心の豊かさのために考える

こんばんは、きらりんです。本編が長くなってしまったので、前説はなしです。前作では、手段と目的を違えるのはよくないということを考えてきました。今回はその延長線上で最近考えていることです。前作はこちらからどうぞ

私はお金のために働きたくない。確かにお金は必要であり、給料やその他であれこれ言うのはわかる。お金は必要だが、お金の奴隷になると精神が貧しくなるので、お金のために働かない方がいいという思考である。
もちろん、お金を得るためには働く必要があるので、そこは否定しない。

ここまでの思考を整理すると、ベイシックインカムで最低限の生活を保証し、その上で就業選択できる社会がいいじゃないかとなる。ベイシックインカムとは、政府が最低賃金を保証する制度である。つまり、生活保護や手当等を廃止し、国民にお金を継続的に支給し続けるという制度だ。一見良い案のようにも見えるが、これは民がみな社会貢献をしたいという前提にたたないと成立しない可能性がある。社会の利益になる行動に対して対価が払うことで成り立っている。その根底を覆す考え方がベイシックインカムである。そのため、人々がベイシックインカムがあっても社会貢献をするという前提がないと実現は難しいものがある。社会貢献というと大層なことのようにも聞こえるが、社会から必要とされることが社会貢献ではないだろうか。そこに、物流業、金融業、運輸業、医療、芸術に優劣はない。物流業は「モノ」をお金と交換するため、分かりやすいが、芸術は「心の豊かさ」の対価にお金を払う。心の豊かさが無いときは、真っ先に財布の紐が固くなる。神経質になっているときほど、心の豊かさがキーワードになるのではないか。

「モノ」を動かすときに潤滑油として働くお金。そのお金を稼ぐために多くの人は企業に所属する。企業は、人々にお金をいい按配に配分する。
その企業がお金を稼ぐことができないとき、人々が普通の生活を送れるだけのお金を配分できるだろうか?一時しのぎの場合はなんとかなるだろうが、おそらく否であろう。
事業を縮小し、自分達の生活守れる程度まで人員を減らすことになる。再就職先の面倒を見る等、同意の上ではあるが、その先の生活は保証されなくなる。

ベイシックインカムは人々が社会貢献をする前提に立たないと機能しない、企業が機能しなくなると生活が保証されなくなる。このようなときの社会的セーフティーネットワークの最後の砦は生活保護。現状考えられる中で、最もましな案だ。

生活に困っているとき、社会が助けてくれる。失敗が許されるからこそ、挑戦できる。
しかし、資産については厳しく見られるのも、生活保護。先日見かけた記事(ネットの海の藻屑から救出できなかった)だが、田舎では生活の足として必需品である車が、資産として見なされ、生活保護の対象外になる場合があるそうだ。もちろん、車がないと本当に生活ができない等と判断された場合は例外である。
公共交通機関が維持されている都心部では、車がなくてもある程度生活はできる。一日数本のバスを待ち、生活に必要な営みを行えるかと言われると自信がない。

結局、健康で仕事に困らず、自分で自分達の生活を守るしかない社会になっているようだ。

どこまでが自己責任だろうか?企業とは?働くとは?社会貢献とは?

深く考えるほど、分からなくなるのが、社会の仕組みというものらしい。
こういうことを考えなくても、生きていける幸せな社会であってほしい。

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