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絶望と向き合う | #006

なんだろう。全てに絶望している。しかしこれは一時的なことで、継続的なものでないことを自分は知っている。

なぜならこれまで生きてきて、幾度となく絶望を感じる時間と、楽観的な時間を繰り返してきたからだ。

週に1度は絶望の渦の中で感情の荒ぶりを感じ、その次に生きることへの無意味さを感じ、己の存在の無価値を思い知り、涙がこぼれそうになる。

自分が絶望して、涙をこぼしたところで、何も現状が良くなるわけではないし、そもそも現状の何が良くないかもわからないのに、だ。

要は自己効力感の低さがこれを生み出しているのだと、自分では考えている。「自分がこれをしたところで何の意味があるんだろうか」という気持ちである。

自分がいなくなってもこの世界は別に何も不自由なく回っていくのに、自分がこれをやる意味ってなんだ?意味がないのであれば自分は自分のために時間を使ったほうがいいんじゃないか?でも、ちょっと待て、自分は自分のために何をしてあげたらいいんだ?

この繰り返しだ。

おそらく人はこれらの質問ににある程度身近な理由を見つけたり、生物的な本能に帰着させながら生きているんだと思う。絶望期でない自分もおそらくそうだ。

でも絶望期の自分は厄介だ。普段の自分がうまく曖昧にしていたり、隠していたりする、日常とこれらの質問の解答との接続部分を精緻に観察してはイチャモンをつけてくる。

ここ、本当にそうなのか?これまでの自分を否定したくなくてうまく取り繕ってるんじゃないか?

おい、これは周りの人の存在を言い訳にして、本当はそうしたくないのに放置しているだろ?

ケイスケホンダでいうリトルホンダのような存在が自分の中にも住んでいて叫び出す。それが絶望期のスタートの合図だ。

これは中期的な視点に立てばおそらく些細なことだと言える。短期的に絶望期に入るとはいえ、1週間、1ヶ月の期間で見ればそれが自分に影響を行使する期間は限定的で、大きなものではない。

しかし、長期的に見ればこれは無視できないものになっていくんじゃないかと感じている。
心の声とも言えるリトルホンダ的存在を無視し続けた結果、心は反旗を翻すかもしれない。

心の声と自分はどう付き合っていくのか、今の自分をどう変えていくのか。そして長期的に自分をどう救っていくのか。
そう、絶望期はそのヒントを得られる期間であるとも捉えられるのだ。

、、、いや、何を書いてるんだろう自分は。今日は早く寝るとしよう。
短期の絶望に呑まれぬように。



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