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「普通の人でいいのに!」から見る「私の体は私のもの」

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普通の人でいいのに!

 つい先日まで、Twitterのジェンダー論界隈で一つの漫画が話題となっていた。

 できればまずご一読いただきたいが、あらすじをかんたんに説明すると、

 「ごく普通」の人生を送る女性『田中』。
 彼女はサブカルチャーの世界に憧れ、その住人とのコミュニケーションによって、その「普通」から少しでも逃れようとしていたが、いつしかそれが叶わぬものだと知る。
 一度は「普通」に落ち着こうとするも、とある出来事がきっかけでヤケになり、自分を取り巻く全てからの逃避を図るがそれにも失敗し、最後はそんな自分の姿にふとおかしみを感じたシーンで幕を閉じる。

 という読み切り作品となっている。

 その精緻な心理描写や、彼女に見合うとされた『現代日本における普通の男性』のルックスや、憧れの世界との格差を知りながらもそこに入りたがる女性の心理などを極めて客観的に描いていることが高く評価され、話題を呼んでいた。

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 引用:「 普通の人でいいのに!」 冬野梅子 



なんでみこたんキレてまうん?

 そしてその中の描写で様々な解釈や議論を呼んだのが以下の部分である。

 想い人だった放送作家「伊藤」の結婚にショックを受けたその一ヶ月後、彼女は自分にアプローチしていた「普通の男」である『ヒロくん』と同棲を始め、『みこたん』と呼ばれて一見仲睦まじく暮らしていたが、伊藤の妻となった友人『リサ』に彼のことを聞かれたコンプレックスから思わず「じゃあ交換する?」と喧嘩腰で言い、人間関係を破綻させてしまう。

 その後、自ら居場所を壊してしまったショックに傷心して家に帰ると、伊藤との思い出となるラジオ番組の投稿者プレゼントのステッカーが届いていた。

 彼女はヒロくんに「すごくない?」と胸を張るのだが、その後のヒロくんのある行動にブチ切れる。

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 引用:「 普通の人でいいのに!」 冬野梅子 



 この一連のシーンについて、「何故みこたんはキレたのか?」と議論が呼び起こされ、様々な解釈がなされておりました。


 これについて本当の答えを知るのは作者だけなのだろう。

 しかし、私には以下のように思えた。


 つまり、彼女の中では、
 憧れの世界の住人である『伊藤さん』を諦めて、普通の世界の住人である『ヒロくん』で妥協した
 という想いが強く、それゆえに、ヒロくんの悪気はないが上から目線とも取れる言動に激しい怒りを感じたのである。

 仮に、頭ポンポンや「いい趣味だね」が憧れの『伊藤さん』から行われたのなら、それは彼女にとって「いい子にしていた努力」が報われた喜びになったのではないか?



そうだけどお前じゃない

 『頭ポンポン』以外にも、女性の恋愛における心理がよく描かれているとされる少女マンガにおいて、『壁ドン』『顎クイ』など、男性の強引な支配的ともとれる仕草が「女子がキュンとくる」ものだという扱いになっていることは多い。

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引用:『星上くんはどうかしている』/アサダ ニッキ


 しかし、一方で「勘違い男の許せない行為」として挙げられることもよく見受けられる。

“強引なのはイケメンに限り許される行為”なんだよね(笑)。

壁ドンや顎クイのちょっと強引なシーンに女たちがときめくのは明らかに彼らが美男子だからでしょ。
女はまだ好きになってもいない男に下の名前で呼ばれると虫酸が走るってもの。



 また、少女漫画等で特に胸キュンとされているのが、俺様的なイケメンがライバルや周囲に「こいつ(主人公)は俺のモノだ」と宣言するシーンである。

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引用:『黒崎くんの言いなりになんてならない』/マキノ

 つまり女性にとっては、憧れの男から「お前は俺のものだ」という言葉やそれを裏付けるような行動は、「それだけ自分を評価された」という嬉しいものになるのだが、それはあくまで「憧れの男からされた場合」に限り、そうでない男からされるのは「ただの不愉快な行動」なのだ。

 「ただしイケメンに限る」とは昔からよく言われる言葉ではあるが、女性からすれば勘違い男の「こういうのが好きなんでしょ?」という行動は、ただひたすらに「そうだけどお前じゃない」なのだ。

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「だってセックスしてるじゃん」

 キレた時のみこたんはすでにヒロくんの彼女で、セックスもしている関係であることが描かれている。

 みこたんがキレた理由についての考察が進む中、「セックスは申してる関係なのに頭ポンポンは許さないのかよ」と疑問を呈する人々が出てきたのは当然だろう。

 これについて思ったことは「体を許す=心を許すということが常に成り立つのであれば、売春という行為は成り立たないのではないだろうか?」である。

 当たり前といえば当たり前であるが、あくまで「好きになったからセックスもしている」のであって、「セックスしているから好き」なのではないのだ。

 一般的に、セックスをしたがるのは男性であることから、女性にはセックスについて「させてあげている」という気持ちが強いと思われる。させてあげているのだから、代わりに何らかの報酬を得たいというのはしごく自然なものだろう。それでお金を得れば『売春』だし、権力者の愛妾となって地位を得るのは『女の武器』である。

 極論を言えば、結婚ですら、そこに女性からの積極的な『愛』がなければ「扶養という報酬を得てのセックス許可」と言えるのだ。

 作中でヒロくんとのセックスするみこたんはやたら冷静で演技がかっており、その行為が心からのものではないことを感じさせる。ヒロくんは手を握ったりと彼女を『愛そう』としているのだが、みこたんはどこか上の空なのが印象的だ。

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  引用:「 普通の人でいいのに!」 冬野梅子

 「愛していなくても付き合えるしセックスもできる」という悲しい現実がそこにはあった。



体は許したが心は許していない

 このような思考は多くの女性にもあるようで、例えば「好きでない男ともセックスはできるけどキスは絶対にしない」という女性たちはかなり多いようだ。

 Twitterでもそうした『武勇伝』を語る女性や、一方、セックスにはありつけてもキスができなかったことに打ちひしがれる男性も目撃された。

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 彼女たちにとっては、「セックスは遊びでするけどキスは本気の相手としかしない」というのが一種の『矜持』なのかもしれない。


 映画『プリティー・ウーマン』でも、娼婦ビビアンが「体は売っても唇へのキスはお断り」と言うシーンがある。

ジュリアの娼婦が、エリートのリチャード・ギアと一夜を過ごす時、「仕事で寝るのはいいけど、キスはだめ」って拒否するんです。 映画を観た女性たちは、「うんうん、キスは愛する人としか出来ないもの。わかるわぁ」と強く頷いたものです。

 こうした女性にとっては、自分の中に「セックスよりも大事ななにか」があって、それだけは自らが望んだ者にしか許したくない心理があるのだろう。

 

 漫画の話に戻ろう。

 キレたみこたんはヒロくんを家の外に無理やり押し出しドアを締め、その後「バカにしやがって!」と心の中で連呼しながら、友人の女性に電話をかけ、「私を見下しているんだろ」と怒りをぶちまけるが、「私は努力してきたから理想の場所にいられるんだ」と言われレスバトルに敗北。しかしみこたんの勢いは止まらず、そして・・・。

 となるのだが、ヒロくんには馬鹿にする気持ちはなく、ただ彼女にとって優しいと思われる言葉をくちにしただけなのだろう。しかしみこたんにとっては、それは「彼如きの身で超えてはいけない一線を超えた」行為だったのではないか。

 ヒロくんにラジオ番組のステッカーを見せ「すごくない?」と自慢するシーンでも、みこたんは過去の伊藤さんとの出会いのきっかけに思いを馳せている。結局、みこたんの心はヒロくんでは埋まらなかったということなのだ。


体は誰かに渡しても心はあなたのもの?

 江戸時代の娼婦である遊女たちは、仕事として多くの男にその体を許していましたが、本命の客に対しては「あなただけは特別」ということを伝えるために様々なものを渡していた。

 血判付きの起請文から始まり、生爪を剥いだり、中には小指を切って送りつけたり、最後にはともに死ぬことをもって愛情の表明とするまでエスカレートした。

 今でも使われる『心中』とは、もともとは恋仲にある男女が同時に命を断つことを指す言葉だった。

心中という言葉が生まれたのは、江戸時代の元禄期(1688~1704年)に遡る。当時花街では、遊びが講じて、客のことを本気で愛してしまう遊女が少なくなかった。だが遊女という仕事柄、真剣に好いた相手以外にも偽りの愛を装おわなければならず、意中の男性だけに、恋慕の情を示すことはだ難しい。そこで彼女らは、自らの心の内を示すために、「あなただけを愛しています」という血判を捺した文書を書いたり、髪をばっさりと切って相手に渡したりしていたという。
このように、遊女が客に対して愛情を示す行為は、「心中立(しんじゅうだて)」と呼ばれるようになった。目には見えない〝心の中〟を証明するという意味である。
小指を切断したとしても、愛の証明は難しかった。そこで心中立の究極の手段として、互いの「命」を差し出すまでになったのだ。決して目には見えない心の中の恋慕の情……。そのことを証明するために、男女が同時に命を絶つ行為を、心中立が転じて「心中」と呼ばれるようになったのである。

 また、意中の男性の名前を彫り物として入れることもあったそうだ。

 好きな人の名前で『〇〇命』と書くヤンキー文化は遊女の入れ墨が発祥とも言われている。

 女性にとって「本当に好きな男」とは身を削り、たとえ命を奪われてもいいというくらいの存在と言えるのかもしれない。

 もっとも、客の気を引くために偽物の爪や指や入れ墨を使う遊女も耐えなかったようなので、男と女の『化かしあい』は昔からずっと変わらないようだが・・・。



私の体は私のもの

 フェミニズムでは「私の体は私のもの」というフレーズがよく使われる。これは「性の自己決定権」と深く関わるものであり、出産や中絶における女性の権利について語られる際に出てくることが多い。

 「女性の肉体が持つその『生殖』『出産』という機能は誰のためにあるのか?」という選択を国家や社会ではなく女性自身が選ぼうとするものである。

 例えば、家父長制において女性に期待されていたのは、親が決めた相手の妻となり、跡継ぎとなる子供を生むことであり、その子を立派に育てることだった。

 それに反抗し、「誰と子供を作るかも、子供を作るも作らないも、殺す(中絶する)ことですら、女性が選択権を持つべき」というのがフェミニズムの「性の自己決定権」なのである。

 フェミニズムが「死の文化」と言われるのは、この生殖・出産・中絶という要素、つまり人類の生殺与奪をすべて女性の手にコントロールさせようとするものだからと言える。

 この「フェミニズム=アンチ家父長制」であることについては過去のnote記事でも触れているので、よろしければご一読ください。


 話のスケールが少し大きくなりすぎてしまったが、作中ではヒロくんと同棲を始めて「私の中に『彼視点』が生まれている」「私の体がシェアされている」とみこたんがひとりで考えるシーンがある。

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  引用:「 普通の人でいいのに!」 冬野梅子


 これは男性にはまったくわからない感覚ではないだろうか?

 男性と肉体関係を結び、ともに暮らすことが肉体がシェアされ、私の占有物ではなくなっていくという感覚。

 この感覚こそが、その後ヒロ君の頭ポンポンを退け、彼を強く拒絶した「お前じゃない」であり、まさに「私の体は私のもの(そして、私が望んだ『他の誰か』のもの)」という意思表示に繋がるものだ。

 


特別だから無礼を許している

 男性が気をつけなければならないのは、「頭ポンポン」も「顎クイ」も「壁ドン」も「コイツは俺のもの」も本質的には無礼な行為であり、女性がそれ自体を好んでいるわけではないということだ。

 それはあくまで「あなたは特別」という意味を持つアピールおよび自己陶酔のためのものであることを決して忘れていはいけない。

 みこたんはヒロくんのことを積極的に嫌っていたわけではなく、むしろ良い彼女であろうと努力はしていたのであろう。しかし何もかもを許せるほど「特別に好きな男」ではなかった。それだけは確かだ。

 ヒロくんはみこたんの憧れの世界へのアプローチを『趣味』と断じ、頭をポンポンするという『無礼』を働いたことで、それを親愛だと受け取れる『ライン』を超えてしまい、あのキレっぷりにつながった。

 もちろん、彼女の中のコンプレックス等も十分に影響しているのでヒロくんだけが悪いわけではないのだが、直接の原因になるには十分だったのだろう。

 あの瞬間にヒロくんは「今はそうじゃなくてもいつか特別好きになれるかもしれない」対象から失格したのだ。

 


好きでいられるという『誠実』

 私は以前から、女性というのは男性に比べて「善悪よりも好き嫌い」という判断基準に生きており、好きな相手だったら大抵のことは許せる性質を持っているのだと考えている。

 インターネットでこういう事を言うととかく「女性を嫌悪している」「女叩き」と言われがちだ。しかし、この判断基準についてはあくまでただの男女の性質の違いであって、無理やり女性を男性の道徳観に当てはめて評価するほうがかえって女性にとっては息苦しいのではないだろうか?

 『誠実な男とはなにか?』というのもよく男女論で問われるテーマではあるが、少なくとも多くの女性にとってのそれは「道徳に反しない男」ではなく「自分が好きでいられるように努力してくれる男」なのではないだろうか? 

 だから男性の基準では悪事を働く『悪い男』であっても、それを好きな女性にとっては、「好きでいられるような存在」であり続けてくれる限りは『誠実な男』なのだ。

 ヒロくんに悪意はない。悪意はまったくないのだが、みこたんにとって「好きでいられるような存在」となるように努力していたか?といえばやはり疑問が残り、みこたんにとっては『誠実』ではなかったのだと思われる。

 もし、この記事を読んでいる男性諸氏が、いま女性から「特別に好きな存在」であり、あなたの無礼を好意や喜びとして受け取ってくれてるのなら、その寛容さがいつまでもあるものだとは思わずに、「好きでいられる誠実な男」であり続けられるように努力することは決して無駄にはならないだろう。

 男女の心理や行動基準の違いをお互いに知り、考えることで、多くの『みこたん』と『ヒロくん』が「普通の人生」を幸せに生きられるように願ってやまない。


あとがき

 この作品を描いた冬野梅子さんは、女性の闇や恥とも言えるような部分を十分に知りつつも、それがどうしても抑えられないという弱さといった心理描写を実に赤裸々に描いており、鋭い自己客観性を有するとても優れた作家さんだと思いました。

 冬野さんの別作品を最近知ったので、こちらについてもいつか感想を書きたいと思います。

 


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