死にたいという感覚

久しぶりに死にたいが近くまでやってきた。今も周囲をうろちょろしている。 
病院を変えて、薬を変えてから、ここのところ少し安定していて、希死念慮まで到達したのは半年ぶりくらいかもしれない。
過去のものになったと思っていた希死念慮が、まだ自身の中にあったことに驚く。あるいは、外因的な何かしらによってまた新たに生まれたのか。
以前は、何か目の前にある苦痛から逃れる一手段であったり、このまま未来に希望を見いだせない人生が続いていくことへの恐怖からの絶望が主な原因だった。
今はどうだろう。今の私には、成長したいという欲望や何かの達成のため目標というものがほとんどない。心地良く生きていけたらきっとそれでいいし、何か自身を変えたいとか、何かを成し遂げたいという熱が少なくなっている。ただただ、現実世界で心地良く生きていくことの難しさに苛まれている。社会で生きていく以上、誰かと関係を結ぶ以上、そこには絶対に相互の歩み寄りという労力が必要で、それなしに人と関係を築こうなんてことは傲慢で、必要コストだと思っているのでそこに異論はない。ただ、心地良く生きる=肉体的、精神的、金銭的余裕みたいなものが必要で、それをすべて満たそうとしたときにかかるストレスに押しつぶされそうになる。結果、心地良さが手に入らない。100点満点の心地良さを求めて、50点分の不快を感じているからいつまでたっても満たされない、そんな感じ。
他人が気にもとめない些細なことに気を取られて、そこに固執をし脳のリソースを消費した結果、疲れてしまう。でも、それが私にとっての「生きる」だったわけで、それをやめなよ、と言われたからとて、やめたいからとて、そう簡単にやめられるものじゃない。だけど、最近なんとなくどういうときに自分がこの意識(生)と乖離して無意識の世界に没頭できるかがわかってきた気がするので、引き続き仮説検証を行うしか抗う術はない。
自分の死にたいで他者を傷つけてしまうことがある。自分から離れていくかもしれないと思う。自分の死にたいは誰にも見せずに、私だけしか感じられないように抱き込んでいることが正解なのだろうか。でも、死にたいを理解する人はそんなに多くない。それはとても喜ばしいことだけど。頑張って話してみても理解してもらえないことの方が多いから、どういう風に扱ったら良いのか分からない。最初からそこにないように振る舞うのが正解なのか。どんなに親しくても?分からない。心配事の共有が仲を深めることがあると学んだけれど、死にたいは例外なのだろうか。でも、死にたいの話で相手が私から離れていくことを選択するのはとても不本意たから、やっぱり、ないことにするのが正解だろうか。分からない。

助けてほしい。
救われたい。
そういう気持ち。

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