたら肉体が損傷を受けるためであり、未来の生理的欲求に対する欲求不満です。
同様に、未来で承認や愛を失うことを想像して欲求不満になります。
つまり、安全欲求はその他の欲求の未来の欠乏をどれだけ不安に思うかをあらわした概念です。

さらに、自己実現欲求とはいまいちピンとこない欲求だと思います。
なぜ、わかりづらいかというと、自己実現とは欲求ではなく状態のことだからです。
それはマズローもわかっていて、自己実現「欲求」と言いつつも、自己実現した「状態」とはどのような状態かの説明に多くの紙面を割いています。
しかし、あくまでも欲求であるという前提があるせいで、説明がわかりづらくなっています。

マズローの欲求5段階説は、かなり大袈裟に言えば欲求についての「天動説」だと思っています。
感覚的には誰もがなんとなくおかしいと思っているが、それ以外に良い説がないので信じているという意味での天動説です。
実際、某検索エンジンで「欲求」という言葉を画像検索すると、80年も前に生み出されたどう考えてもおかしいマズローの欲求階層説ばかり出てきます。
まるで「太陽は地球の周りを回っている」と盲目的に言われている気分です。

そこで、これから欲求の「地動説」を唱えることにチャレンジしてみたいと思います。

欲求の構図化

欲求の画像検索結果には、マズローに混じってコップを水で満たすイメージも時折見かけることができます。
日本語では、欲求を「満たす」と表現されるため、欲求というコップが液体で満たされると満足する、みたいなイメージを持ってしまいます。
ですが、よくよく考えると、これはおかしな比喩です。

欲求とは、「何かをしたいという気持ち」です。
それがコップに満ちるということは、欲求がたくさんあるという真逆の意味になってしまいます。

なぜ、コップを満たすイメージを想像してしまうのでしょうか?

それを解き明かすには、前回の『幸せとは何か?』という記事で説明した、幸せな「感情」と幸せの「原因」についての考察が生きてきます。

人が幸せについて考える時、家族・友人・お金のおかげといった言語化しやすい幸せの「原因」の方を考えてしまい、言語化しにくい幸せな「感情」そのものについては考えにくいという話をしました。
幸せな感情はその「強さ」と「期間」でしかなく、言語化ではなく数値化が適しています。

これを踏まえて、欲求について考えてみましょう。
欲求は「何かをしたいという気持ち」ですので、幸せな感情と同じく数値化する方が適しています。
しかし、言語を操る人間が欲求とは何かを考えると、言語化しやすい欲求の「原因」の方を考えてしまいます。

今、「原因」と言いましたが訂正させてください。
欲求は過去ではなく現在何かをしたいという気持ちですので、「原因」ではなく「目的」となります。
それは未来への「期待」と言っても良いです。

その欲求の「目的」を語ったのがマズローの5段階の欲求であり、数値化が適した欲求「そのもの」の方についてはちゃんと考えられていません。
幸せの原因である「経験」と、幸せそのものである「感情」をそれぞれ分けて考えたように、欲求についても欲求の「目的」と欲求「そのもの」に分けて考える必要があるということです。

そう考えると、欲求を構図化するにはコップが2つ必要になることに気がつけます。

1つ目のコップは欲求の「目的」が入ります。
こちらは言語化しやすいです。
生理的欲求を例にすると、食事、睡眠、酸素など、欲するもの自体のことです。
幸せな状態Well-beingがどれだけあるかを表すコップと言っても良いです。
こちらを「Well-beingのコップ」と呼ぶことにします。

心身の健康や良好な人間関係などのWell-beingが十分であれば、こちらのコップは目一杯満たされた状態になります。

もう1つのコップは欲求「そのもの」を入れるコップです。
こちらは何かをしたいという気持ちの強さですので、数値化の方がしやすいですが、あえて言語化して説明するならば、
お腹が空いた時のご飯を食べたいという気持ちの強さ
息を止めている時の息をしたいという気持ちの強さ
となります。
こちらはそのまま「欲求のコップ」と呼ぶことにします。

WBのコップの中身が減っていくと、逆に欲求のコップの中身が増えていきます。
逆も然りです。
2つのコップの中身が行ったり来たりするようなイメージです。
お腹が空くからご飯を食べたくなり、酸素が不足するから息を吸いたくなる。
当たり前すぎて誰も深く考えないことです。

感情が生まれる仕組み

この2つのコップで感情が生み出される仕組みを説明できます。
まず、2つのコップの中身が行ったり来たり移動する時、感情が発生します。
イメージとしては2つのコップの間に水路と風車があり、そこを流れる水の勢いで感情という風車が回るのをイメージしていただくと良いと思います。

例として、雪が降るような寒さの中で露天風呂に浸かる場合を考えてみましょう。

露天風呂に浸かる前、裸で外気に触れていると、欲求のコップには「寒さから逃れたい気持ち」が並々と溜まります。
露天風呂に浸かると、欲求のコップの中身がWBのコップに勢いよく流れ込み、幸せを感じることになります。
暖かさというWell-beingを得る代わりに、寒さから逃れたいという生理的欲求が解消されます。

さて、次は不幸な経験の場合を見てみましょう。
暖かい露天風呂に浸かり、幸せを感じてぐっと足を伸ばしたところ、温泉が湧き出てくる水温の高い部分に触れてしまい、熱さを感じたとしましょう。
その瞬間、WBのコップから生理的欲求のコップに中身が流れ込み、「熱い!」と不幸を感じることになります。

要は、欲求を解消してWell-beingが満たされた時に幸せを感じ、Well-beingが失われた時に不幸を感じるということです。
2つのコップの中身の移動する勢いが、幸せレベルや不幸レベルなど感情の強さに関係してきます。

そして、感情は2つのコップの中身が行き来する以外でも発生します。
それは、コップの中身が溢れた時です。
例えば、欲求のコップから中身が溢れると不幸を感じます。
不幸というよりは、ストレスを感じるという表現の方がしっくりくるかもしれません。

例えば、露天風呂に浸かり、幸せを感じた数秒後、なんと蛇が露天風呂で泳いでいることに気づいたとします。
その瞬間、生理的欲求のコップの容器自体が急激に小さくなります。
欲求のコップが小さくなった結果、中身が溢れ出し、ストレスという不幸を感じることになります。

なぜ欲求のコップの大きさが小さくなってしまったのでしょうか?
それは、欲求のコップは未来への「不安」と「希望」で大きさが変わる性質があるためです。

まだ、実際に蛇に噛まれたわけでもありません。
蛇に噛まれるのではないかという未来の「不安」で、欲求のコップが小さくなったことにより生み出された不幸です。
当然ですが、蛇が好きな人はこの「不安」が発生しないためストレスを感じません。
不安と希望をどのようなことで感じるかは、その人のそれまでの「経験」に関係します。

まだ経験していないのに想像するだけで不幸を感じるのは、この機能があるためです。
マズローの2つ目の欲求である「安全欲求」は、このコップの大きさを変化させる機能を一つの欲求として捉えたものです。

もう少し例をあげたいと思います。
不安がピークに達し絶望すると、欲求のコップは限りなく小さくなって中身が全て溢れます。
それとは逆に希望を持つとコップは大きくなり、中の欲求が溢れにくくなります。

例えば、遭難して絶望すると、死ぬと決まっているわけではないのに不必要に不幸を感じることになります。
同時に、欲求がコップから溢れてしまっているのでやる気が起きず、生存するための行動を取りづらくなります。
遭難しても必ず生きて帰るという希望を持てる人は、不必要に不幸を感じることもなく、希望によって大きくなったコップに生きたいという欲求を溜め続けられるため、普段以上の力を発揮して生き残る可能性が高まります。

多くの宗教が天国という希望を人々に与え、欲求のコップを大きくすることで人々を救済しています。
逆に、まやかしの希望によってWBのコップが空になるまで気がつけず、そのまま死に向かって突き進んでしまうこともあります。

このように、「不安」と「希望」でコップの大きさを変え、欲求を溜めておける量を変化させます。

欲求のコップの大きさは欲求許容量と言えます。
VALUEサイクルでは「理性」と表現しています。
「欲求」が許容量たる「理性」次第で緊急度が変わり、「価値観」によって取捨選択されて「行動」につながります。

抑圧のバケツにバシャっと入れる

諦めると欲求のコップの中身が全て溢れるという話をしました。
成長欲求は諦めても不幸を感じて終わりですが、欠乏欲求を完全に諦めることは大抵の場合、死につながります。

よって、人間は欠乏欲求のコップが不安によって小さくなり中身が溢れてしまっても、生存のために必要な欲求を注ぎ続けます。
例えば、自分にとって大切な人が危険な状態にある時、不安によって所属と愛の欲求のコップが小さくなって中身が溢れてしまっても、生命力や精神力などの他のWBのコップの中身を所属と愛の欲求のコップに注ぎ入れます。
注いでも同じ量が溢れ続けますので、ストレスに苛まれ続けます。
これは所属と愛のWBのコップの中身が一定量満たされるまで続きます。

ところで、欲求のコップから溢れたら不幸やストレスという感情になって終わりですが、これはもったいないことだと思いませんか?

欲求のコップの中身は人間を動かすエネルギーです。
うまくいけばそのエネルギーを、生命力や人とのつながりなど実体のあるWell-beingにできます。
うまくいかなければ、不幸という感情エネルギーになって捨てられてしまうことになります。

これはもったいないと思います。
そこで、人間はこの欲求を捨てないでとっておく仕組みを身につけました。

人間には防衛機制という心の仕組みがあります。
叶えられない欲求に対する心の防衛反応のことで、合理化、抑圧、投影など様々な種類がありますが、その中でも「抑圧」という仕組みを欲求のコップに当てはめて説明します。

防衛機制の抑圧とは、自身の欲求や感情を意識から締め出し、無意識に押し留める行為を表した心理学用語です。
とは言っても、言語化された説明では直感的にわかりづらいので、構図化した欲求のコップ理論を使ってこの抑圧を説明します。

抑圧とは「欲求のコップの中身を別の大きなバケツにバシャっと入れることである」と表現できます。

解消できない欲求を溢れさせないためには、別の容器に移し替えてしまうしかありません。
そこで、バケツにバシャっと入れます。
このバケツを「抑圧のバケツ」と呼ぶことにします。
こうすることで、叶えられない欲求を不幸という感情エネルギーにして捨ててしまうことなく、一旦とっておくことができます。

不幸を感じないで済み、欲求というエネルギーもとっておけるので一石二鳥の優れた仕組みです。
しかし、この抑圧が発生するときは大抵辛い経験をしているときなのであまり良い印象は持てません。

具体的な例を出して説明します。

虐待されている子どもがいたとします。
親とつながりたい「所属と愛の欲求」と、痛みから逃れたい「生理的欲求」、自分を認めてもらいたい「承認欲求」が同時に発生します。

親とのつながりが欲しいけど、近づくと殴られる。
痛みから逃れたいけど、離れたらつながりがなくなる。
どちらを選ぶべきか葛藤します。

その結果、生理的欲求と承認欲求のコップの中身は抑圧のバケツにバシャっと入れ、所属と愛の欲求である親とのつながりを選びます。
叩かれて身体が痛くても、貶されて心が痛くても、親の顔色を伺い、媚びへつらい、何としてでもつながりを得ようとします。

生まれた欲求への対処方法は、VALUEサイクルの「価値観」のところで決まります。
子どもにとって、親とのつながりを得たいという欲求はどんな欲求よりも優先されます。

虐待する親とのつながりを例にしましたが、そんな悲惨なケースだけではなく、両親の離婚などで母親と父親のどちらかだけのつながりを選ばされると、選ばなかった親とのつながりを抑圧します。
親と友達のどちらのつながりを取るか選ばされても同様です。
そのほかにも、大声を出したらだめ、走ったらだめ、遊んだらだめ、などなど、子どもは親の言うことを良くも悪くもその言葉通りに受け止めます。

親とのつながりを盾にされ、小さな欲求でもバケツに放り込むことはよく起きることです。

抑圧のバケツの中身を元の欲求のコップに戻すことは、親とのつながりを失う不幸に直結するためできません。
蓋を閉じてバケツの中の叶えられない欲求を見ないようにします。
こうして欲求を感じないよう無意識に押し留めます。
その欲求をまるでないもののように扱います。

あくまで一例ですが、これが抑圧です。

とはいえ、欠乏欲求のコップは中身がなくても生存に必要な欲求が注がれ続けます。
注いでも同じ量が溢れ続けますので、バケツへバシャっと移し替える作業は続き、いずれ抑圧のバケツ自体も溢れる時がきます。

偽物の欲求とは?

抑圧のバケツの容量がもう限界となった時、どうなるでしょうか?
バケツの中身を元の欲求のコップに戻すことは怖くてできません。
ですが、なんとかしてバケツの中身の欲求を解消する必要があります。

抑圧のバケツにバシャっと入れるのと同じ発想を使えば良いのです。

とりあえず、バケツを溢れさせないことを目的に、適当に空の欲求のコップを用意してそこにバケツの中身を移し替えます。
こうして、でっち上げの「偽物の欲求」が出来上がります。

偽物の欲求は大抵が非現実的な夢や願望です。
お金持ちになりたいとか、人生一発逆転したいとか、芸能人並みの容姿になりたいとか、非現実的な夢という別の形の欲求になって、バケツの中身を解消しようとするようになります。
やたらプライドが高い人や、完璧主義な人なども、非現実的なセルフイメージを持った結果です。

生きる意味を考えてしまうのが、最も典型的な偽物の欲求でしょう。
幸せな時に生きる意味なんて難しいことは考えません。
そして、不幸な人は生きる意味についてどんなに他人から説明されても「なんか違う」と思ってしまいます。
偽物の欲求は本当に求めていることではなく、抑圧のバケツを直視しないためのでっち上げの欲求なので、叶えても満たされないからです。

余談ですが、漫画やアニメの主人公が最初に持つ夢は、偽物の欲求であることが多いです。
火影になりたいとか、巨人を駆逐したいとか、正義の味方になりたいとかです。
主人公たちはお話が進むにつれ、その夢が偽物の欲求であることに気がつき、本当の欲求を叶えてハッピーエンドがお決まりのパターンです。

さて、偽物の欲求は無理難題を自分ではなく他者に求める形になることもあります。
自分の理想や自己中心的な要求を他者に求めます。
求める相手は親や子ども、配偶者、好きな人、上司や部下などの他人にとどまらず、国や社会、宗教、人種、性別、などなど様々な概念や役割にも自分の願望を押し付けます。
それが叶えられないと、時に逆恨みのように理不尽に人を恨んだりします。

アイドルに理想を求め、その理想からかけ離れていると恨んで事件になったりします。
親がこうしてくれない、夫や妻がああしてくれない、子どもが思い通りにならない、上司が悪い、部下が悪い、社会が悪い、国が悪い、などなど。
自分だけではなく周りを巻き込んで不幸を増やします。
漫画やアニメだと悪役はこちらにされることが多いですが、誰もがその側面を持っています。

このように、あくまでバケツの中身は直視せず、別の形にしてしまうという荒技を人間はやってのけます。
これらの偽物の欲求をでっち上げる目的は、バケツに入れる前の本当の欲求から目を逸らすためです。
意識してやっているわけではなく、無意識ででっち上げてしまいます。

そして、これらの無理のある夢や他者への願望などの偽物の欲求は、往々にして叶えられません。
当然不幸な経験や感情になります。
そしてその不幸な経験・感情から価値観ができます。
VALUEサイクルが汚染された状態で回っていき、どんどん人生がおかしな方向に進んでいきます。
不幸という迷路に迷い込んでいきます。

大抵の偽物の欲求は叶えられず「失敗」に終わりますが、外部環境が揃ってたまたま「成功」してしまうと、本人も周りも長期的に見てさらに不幸になります。
いわゆる「成功者」の出来上がりです。

お金持ちになったり、仕事で成功したり、名声を得たり夢を叶えたけど「思ってたのと違う」と感じ、さらに「成功」を追い求めます。
「生きる意味」を誰から聞いても、「なんか違う」と感じてしまうのと同じです。
しかし、抑圧のバケツを直視できないので、自分の正しさを証明するため他人を巻き込み、自分の生き様などの「成功法則」を強要するようになります。

ここまでの話を「自分には関係ない」と思われた方のために、もっと身近な例を出したいと思います。
分不相応の夢を叶えなくても、わがままを通さなくても、もっと簡単に抑圧のバケツの中身を減らせる方法があることに人は気がつきだします。

それは「他者と比べて優越性を感じること」です。

自分が偉くなったり他人に動いてもらう必要はありません。
自分より弱い立場の人間を見つけるだけで済みます。
弱いものいじめやバッシングをすることで自分は優れていると思え、欲求が満たせます。
いじめることで幸せを感じるということです。

前の記事の『幸せとは何か?』でも説明しましたが、人と比べて感じる幸せは「運」による幸せであり、人工甘味料のようなものです。
「人の不幸は蜜の味」という言葉があるくらい美味しいです。
ですが栄養になりません、そのくせもっと欲しくなります。

もっと、もっとと、いじめる相手を探すだけの人生になります。

抑圧のバケツが「捉え方」に影響する

偽物の欲求を作れない人もいます。
そういう人はいずれ抑圧のバケツの中身が溢れる時がきます。
その時、どのようなことが起こるでしょうか?

バケツから溢れたら不幸を感じますが、その不幸の本当の原因は直視できません。
そのため、今度は原因をでっち上げます。
不幸な経験を自分のせい、他者のせい、運命のせいのいずれかに無理やり結びつけて不幸の原因を捏造します。

そしてこれはVALUEサイクルを逆走するという荒技を使います。

VALUEサイクルの「感情」で不幸が発生し、その感情の本当の原因を見ないようにするので、辻褄を合わせるために他の「経験」を引っ張り出し、それが不幸の原因だと自分を納得させます。
VALUEサイクルの「感情」と「経験」の間にある「捉え方」を変えてしまうのです。
もちろんこれも無意識ででっち上げます。

例えば、必要以上に自分を責めてしまう人がいます。
自己肯定感が全くなく、自分という存在は生きていても仕方がないほど劣った存在なんだと言い続けます。
これは抑圧のバケツの中身が溢れて不幸を感じるけれども、本当の原因は直視できないので自分の存在自体に原因をこじつける行為です。
完全に「捉え方」が歪んでしまっています。

本当の不幸の原因は、自分ではなく身近な他者ですが、その他者のせいにすることは所属と愛の欲求を放棄することになると思い込んでいるためできず、自分のせいにでっち上げるのです。
もちろん本人はそれに全く気づいていません。
心から自分の存在が劣っていると思い続けます。

次は、自分で自分を責めるのではなく、他者から責められていると感じてしまう例を挙げます。
被害妄想というと酷いかもしれませんが、抑圧のバケツから溢れて感じる不幸の原因を他者にこじつけます。
自分は他人から嫌われているとか、呪われた運命だとか事実とは異なる不幸の原因を作り出します。

このように、あくまでバケツの中身は直視せず、「捉え方」を変えて別の形にしてしまうという荒技を人間はやってのけます。
これらのこじつけの目的は、本当の不幸の原因から目を逸らすことです。

抑圧のバケツを原因とする社会問題

この抑圧のバケツ理論で現代の社会問題を説明できます。
犯罪者や迷惑な人たちは、かなり大きな抑圧のバケツを持っています。

彼らは叶えられない本当の欲求を見ないようにするために、偽物の欲求のコップを生み出し、犯罪や迷惑行為に熱をあげるようになるのです。
これら偽物の欲求を解消することで得られる幸せは虚像なので、簡単にくずれてしまいます。
だから彼らは死に物狂いでこの虚像を守ろうとします。

彼らが抑圧のバケツを直視することをどれだけ恐れているか理解しないと、あのエネルギーがどこから出ているのかを理解することができません。
彼らにとって、抑圧のバケツを直視することは死よりも恐ろしいことになり得ます。
死刑になりたかったとか、死にたいとか、そういった偽物の欲求は本物の欲求を直視することの方が恐ろしいことを意味します。
我々が彼らの動機を理解できず、異様に感じてしまうのは、彼らの心の中にある抑圧のバケツが見えていないからです。

有名人の中にも大きな抑圧のバケツをもっていることが分かりやすい人がいます。
良くも悪くも話題になる人というのはいつの時代もいますが、彼らの中に抑圧のバケツを見ることができます。
そして、そういった人をバッシングするネット上の顔の見えない人たちも同様です。

有名人はいわゆる「成功者」ですが、成功者になることができたエネルギーは偽物の欲求があったおかげであることが多いです。
コンプレックスをばねにして成功者になることは、むしろ良いことです。

そもそも、抑圧のバケツは悪いことばかりではありません。
偽物の欲求を叶えようとする過程で、なんらかの「能力」が身に付きます。
本当の欲求を叶えられず、不幸な感情になるしかなかったエネルギーが別の形になって「能力」になります。
なんらかの「能力」に秀でたその道の「プロ」が、どこか人として理解し難い部分が多い理由も、抑圧のバケツをエネルギー源にしているからです。

ですが、成功者になった後は、本当の自分の欲求を認知しないと、そのまま偽物の欲求で生きることになります。
そして良かれと思って人を巻き込みます。
自分の正しさを証明するために「成功法則」や「生き方」を強要します。
そんな人が親やリーダーになると、その組織に属する人たちは巻き込まれ、抑圧のバケツが生み出されやすい環境ができます。

「欲求」と並んで「環境」も不幸になる原因です。
抑圧のバケツを認知していない「成功者」が、良かれと思って不幸を生み出しやすい環境を作ります。
権力を持って国のトップになれる「成功者」、組織を束ねられる社長や上司などの職場の「成功者」、家庭を持つことができる両親という「成功者」。

彼らが抑圧のバケツを認知していれば、良きリーダーになり、幸せになりやすい環境を作るでしょう。
しかし、そうでない場合は一時の繁栄と引き換えに、抑圧を生みやすい不幸な環境を作ってしまい、不幸の連鎖が生まれます。

国民の大多数が抑圧のバケツを持ち、かつ、そのことに無自覚だと、歴史に残るほどの不幸が発生します。
独裁者に先導され戦争を巻き起こしたり、特定の人種や国民を強く非難するようになったり、虐殺に発展したりします。

ヒトラーは両親から虐待を受け、父親に殴られた回数を嬉々として母親に報告するほど大きな抑圧のバケツを持っていましたが、当時のドイツ国民の多くも抑圧のバケツ持ちだったのだと思います。
国からの命令でスパイ活動に従事し、今まで親身に付き合ってきた友人の家族を幼い子どもも含めて皆殺しにしなければならないような場合も、相当大きな抑圧のバケツができると思います。

根拠は示せませんが、1990年代の日本も底知れぬ違和感がありました。
その時期にオウム真理教というテロ集団が生まれました。
隣国もかなりの抑圧のバケツ持ちだと思います。
戦争経験者ではない人間があそこまで日本を嫌う理由はありません。
本当の不幸の原因を直視できないので、不幸の原因は日本だとでっち上げています。
両国とも、目上の人であればどんな人間だろうが尊重すべきという思想が根強いことが原因と推測します。

戦勝国も大量虐殺をした上での勝利によって抑圧のバケツをもち、自分たちは強くなければならない、世界の警察でなければならない、という偽物の欲求に支配されていた時代があります。

私は歴史・文化についてまだ勉強不足なので、ここでは多く語らないようにします。

ただ、現代に生きる我々の社会も、将来、抑圧のバケツを全人類が認知した後に振り返って見てみたら、かなり異様な社会だったと思うことは確実だと思います。
本当の欲求ではなく、偽物の欲求で不幸を量産するなんて、異様な社会です。

本当の意味で民主主義が機能するようになるのは、全人類が抑圧のバケツを認知した後です。
抑圧のバケツを認知していないリーダーを選んでしまう方にも問題があります。
我々人類が目指すべき社会の方向性は、『もっと幸せになる方法』で述べたいと思います。

欲求の地動説

ここで、今まで説明した内容の整理も兼ね、本幸福論における「欲求の地動説」を、「天動説」たるマズローの欲求5段階説との比較をしながら示しておきたいと思います。

マズローは欲求を5つに分類し、ピラミッド型の構図の下から順番に満たしていくことをシンプルに説明しました。
それに対し、本幸福論では欲求の「目的」と欲求「そのもの」を分けて考え、2つのコップをセットにして表現します。

コップは概ねこのような分類になります。
マズローの欲求5段階説に該当するものも併記しておきます。

コップの数はこの6つというわけではなく、例えば肉体的WBのコップであれば筋力・視力・聴力といったようにたくさんあります。
人間の心の中に大量のコップが並んでいるイメージです。

マズローとの大きな違いは、安全欲求についての考え方です。
安全欲求は、それぞれの欲求のコップの大きさに関係する概念であるため、独立したコップとして存在しません。

また、欲求を満たす順番は、マズローのようにピラミッドの下から順に満たすことになっているわけではありません。
たくさんある欲求のコップの中で緊急性が高いものから順にです。
どんなにお腹が減っていても、大切な人を失う不安が勝ればそちらを優先するのは自然なことです。

マズローは欲求階層説ゆえに、2つ以上の欲求が同時に叶えられない状況をあまり重要視していないように思えます。

本幸福論では、ここで抑圧のバケツという概念が生まれます。
叶えられない欲求はコップから全て溢れて不幸という感情になりますが、その不幸を認められない場合、欲求は溢れる前に抑圧のバケツにバシャっと入れられます。

抑圧のバケツにも溜めておける容量があるので、溢れると不幸という感情になりますが、偽物の欲求のコップに注いで成長欲求という形にでっち上げることもでき、その場合は大きな夢や野望を持って自分や他人に無理難題を求めたり、安易に弱いものいじめをしたくなります。

つまり、成長欲求には満たされない欠乏欲求が形を変えたものが混ざっているということです。

マズローの自己実現欲求のように、全ての欠乏欲求を満たした後に成長欲求が生まれるのも事実です。
欠乏欲求をなんなく解消できる人は、満たされたWBのコップから注がれる形で真っ当な夢や目標という成長欲求が生まれます。
余力から生み出された欲求なので無理のある夢にはなりませんし、夢が叶えられなくてもそんなに辛い思いをしません。

マズローはWBのコップの方しか見ておらず、反対側にある欲求のコップと抑圧のバケツの存在は気づけなかったのだと思います。
全体像の半分を構図化していないので、マズローの自己実現欲求の説明はわかりづらいのです。
成長欲求には自己実現欲求だけが含まれているのではなく、満たされない欠乏欲求が形を変えた偽物の欲求も含まれているので、全体像を示さないと説明が難しいのです。

そして、自己実現とは「欲求」ではなく「状態」のことです。
安全欲求と同じく、5段階のピラミッドとは別の概念です。

では、どのような状態が自己実現した状態なのか?

本幸福論での結論は、「抑圧のバケツとそこから生まれる偽物の欲求を認知している状態」のことです。
自己実現した状態にも程度がありますが、最低ラインはこうなります。

それとは逆に、自己実現していない状態とは、「抑圧のバケツを認知せず、偽物の欲求と本物の欲求を見分けることができない状態」です。

いかがでしょうか?
欲求とは目に見えない概念ですので正解なんてありません。
マズローのピラミッドの構図と本幸福論の2つのコップの構図、どちらが納得感がありましたか?

不幸な感情が生まれるメカニズム

続いて不幸な感情が生まれるメカニズムも整理していきましょう。
不幸な感情は次の4つに分けられます。

①本物の欲求から生まれた不幸な経験(実際の経験から感じる不幸)
1つ目は、本物のWBのコップから欲求のコップに中身が流れ込むことで感じる不幸です。
例えば、怪我をしたり、心ない一言で傷つくといった実際の経験に対して感じる不幸です。

②本物の欲求から生まれた不幸な経験(不安を想像して感じる不幸)
2つ目は、本物の欲求のコップから中身が溢れることで感じる不幸です。
ストレスなど、まだ経験していない未来を不安に思って感じる不幸です。
頭の中で生み出す想像の不幸ですが、1つ目の実際に経験する不幸よりも辛いことがあります。
ですが、この不幸があるおかげで怪我などの実際に経験する不幸を回避できます。
言ってしまえば、苦しむ価値がある割りに合った不幸と言えます。

これらの本物の欲求から生まれる不幸は自然なことですので、対処方法は『もっと幸せになる方法』で述べたいと思います。

問題は、これから説明する抑圧のバケツから生まれる不幸です。

③偽物の欲求から生まれた不幸な経験(実際の経験から感じる不幸)
不幸な感情が発生するメカニズム、3つ目は、偽物のWBのコップから偽物の欲求のコップに中身が流れ込むことで感じる不幸です。
例えば、他人と比べて優越性を感じることなどで得た無駄に高いプライドやセルフイメージなどの偽物の自信のWell-beingや、対等ではない人づきあいなどの偽物のつながりのWell-beingを失うことで感じる不幸です。
これらのWell-beingは虚像なので、ものすごいスピードで簡単に崩れてしまい不幸レベルが高くなりやすいです。
この不幸は偽物の欲求から生まれているので、本来経験する必要がない不幸です。

④偽物の欲求から生まれた不幸な経験(不安を想像して感じる不幸)
4つ目は、抑圧のバケツや偽物の欲求のコップから中身が溢れることで感じる不幸です。
こちらの抑圧のバケツから生まれているので、本来経験する必要がない不幸です。
しかも、実際の経験で感じる不幸よりも辛いことがあるため、全く割りに合いません。

これらの抑圧のバケツから生み出される不幸をなくしたければ、自分の心を変える必要があります。
目を逸らしている抑圧のバケツを直視する必要があるということです。
ですが、人はこの不幸を無関係な他人のせいにしたり、自分ではなく他人に変わってもらうことで対処しようとしてしまいます。

客観的に見たら自業自得なのに、不幸を他人のせいにする人は世の中にたくさんいます。
また、自分が変わるしかないのに、他人を変えようとする人も大勢います。
もしかしたら、あなた自身もそうかもしれません。

この不幸をなくすには、自分が変わるしかありません。

「自分が変わるしかない」

そう言われてどう思いましたか?

そんなことはわかっている。
自分を変えられるなら苦労しないし、変われないから不幸なんじゃないか。
自分が悪いわけではないのに、なんでこっちが変わらないといけないんだ。
自分が変わっても周りが変わらなかったら意味がないじゃないか。
自分が変われなんて偉そうに、説教くさい。

もし、そんな風に思ったのでしたら、そんなあなたに伝えたいことがあります。

あなたはすでに自分を変えています。

あなたは過去に、他者のせいで経験した不幸を、自分の心を変えることで耐えました。

あなたの不幸はあなたのせいではない

「自分が変わるしかない」
そう言われて嫌な気持ちになったと思います。

過去に自分の心を変えてしまったから今のあなたは不幸なんです。
自分のせいではなく他人のせいなのに、「自分が悪いんだ」と自分の心を変えてしまった。

あなたはとても優しい人なんでしょう。
自分が我慢して、乗り越えれば良いと思ってしまったんだと思います。
あなたは我慢するしかなかった、選択肢なんかなかった。
我慢しなかったらもっと「恐ろしいこと」が起きるから、自分の心を変えるしかなかった。

だから無関係な他人にも「お願いだから」自分と同じように我慢してくれと思っています。

「頼むから我慢してくれ」
「我慢するのなんて簡単でしょ?」
「どうしてそんなことも我慢できないの?」

そうやって他人にも我慢を強いて、不幸に巻き込みたくなってしまいます。

あなたは我慢しない他人が嫌いです。
我慢してくれないと「恐ろしいこと」が起きるのにどうして我慢してくれないのか?
自分は我慢したのだから、周りの人たちも自分のように我慢してほしい。
そうすれば自分は不幸から脱出できる、そう思ってしまいます。
でも、そう思えば思うほど周囲から孤立し、なおさら不幸になっていきます。

他人が我慢しないことに怒りを覚え、「あなたが変われ」と簡単に言われることに怒りを覚えます。
その気持ちはわかります、あなたは人の何倍も我慢して頑張ってきたんです。
そんなことも知らないで、簡単に「あなたが変われ」と言われたら、自分の存在を否定されたような気持ちになってしまいます。

あなたが不幸なのはあなたを巻き込んだ犯人のせいです。
あなたのせいではありません。
巻き込まれた結果、あなたは自分の心を変えざるを得なかった。

幸せを奪われてしまうことは誰だってあります。
でもそれはあなたのせいじゃない、あなたが悪いわけがない。
いくらでも悲しんでいい、いくらでも怒っていい。

もしあなたに悪いところがあるとしたら、それは不幸な経験を「自分の心を変える」ことで乗り越えてしまったことです。
そしてもう二度と自分を変えたくないと思っているはずです。

違うんです。

過去にあなたが自分の心を変えてしまったときは、そうせざるを得なかったからです。
選択肢なんかなかったからです。

あなたが変わらなければならないのは、抑圧のバケツを直視する勇気を持つことです。
他人のせいで生まれた不幸は、決してあなたのせいではありません。

全てに優先する欲求

虐待されている子どもがいたとします。
親とつながりたい、でも痛みからも逃れたい。
どちらを選ぶべきか葛藤します。

その結果、親とのつながりを選びます。
叩かれて身体が痛くても、貶されて心が痛くても、親の顔色を伺い、媚びへつらい、何としてでもつながりを得ようとします。

殴られてもなんとも思わない、別に辛くないと自分に嘘をつきます。
「殴られるのは自分が悪いからだ」と、自分の気持ちを変えて乗り越えてしまいます。

悪いのは虐待をする親です。

でも、子どもは親のせいにせず、自分のせいにしてやり過ごします。
親とのつながりは諦められないからです。

親からの虐待に限らず、小さな子どもなど無力な人間は、他人から受けた不幸を自分の気持ちを変えることで乗り越えてしまいます。
なぜ、自分の気持ちを変えてしまうか?
それは、人間はつながりの欲求を最も大切にする生き物だからです。

心と身体が傷ついたとしても、時に命を失うことになっても、「つながり」を選んでしまうのが人間です。
「つながり」を得るために、他の欲求はバケツにバシャっと入れてしまいます。

では、一番欲しかった「つながり」は得られたのでしょうか。
他の欲求を諦めたことに見合う良い人間関係を結ぶことができているでしょうか?

現状の自分を見つめて、どうでしょう?
両親との関係、友人との関係、パートナーとの関係は良好でしょうか。
どちらかというと対人関係に苦手意識があったり、そもそもそんなつながりはないということもあるかもしれません。
孤独感が拭えないといったことはありませんか?

あなたはつながりを得るために多くを犠牲にしてきたと思います。
他人の顔色を伺い、自分を押し殺して、作り笑いやお世辞を言って相手から気に入られようとしたり、努力して人の役に立てるようになったり、外見や能力を磨いて他人から認められようとしたり。
そうして抑圧のバケツの中身が溜まっていきます。

でも、その割には誰とも心がつながっていない気がしませんか?

抑圧のバケツに溜めていたツケは払わないといけません。
誰ともつながれないのは自分の努力が足りないからだとか、自分の持って生まれた容姿や性格が悪いとか、両親や社会が悪いとか、抑圧のバケツを使った反動による苦しみだけが残ります。
引きこもって誰とも会わないようにしている人もいると思います。
犠牲にしてきた本物の欲求よりも、辛い経験になっているかもしれません。

こんなに辛い思いをしたのに「つながり」が得られていない。
報われません。

さて、、あなたは気づいていたでしょうか?

あなたの最後の砦であるそのつながりのコップが、偽物であることに。

全てを犠牲にして守ってきた大切なつながりのコップが、偽物のコップに変わってしまっていることに。

その偽物のコップを大切に守ってきたのがあなたです。
そして大切な本物のコップの方は、あなたはとっくに捨ててしまっています。

その捨ててしまった本物のコップは今、”抑圧のバケツ”と呼ばれています。

つながりとは?

なぜ、つながりのコップがなんの関係もなさそうな、よりにもよって抑圧のバケツになってしまっているのでしょうか?
承認欲求とか生理的欲求を抑圧のバケツに入れてしまうことを、「自分を変えた」と言っていたわけではありません。
「自分を変えた」とは、つながりのコップを抑圧のバケツに変えてしまったことを指します。
これが不幸の始まりです。

そもそも「つながり」とは何でしょうか?
単なる人間関係?
それとも愛でしょうか?

この曖昧な概念に思える「つながり」とその獲得方法を、VALUEサイクルを使って説明します。

本幸福論におけるつながりのWell-beingは、VALUEサイクルの感情→価値観を他人と「並走」することで得られます。
自分の感じたありのままの感情を共感してもらい、価値観を共有できた時、人は人とつながることができます。

例えば、両親とのつながりを考えてみましょう。
子どもが辛い思いをしていた時、「お腹が空いて悲しかったんだね」、「転んで痛かったんだね」、「ひとりぼっちで寂しかったね」と、子どもの感情を両親が言語化し、同じ目線で共感してくれたならば、両親とつながりが生まれます。

幼い子どもは自分の感情や欲求をちゃんと認知しておらず、適切に表現することもできません。
そこで両親がその感情や欲求がどういうものかを、言語や表情などで子どもに伝えます。
「これは悲しい・痛い・寂しいって気持ちだよ」と。
子どものVALUEサイクルを親が「並走」してあげることで、子どもに感情や欲求を認知させます。

なぜ「並走」という表現なのかというと、感情だけではなく、価値観まで含めて一緒に回るからです。
「悲しかったよね、だからこうしようね」と子どもの感情に共感し、子ども自身に感情を認知させ、最後に親の価値観を共有するというステップなので「並走」です。
こうして親に並走してもらいながら価値観を身につけ、子どもは自立に進みます。

一方、つながりが生まれない接し方はどのようなものでしょうか?

子どもは無力です、うまくいかないことがたくさんあります。
お腹が空いたら悲しいです。
でも、「お腹が空いたくらいで泣くんじゃない」と言われたら?

転んで擦りむいたら痛いです。
でも、「転んだくらいでめそめそするな」と言われたら?

ひとりぼっちは寂しいです。
でも、「ひとりぼっちが寂しいなんて弱い子だ」と言われたら?

それらの辛い気持ちを認めてもらえなかったら?
両親から怖い顔や無表情でそんなふうに言われたら?

そんな誰が聞いてもひどい言葉を投げかけるケースならわかりやすいですが、子どもの感情に共感しないで親の価値観だけを伝えてしまうことはよくあることです。
「遊んでばかりいないで勉強しなさい」とか、「言うこと聞きなさい」とか、「そのくらい我慢しなさい」とかです。
子どもを愛するがゆえにそうしてしまうのもよくわかります。

これも躾だと思われるかもしれませんが、子どもの感情に共感しないのは単なる価値観の押し付けです。
これは「並走」ではなく「よそ見運転の巻き込み事故」です。
親という「成功者」が自分の抑圧のバケツの中身を解消することを目的に、無自覚に子どもを巻き込んでいる状態です。

感情に共感しない接し方で、つながりは生まれません。

しかし、親が子どもにどう接したとしても、子どもの方は親に対して無償の愛を持って接します。
自分の感情を親が認めてくれないのであれば、感情なんて平気で捨てます。
感情を押し殺して両親の言いつけを守ることが、両親とのつながりを得る方法だと思ってしまいます。
その捨てた感情こそが、愛する親とつながる唯一の方法だと知りません。

あろうことか最も大切な感情を売り渡して、両親からのつながりを得ようとしてしまいます。
自分の感情を押し殺して得られるのは、本当のつながりではありません。
偽物のつながりです。
自分の本当の感情を押し殺したとき、本物のつながりのコップが抑圧のバケツと名前を変え、無意識にしまわれることになります。

自分のありのままの感情を表現することは、親とのつながりを失うことだと誤解しているため決してできません。
そして、この直視できない抑圧のバケツから多くの偽物の欲求が生まれ、人生を狂わせることになるのです。

子どもを愛している親でさえ「つながり」がうまく構築できないのだから、子どもを愛していない親では絶対につながりは生まれません。

虐待されている子どもがいたとします。
殴られて、貶されて、辛い、悲しい。
その気持ちに共感してもらえれば、つながりができる。
でも、一番つながりたい目の前の親が、その辛さの原因になっている。

「痛いよ」
「悲しいよ」

そう訴えても、その気持ちに共感してくれない。
ますます虐待が酷くなっていきます。
子どもを愛していない親は、子どもを虐待することで束の間の「幸せ」を感じます。
偽物の欲求が解消されるからです。
子どもにとって、本当に本当に地獄だと思います。

そのうち、子どもは殴られてもなんとも思わない、別に辛くないと自分に嘘をつき始めます。
辛い気持ちでは親とつながれないのなら、殴られて嬉しいという気持ちを持って親とつながろうとさえします。
叩かれるのは愛されているからだと自分に言い聞かせ、必死に希望を生み出し欲求のコップを維持しようと試みます。

ですが、その努力も報われません。
親から「気味の悪い子」、「おかしな子」と拒絶され、つながれません。
そして、子どもは最後の手段として、つながりの欲求を解消することを諦め、そのコップ自体を抑圧のバケツに変えて無意識に放り投げます。

最も残酷な例として暴力を伴う虐待を挙げましたが、精神的な虐待でも同様ですし、虐待まで行かなくても、日常的な両親との関係の中で、自分の感情を押し殺してしまうことはよくあることです。

ほぼ全ての親が子どもの幸せを願います。
その手段として、社会で尊重される人間になってほしいと思うものです。
能力があって行動ができ、環境に恵まれる人間です。

そうなるためには我慢が必要になります。

頑張って、努力して、人よりも優れた能力を持って、競争に勝ち抜くことを望みます。
子どもがそんな親の望みを叶える行動を取ったら喜びます。
そんなふうにして、一番大切な感情を蔑ろにしてしまいます。

良かれと思って、愛しているから、人は悪気なく悪を働きます。
それは無知が招いた悪です。

偽物のつながり

「つながり」とは感情→価値観を他人と並走することです。
例え両親でも、子どもの感情を認めなければ「つながり」は生まれません。

子どもは感情でつながる代わりに、両親の言いつけを守ること、つまり「行動」で示すことがつながりを得る方法だと思ってしまいます。
本当のつながりは感情→価値観を並走することですが、偽物のつながりは行動→経験を並走することです。
この偽物のつながりは、子どもとして相応しい行動と結果を出し続けるという条件でしか維持できません。

自分の感情を抑圧して親の期待通りに行動してくれる子どもは、親からすれば良い子に映ります。
なので、この関係が是正されることはありません。
子ども自身も両親に心を開いてはいないことに気がつけません。
これが普通の親子関係だと思っています。
当事者だけではなく、誰から見てもこの関係は問題なく見えます。

しかし、家庭ではうまくいっているように見えても、家庭以外の社会に出た時に問題が発生します。
感情でつながることを知らないと、両親との偽物のつながりと同じように、行動→経験を並走することで他人とつながろうとしてしまいます。

頼まれごとを断れない、相手の顔色を伺ってしまう。
これは感情ではなく行動でしか認められないと思っているからです。

他人より劣る自分を責めてしまう、もしくは自分より劣る他人を責めてしまう。
これは感情ではなく経験でしか認められないと思っているからです。

いじめられているのに我慢する、時にいじめっ子に媚びへつらってしまう。
これは感情を出すことが認められないと思っているからです。

同時に、他人の気持ちにも鈍感になります。
悲しんでいる人や辛い思いを素直に表現できる人を、弱い人間だと思ってしまいます。
相手の気持ちに寄り添うよりも先に、「こうすればいいんだよ」というアドバイスが口から出ます。

プラス思考になって「捉え方」を変えればいいんだよ。
資格をとって「能力」を身につければいいんだよ。
転職して「環境」を変えればいいんだよ。

頑なに「感情」に寄り添うことを拒みます。

一方で、肩書きや表面的な言動しか見ないので、他人からの悪意のある「アドバイス」に簡単に騙されてしまいます。

他人の心の痛みを理解できるはずなのに理解しようとしません。
辛い思いをしている他人を見て「なんでそんなことも我慢できないのか」と内心思ってしまいます。
自分は我慢しているのだから、他人も我慢するべきである。
我慢しないと命より大切な「つながり」がなくなってしまう。
それなのに、どうしてあいつは我慢できないんだ。
我慢できないのは悪だ。
そう思ってしまいます。

当然ですが、人間関係がうまくいきません。

そして、自分の本当の感情をわかってくれようとする他人からの優しさに気がつけません。
むしろそういった優しさを煩わしくさえ感じます。
皮肉にも、その優しさを最も持っているのは往々にして両親です。
「私は大丈夫」と言って両親を巻き込めません。
最悪の場合、両親に「どうして巻き込んでくれなかったんだ」と思わせる結果になります。

いつまでたっても本当のつながりが結べません。
偽物のつながりを維持するためだけに行動し、結果を追い求め続けます。
その間ずっと「なんか違う」と思ったまま、孤独なままです。

あなたの感情を大切にしてくれる人との本物のつながりよりも、行動や経験を認めてくれる人との偽物のつながりを大切にしてしまいます。

それは不幸になりやすい環境に身を置くことが多くなるということです。
環境が不幸になる原因の一つですが、行動→経験でしか他人とつながれないような、不幸になりやすい環境に身を置くことを、知らず知らずのうちに選択してしまいます。
感情→価値観でつながれる環境を嫌悪してしまいます。

良い人間関係を構築できないので、人間関係のトラブルで職を転々としたり、職を失ってしまうこともあります。
偽物の欲求から生まれる不幸な感情も、他人と並走すればつながりになります。
偽物の感情でつながれるような迷惑行為をする集団に引き寄せられてしまいます。
いきすぎると、ポリコレ、反ワクチン、自粛警察など、抑圧のバケツから生まれた偽物の感情を共感しあい、弱いものいじめやバッシングという「行動」を認めてもらうことで生まれる偽物のつながりが手放せなくなります。

最初は他人から巻き込まれた被害者だったのに、行動→経験でしか人とつながれない環境を自ら生み出すようにもなり、他人を不幸に巻き込む加害者側になっていきます。

自分も不幸から脱出できず、他人も不幸に迷いこませる。
全世界、国、地域、会社、家庭単位で、こんなことが起きています。
どう考えても異様な世界ではないでしょうか?

不幸の原因まとめ

ここで不幸になる原因をまとめたいと思います。

過去、何らかの辛い経験をした際、辛い感情を抑圧し、つながりのコップを抑圧のバケツに変え無意識にしまってしまったこと。

その抑圧のバケツを直視できないため、偽物の欲求のコップに中身を注いだり、被害妄想的な偽物の不幸をでっち上げてしまうこと。

でっち上げの偽物の欲求を解消しようとする中で、無力感や焦燥感など、偽物の欲求から生じる割に合わない余計な不幸を感じることが多くなること。

感情ではなく行動で人とつながろうとしてしまい、人間関係がうまくいかず、行動や結果でしか認められない不幸になりやすい環境に身を置くことが増えること。

頑張って運よく「成功者」になっても、抑圧のバケツを生み出しやすい環境を作ってしまうことで、被害者の立場から間接的な加害者の立場になってしまい、不幸の連鎖を産んでしまうこと。

それらの環境や経験による不幸から歪んだ価値観ができ、VALUEサイクルが汚染された状態で回ってますます不幸になっていくこと。

いかがでしょうか、不幸の原因が理解できたでしょうか?
不幸はとても複雑です。

ありのままの自分を認めるとは?

抑圧のバケツは元々はつながりの欲求のコップです。
誰かがあなたの本当の気持ちをわかってくれて、「辛かったね、悲しかったね」と共感してくれれば、抑圧のバケツの中身が減少し、本物のつながりのWBのコップが満たされます。

しかし、不幸という迷路で迷い続けたあなたには、もうそんなことを言ってくれる人が周りからいなくなってしまったのではないでしょうか。

過去には、あなたに優しくしてくれた人もいたでしょう。
あなたの隠している感情に気がつき、否定することなく共感し、つながりを作ろうとしてくれた人がいたと思います。
あなたはそうされて嬉しかったはずなのに、嬉しいという感情すら感じてはいけないことだと幸せを全部我慢してしまった。
あなたに差し伸べられた優しさを全て自分で断ち切って、感情を押し殺し孤独になる道を生きてきた。

自分の本当の気持ちを誰かにわかってもらえた人は幸運です。
行動→経験でしか人とつながれないような不幸になりやすい環境下では、そんな優しい人は滅多にいません。
こうなれば、自分で自分の感情を認めることで、つながりのWBのコップを満たすしかありません。

世間では、「ありのままの自分を認めることが大切」とよく言われます。
持っているものや肩書きであるHavingや、自分の行いであるDoingではなく、存在自体であるBeingを認めることが大切ということですが、これは感情を抑圧している人には伝わりにくいメッセージです。

「ありのままの存在・Beingを認める」なんて曖昧な言葉ではなく、もっと具体的で簡単にわかる言葉があります。

Having(経験)でもなく、
Doing(行動)でもなく、
Being(存在)でもなく、

Feeling(感情)を認めることです。

間違った「ありのまま論」の多くが、行動・Doingがうまくいかなくても、経験・Havingが貧相でも、そんな自分を認めることが自己受容への道だと説明しています。
その説明では、クヨクヨするな、気にするな、諦めろという感情・Feelingを変えろという解釈になってしまいます。
感情・Feelingを抑圧している人に、存在・Beingが大切だと言っても伝わりません。
はっきりと、感情・Feelingを認めることが大切と伝えないといけません。

さて、今までなるべく論理的に説明してきた理由に気づかれたでしょうか。

不幸から脱出するには感情を認めることが大切ですが、不幸の迷路で迷っている人たちは感情を認めることができないので、感情に訴えても効果が薄いです。
まずは論理的に不幸を理解する必要があり、その後で感情に訴えるアプローチが効果を出すようになります。

少し前から本幸福論のシナリオに少し感情を込め始めていました。
今までロジカルパンチ中心で攻めてきましたが、これからは論理と感情のダブルパンチでいきます。

置き去りにした本当の自分に会いに行く

感情・Feelingを認めることで、不幸という迷路のスタート地点に置き去りにした本当の自分に会いに行けます。

あなたの今までの人生で、「逆らえなかった人」のことを思い出してください。
ノートに0歳から今の年齢まで縦に数字を書き、年齢ごとに逆らえなかった人を漏れなく書いていってください。
子どもの頃は主に両親や年上の兄弟、社会に出れば学校や職場の中で逆らえない相手がいたと思います。
結婚し家庭を持って、その中に逆らえない相手ができてしまうこともあります。

漏れなく逆らえなかった人をピックアップしたら、今度はその人とのエピソードを思い出してください。
あなたがその人にされて嫌だったことは何ですか?
自分の気持ちを押し殺した経験を思い出して、ノートに書いてみてください。

辛かった記憶や悲しかった記憶が溢れてきたら、その気持ちを抑圧せずに表現してください。
抑圧したくなってしまったら、「辛かった、悲しかった、悔しかった」と演技でも良いので実際に言葉に出してみてください。
それが呼び水になります。
辛い感情は我慢しないでいいんです。
辛い気持ちも大事なあなたの感情です。

少し落ち着いたら、なぜその人はあなたにそんなことをしたのか想像してみてください。
その人も辛い経験から抑圧のバケツを持ち、偽物の欲求を生み出してあなたのことを巻き込んでいたのではないでしょうか?

そして、今度はあなたが巻き込んでしまった人のことを考えてみてください。
あなたに逆らってこない相手をいじめたり、無理難題を求めたり、傷つけたと思います。
どうしてあなたはそんなことをしてしまったのでしょうか?
それはあなたの本当の気持ちだったのでしょうか?
あなたが傷つけた相手は、今度は別の誰かを傷つけるでしょう。
不幸の連鎖が生まれます。

他人を巻き込めなかったならば、自分を傷つけてしまったと思います。
どうしてあなたはそんなことをしてしまったのでしょうか?
今のあなたなら、自分の本当の気持ちがわかります。

あなたの辛い気持ちをわかってほしかった人、寄り添ってほしかった人も書いてみてください。
誰にその気持ちを分かってほしかったですか?
辛い気持ちを言い出せず、我慢してしまったこともあると思います。
分かってほしかった、我慢して辛かった、その悲しい気持ちも大事なあなたの感情です。
全部ひっくるめて自分の感情をノートにぶつけてください。

自分の感情・Feelingを認めることで、本当の自分とのつながりを得られます。
不幸という迷路のスタート地点で泣いている本当の自分がどれだけ辛かったか、それを一番よく理解しているのは、現実社会で誰よりも頑張ってきた偽物の自分であるあなたです。
そして、本当の自分を守るため偽物の自分にまでなって長い間必死で頑張ってきた大変さを一番よく理解しているのは、本当の自分であるあなたです。
そんな自分に「辛かったね、悲しかったね、頑張ったんだよね」と寄り添ってあげてください。

ここで説明した方法は、自分一人では難しいこともあると思います。
プロに頼ってメンタルクリニックのお医者さんの力を借りるのが良いですが、それも抵抗があるということであれば、まずはフィクションの世界とつながるのも良いと思います。

フィクションの世界では、「感情」と「行動」のどちらを選ぶか?というテーマで作られた作品がいくらでもあります。
感情を押し殺し、掟や命令に従って行動することを良しとする世界観で、主人公は感情→価値観を仲間と並走してハッピーエンドというパターンです。
私は多感な時期に大人気漫画の『NARUTO』を読んでいましたが、今思えばNARUTOのストーリーは「不幸から脱出する方法」そのものでした。

フィクションの世界に限らず、優れたクリエイターの生み出す歌や物語、芸術に触れることで、つながりのWBを得ることができます。
自分では表現できない感情を、それらの作品が代わりに表現してくれるからです。
小さな子どもに感情や欲求を認知させる両親と同じように、それらの作品があなたの感情→価値観を並走してくれます。

不幸からの脱出 あなたの隠された力

不幸という迷路のスタート地点に戻って本当の自分と合流し、つながりのWBを得られたら、次は不幸からの脱出をはかります。
不幸の原因は「欲求」と「環境」です。
自分の欲求を認知しても、身の回りの環境を変えなければ根本的な解決にはなりません。

しかし、あなたは不安ではないでしょうか?
果たして本当に自分は不幸から脱出できるのか?
今までの自分は偽物で、何一つ自分の意思でやったことはなく、偽物の欲求に踊らされて生きてきただけで、空っぽだった。
他人と比べて自分は、なんてちっぽけな存在なんだ。
どうせ自分には無理、死ぬまで不幸から脱出するなんてできない。

そんなふうに考えてしまうのは、まだ、自分に無理難題を求めているせいかもしれません。
それは偽物の欲求です。

ここで、漫画やアニメの主人公ならどのようにしてピンチから「脱出」するか考えてみましょう。
昔なら「努力」なんですが、最近は流行りません。
なんらかの「隠された力」が勝手に発動し、圧倒的な力で敵を倒すというのが王道ではないでしょうか。

私の好きなNARUTOであれば九尾の狐です。
某宇宙戦争映画であれば暗黒面の力です。
それはフィクションだし、そうなったら良いなと誰もが思うから面白いのだと思います。

でも。

あなたにもあります。

隠された力。

それがこれから不幸から脱出する時に最大限使用する力であり、あなたが偽物の自分でいた間に身につけた大きな武器でもあります。
偽物の自分で生きていた期間は全く無駄ではありません、むしろそれがなかったら脱出なんてできません。

あなたの「隠された力」は大きく3つあります。
その3つの力で不幸から脱出を図ります。
その中の一つは九尾の狐やフォースの暗黒面のようにダークサイド寄りの力です。

あなたの隠された力、一つ目は「抑圧のバケツ」です。

あなたの隠された力 1つ目

抑圧のバケツを認知すると、抑圧のバケツのサイズを大きくすることができるようになります。
欲求のコップは希望で大きくなり、不安で小さくなるという話をしました。
これは抑圧のバケツも同様です。
自分の我慢を認知していない状態というのはそれだけで不安なので、今まで抑圧のバケツのサイズが小さくなっていました。
認知することで、バケツのサイズが勝手に大きくなります。

今まであなたを苦しめてきた抑圧のバケツが、あなたの大きな味方になる時がきました。
過去の敵が味方になるのは漫画やアニメの王道で熱い展開です。
また、主人公がダークサイド寄りの特別な力を持っているのはよくあることです。
最終的にはダークサイドな力も使いこなせるようになってハッピーエンドです。
あなたにも特別な力があったということです、少し童心に帰って喜んでみませんか?

これはあなたが自立して本当の意味で大人になった瞬間でもあります。

ありのままの感情を認めることが大切と言っても、子育てや仕事で自分の感情を優先するわけにはいきません。
子どもの安全や将来に責任を負う親や、行動の対価に賃金を得る社会人は、自分の「感情」よりも責任を果たす「行動」を優先するのは当然のことです。
ありのままの感情を優先し、わがまま放題して良いと考えるのは大きな間違いです。

社会で生きる上で絶対に必要な「我慢」が、抑圧のバケツを認知していると格段に楽になります。

皮肉ではなく、あなたは我慢が誰よりも得意です。
「抑圧のバケツ」を認知できていない時でさえ、中身を溜めておける容量は人の平均を大きく上回っていたことでしょう。
その抑圧のバケツを認知した今、さらにバケツの容量が増えています。
まずはそのダークサイドの力を自分の意思で使いこなせるようになりましょう。

不幸から脱出する道すがら、あなたにはたくさんの辛いことが起きます。
でも、その度に「抑圧のバケツ」に放り込んでしまいましょう。

自分の我慢を自覚しながら行動できるあなたは、誰よりも苦しまずに人や社会の役に立つことができ、人から認められます。
マズローでいうところの承認欲求、本幸福論でいうところの尊重のWBが得られます。
要は、実際に仕事で成果を出したり、頑張っているように見えることで、周りから認められ、今いる環境で権力や待遇を得られます。
行動→経験でつながれる「不幸を生みやすい環境」において、高いアドバンテージを持つということです。

でも注意しないといけません、フィクションと同様、ダークサイド寄りの力の使いすぎはリスクを伴います。

私は「圧倒的な力」を手に入れて調子に乗っていたのでしょう。
このダークサイドの力を使いすぎて、日中はへっちゃらな顔をしていましたが、夜寝ている時に歯軋りとなって現れ、大切な奥歯が割れてしまい、抜歯することになりました。
奥歯の大切さは失って初めて気づく、かなり悲しかったです。

でも、力を手に入れると使いたくなってしまうので、あなたも力を使いすぎて痛い目を見ると思います。
そんな痛い経験をしながら、少しずつどの程度までなら大丈夫か認知し使いこなせるようになりましょう。
我慢のしすぎで歯が割れてしまったのも、今では笑い話です。

あなたの隠された力 2つ目

抑圧のバケツが隠された力であるというのは意外だったでしょうか。
自分では自分の力を認知していないものです。

二つ目の隠された力も、すでにあなたは知らず知らずのうちに獲得済みかもしれません。
その力は今から遡ること数分前に発現した可能性が高いです。

あなたの「隠された力」、二つ目は「他人の偽物の欲求を認知できる目」です。

自分の中にある抑圧のバケツを認知したあなたは、自分だけではなく他人の偽物の欲求もある程度は認知できるようになります。
要するに、本心なのか嘘なのか、ある程度わかるということです。
言動だけで人を判断しなくなると言っても良いです。

かつては理解できず、異様に感じた他人の言動を「ダークサイドの力を感じる」みたいに気楽に受け止めることが増えてきます。
理解できなかった他人の言動は、本心ではなく偽物の欲求であることがわかるからです。
中学二年生くらいの頃、漫画やアニメの登場人物が持つ特殊な目の力に憧れたのは私だけでしょうか。

流石にその人の過去にどんな辛いことがあって抑圧のバケツを持つようになったのか、どんな事情があるのかは思いやりの心で想像するしかありませんが、自分と同じように抑圧のバケツがあることはわかります。

理解できない言動をする人は、大抵が偽物の欲求に踊らされているだけです。
不幸という迷路で迷っているだけであり、偽物の自分で生きているだけです。
抑圧のバケツを認知した今、その辛さがわかるようになっています。
なぜなら、過去の自分もそうだったからです。

相手の辛さがわかってしまうということは、相手の心の中にある感情→価値観を勝手に並走してしまったということです。
つまり、つながりができています。
このつながりは、相手が隠している本当の気持ちとのつながりです。
相手が見せつけてくる偽物の気持ちや言動とのつながりではありません。

場合によっては、相手以上に相手のことを理解できるようになります。

一体何が起きたのかというと、これは「捉え方」が変わったということです。
抑圧のバケツと偽物の欲求を認知することは、本幸福論においては自己受容した状態とも自己実現した状態とも言えますが、そうなるとVALUEサイクルの「捉え方」に変化が起きます。

人の弱さに感情移入できるようになり、そこからの成長を美しく感じることができます。
人の勇気やより良く生きようとする想いを、心から美しいと思うようになります。
そんなふうに世界を見る目も変わります。

また、今までの人生であなたに優しくしてくれた人のことを思い出すと思います。
その時は気がつかなかったけれど、抑圧のバケツを認知した今のあなたなら他人の優しさに気がつけます。
優しさに気づけたということは、あなたも他人に優しくすることができるということでもあります。

つながりのWBは、感情→価値観を並走することで得られます。
楽しい時、嬉しい時に並走することは誰でもできますが、人が悲しい時、辛い時にその気持ちに寄り添い共に歩むことは、過去に辛い経験をしたあなたにしかできません。
不幸を経験したことがない人に、他人の不幸に心から共感し並走することはできません。
あなたの我慢は決して無駄ではなかったということです。

あなたは他人の偽物の欲求を認知できる目を獲得しています。
その目は、相手の本当の感情を思いやるために使いましょう。
その目で、今まで気がつかなかった多くの幸せを見つけましょう。

あなたの隠された力 3つ目

あなたの「隠された力」、1つ目と2つ目は誰でも共通の力ですが、3つ目はあなた固有の力になります。

抑圧のバケツは、叶えられない欠乏欲求のエネルギーを偽物の欲求という別の形にして無駄にしない仕組みでもありました。
そうやってできた偽物の欲求を解消しようとする中で、なんらかの「能力」を身につけられます。
あなたは遠回りしてきた分、知らず知らずのうちに多くの能力を得てきたはずです。
それらの能力は、あなたにとってはあって当たり前に思えることかもしれませんが、稀有な能力です。

それは単純な頭の良さだったり、未来を予測する力だったり、演技力、着想力、などなど、人それぞれです。
抑圧のバケツを認知したあなたは、それら偽物の欲求を解消するために存在していた能力を、今は別のことに使う余地ができています。

本来であれば、そんな能力は日常生活ではオーバースペックです。
ですが、裏を返せば日常を変えることのできるほどの力でもあります。
不幸から脱出する際の助けになることはもちろんのこと、今後の人生で幸せを生む力でもあり、人類を進歩させる力にもなります。
今の世の中ではまだ認められなくても、未来の人類から必要とされるその力を信じて生きてください。

まとめ

今まで説明した「不幸から脱出する方法」を、VALUEサイクルにまとめると、このようになります。

まず、抑圧のバケツを認知することで自己受容状態、自己実現状態になり、その後、3つの力を使って環境を変えるアプローチで不幸からの脱出を図ります。
不幸の原因は欲求と環境です。
環境だけ変えても不幸からは脱出できません。
欲求だけ認知しても、環境が悪ければ辛いままです。

このアプローチは、自然と幸せな状態Well-beingが高まるという利点もあります。
詳しくは次回の『もっと幸せになる方法』で説明しますが、「認知」はつながりのWell-being、「能力」は自信のWell-being、「環境」は尊重のWell-being、「捉え方」は自由のWell-beingと関係します。

加えてVALUEサイクルがスムーズに回るようになり、あなたの人生が好転していきます。

環境を変える方法は2つの選択肢があります。
自分が今いる環境から離れるという選択と、自分の影響力で今いる環境に変化を起こすという選択です。
人によっては、今いる環境から離れることが不幸から脱出する最も早い方法かもしれません。

でも、今いる環境を去る前に、少し考えてみてください。

あなたは偽物の欲求を見抜く目を手に入れています。
もう他人を言動だけで判断しなくなっているはずです。
あなたが不幸なのは、目の前の環境のせいでしょうか?
目の前の環境を不幸だと思っていれば、本当の不幸の原因を見ないで済むので、不幸をでっち上げているということはなかったでしょうか?
こればかりは自分の心に聞いてみるしかありません。

また、あなたは自分の意思で使える”認知済み”の抑圧のバケツを持っているので、打たれ強くもなっています。
さらに、日常生活ではオーバースペックな、あなた固有の能力も持っています。

今いる環境が良い環境でなければないほど、あなたと同じように不幸から脱出しようともがいている人が多くいるのではないでしょうか。
あなたには相手の苦しみがわかります。
だって自分が同じように苦しんできたのですから。
相手の本当の気持ちがわかり、感情に寄り添うことで本物のつながりが生まれることも知っています。

今までは、目の前の環境に翻弄されるしかなかったあなたが、その環境を変えられるほどの力を身につけた可能性があります。
今の環境から離れるのではなく、試しにあなたの力で環境を変えてみませんか?

人間は社会の中でしか生きられません。
社会で生きていくには、抑圧のバケツを空にすることなんて当然できません。
我慢させられることも多いです。
完全に「自由」な状態になることなんて不可能です。
我慢しないといけないことなんて、いくらでもあります。

我慢しなくて済むように、職場やしがらみから逃れて自由になろうという試みも良いとは思います。
ですが、我慢させられるのではなく、自分の選択で我慢することができるのが真の自由なのだと思います。
自分の意思は100%自分の自由にできる領域です。

抑圧のバケツに気がつけないと、人生は我慢させられることばかりになります。
ですが、抑圧のバケツに気がつけば、自分の意思で抑圧のバケツにバシャっと入れることができます。
我慢させられるのではなく、自分の意思で我慢できる。
これは大きな違いです。
自分の人生をコントロールできる状態こそ、本当の自由だと思います。

人間関係をリセットしたいとか、会社を辞めて自由になりたいと悩んだことは誰でもあると思います。
でもそれは、抑圧を認めないから他者に自由を奪われていると感じてしまうのであって、抑圧を認め自分の意思でバケツに放り込む選択をすれば、だいぶ楽になります。

人生をわがまま放題に生きることなんてできません。
自由に生きると称して環境を変え、今あるつながりを絶ったところで、抑圧のバケツを認知していない状態では、いつまで経っても自由を実感することなんてできません。

どんなに環境を変えても、不幸をでっち上げ続けます。
まずは抑圧を認め、我慢させられるのではなく、自分の意思でほどほどに我慢することを選べば良いんです。
抑圧のバケツを空にしようと思わず、溢れない程度に心の中にあるということを認識していればいいんです。
完璧なんて不可能です。
落とし所を見つけましょう。
それだけでかなり気持ちが軽くなります。

では、なんのために我慢するのか?

それは、人とつながるためです。

人は感情があれば誰とでもつながれます。
言動や経験が優れた人だけではなく、泣くことしかできない無力な赤ちゃんや、失意のどん底にいる人ともつながれます。
人間だけではなく、動物とも、フィクションの世界の住民とも、つながれます。
現代に生きる人だけではなく、過去と未来に時間を超えてつながることも可能です。

幸せも不幸も、人とつながるための大切な感情です。

感情を抑圧していると、苦しんでいる人を前にして余計な一言を言ってしまいます。
「こうすればいいだけでしょ」
「私の方が辛かったよ」
「そのくらい我慢しなよ」と。

そうではなく、ただ共感すればよかったんだと今のあなたは知っています。
「辛かったね」
「悲しかったね」
「大変だったね」

そして、相手の気持ちが偽物だった時だけ、反論すればいいことも知っています。
「大丈夫って言うけど、無理してるよね、私はあなたの味方だからね」
「自分なんかって自分を責めるけど、我慢ばかりで辛かったね、あなたは悪くないよ」
「子どもに厳しくするのは、報われなくて悔しかったからだよね、あなたが頑張ってきたこと私は知ってるよ」

他人の抑圧のバケツを認知できるようになれば、世界が違って見えます。
あなたにはこの世界の不幸の連鎖を、つながりの連鎖に変える力があります。
だから、今いる環境から離れるのではなく、あなたの力で環境を変えることを、まずは始めてみませんか?
そうやって、この世の中を幸せが生まれやすい環境に変えていきましょう。

それであなたは生まれ変われます。
それであなたはつながりができます。
それであなたは不幸から脱出できます。
それでみんなで、幸せになれます。

最後に

もし、全人類が抑圧のバケツを認知したらどうなるでしょうか。
自分や他人に無理難題を求めることがなくなり、無闇に人を傷つけることもなくなります。
思いやりの心を持って接することができるようになり、自分にも他人にも優しい世界になるのではないでしょうか。

ここから少し私の過去の話をさせてください。

私は、自分の感情・Feelingを認め、抑圧のバケツを認知できたとき、「今までの人生は何だったのか」と思いました。
何の疑いもなく、自分の意思で生きてきたと思っていましたが、それは大きな誤りで、自分は偽物の欲求に操られていた存在だったと気づいたためです。

自分の価値観も、経験も、能力も、捉え方も、全て偽物だったと思いました。
自分は空っぽだと思いました。

私が悲観的になってしまったような印象を持たれると思いますが、むしろ逆で、前向きな気持ちでそう思いました。
生きづらさの原因がわかって「心が軽くなった」と言えばわかっていただけるでしょうか。
生まれ変わった気持ちになりました。

私は学生時代、ずっと孤独でした。
感情→価値観でつながることを知らず、優しくしてくれた多くの人たちを傷つけたと思います。
常に劣等感を抱え、自分で自分を責めるでっち上げの不幸に苦しんでいました。
抑圧のバケツの中身を解消するため、大切な妹をいじめてしまいました。

社会人になり、行動→経験で認められる環境になったことで、人生がとても楽になりました。
愚かにも不幸から脱出できたと思いました。
会社は感情→価値観でつながる必要がなく、無意識で我慢できてしまう私は職場で重宝されました。
嫌な仕事でも感情を抑圧しているのでそうは見えず、どんどん仕事が増えていきましたが、長時間労働で捌いていきました。

一方で、プライベートでは悲惨な状況でした。
感情でつながれないので、人間関係がうまくいきません。
恋人ができても、知らず知らずのうちに自分と同じように我慢を求めてしまいます。
婚約破棄をしたことがあります。

そしてだんだんと生活が荒れてきます。
お酒の量が増え、気晴らしにお金を使い、ダラダラと時間も浪費する生活です。
お金持ちになれば現状を変えられると思って始めた投資で、破産寸前まで損を出したこともあります。

仕事も段々と辛くなってきます。
新人時代は自分一人が我慢すれば評価されますが、組織を任されればそうはいきません。
頼ってくれる同僚に理不尽にキレてしまったり、部下にも我慢を強いて精神的に追い込み休職させてしまったこともあります。
完全に不幸に巻き込む加害者側になっていました。

結婚もできず気づけば30代になり、がむしゃらに働いてきた対価も残せず、職場で求められる我慢は年々増えていく未来が待っている。
社会人になって、不幸から脱出できたと思っていたのは誤りで、人より少しばかり得意な我慢によって、僅かな期間「成功者」になれただけだったことに気づきました。
そして、他人を不幸に巻き込むような、子どもの頃になりたくなかった大人になっていました。

それに気づくと、我慢して頑張ってきた社会人生活の10年が無意味に思えてきて、20年間孤独だったという学生時代の劣等感と合わせて、自分の人生はなんだったんだという思いが湧き上がってきました。
偽物の欲求から生まれた虚像のWBが崩れ、大きな不幸を感じました。

ありのままの自分の存在・beingを認める?
そんなことをしても幸せになんかならない!
無意味な人生を認めて、ずっとしてきた我慢をこれからも続けろってこと?
辛い未来しか待っていないのに、そんなの生きる意味があるの?

苦しめば苦しむほど、私の無意識の中にある抑圧のバケツが大量の偽物の欲求のコップを生み出し、さらに苦しみが増えていきます。
不幸の迷路で迷い続けます。

私は小さい頃から空想の世界に逃げることが多かったです。
幼少期は病気や怪我で横になっていた記憶と、悪夢にうなされる記憶がほとんどです。
42度近い熱を出したこともあったそうで、心配をかけて両親の寿命を縮めたと思います。

ベッドで安静にしているしかなかった私は、空想世界で偽物の欲求を解消していました。
空想の世界は自分の思い通りの世界です、なんでも生み出せます。
私の抑圧のバケツから生まれた偽物の欲求は、この生み出す「能力」を知らず知らずのうちに高めてくれていました。

そしてついに、30年以上使い続けたその「能力」が不幸という迷路で花開き、自分の中の幸せと不幸の構図化に成功、本幸福論が生まれました。
遠回りしすぎた感はありますが、少なくとも私は、空想の世界で生み出したVALUEサイクルや欲求のコップ理論によって自分の不幸の原因を突き止め、ギリギリのところで不幸から脱出できました。

脱出した後に思ったことは、不幸は全て自分の「せい」だったということです。
偽物の自分でいた期間にも当然幸せはありました。
ですが、その幸せは自分が頑張った「おかげ」ではなく、家族含めた周りの環境の「おかげ」だったということです。
私の周りの環境は、いつも幸せを用意してくれていたのに、私は無知による恐れから、不幸になる道ばかり選択していました。
私は恥ずかしながら、勝手に不幸になって、勝手に不幸から脱出した印象を持っています。

今思えば、初めて感情でつながることを教えてくれたのが小さな妹でした。
妹が私の持ち物を壊してしまった罪悪感でトイレで泣いていることがあり、それを見た時、これからは妹には絶対に悲しい思いをさせないと誓いました。
それ以来、妹をいじめることも無くなりました。

こんな自分が学生時代を通していじめられることもなく、自分で自分を責めるでっち上げの不幸だけで済んだのは、いかに周りの環境に恵まれていたかということだと思います。
自分の本当の感情を見抜き、つながりを結ぼうとしてくれた周りの人たちの優しさに、当時は気が付けませんでした。
自分が行動→経験でしか人を見ず、見落としてしまったつながりの糸がたくさんあるのだと思います。

社会人になってから一人暮らしをしていましたが、実家にはあまり帰りませんでした。
たまに帰省すると、働きすぎを心配してくれる両親を煩わしく思いました。
両親は感情→価値観で私に並走してくれていたのに、私は行動→経験が幸せになれる方法だと避けてしまいました。
婚約破棄をした時、両親は私の感情に並走してくれました。
それにどれだけ救われたか。
でも、感情でつながったから救われたということは、その時は気がつけませんでした。

不幸から脱出した時、今までの幸せは自分のおかげではなく家族や生きてきた環境のおかげだったと言いましたが、それだけではなく、過去の人類の進歩のおかげでもあるということに思い至りました。
マズローに限らず、過去の人類が積み重ねてきた進歩があるから今の世の中があります。
「成功者」は自らの不幸も顧みず、辛い思いをしながら人類を進歩させてきました。
その気持ちに共感すれば無視することができなくなります。
つながりのWBは時間を超えることができます。

であれば自分も、今まで生きてきた世界への恩返しと、未来の人類に向けた恩送りをしたくなりました。
誰もが本当の自分とつながっている世界、誰もがつながりあえる世界。
今生きている我々の世代で、抑圧のバケツを全人類の共通認識にすること。
それが私の「夢」になりました。

抑圧のバケツを認知していなかった今の時代をひどい世の中だったと未来で思えるよう、抑圧のバケツを人類の常識にしたいです。
全人類が抑圧のバケツを認知したら、世界は変わります。

本記事もそろそろ終わりです。
最後に私は自分の私的な感情と価値観を説明しました。
もし、共感し並走していただけたのであれば、私とあなたの間にはつながりが生まれています。
人生はうまくいくことばかりではありません。
これから辛いこと、苦しいこと、ひとりぼっちになることも必ずあります。

でもそんな時は思い出してください。
私はあなたとつながっています。
価値観→行動→経験→感情のサイクルを、未来に向かって一緒に走っていきましょう。

最後までご覧いただきまして、本当にありがとうございました。
あなたのこれからの人生、楽しいことや嬉しいこと、幸せなことがたくさん待っていますよ!


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