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021. エンリック・ミラージェス、ベネデッタ・タリアブエスタジオでの研鑽(バルセロナ)1/2

―澄み切った青空のもと、スペインのアーティストが白い仮囲板いっぱいに原色のペンキを塗りたくっている。日本人の感覚からはかけ離れたその色彩選択と、筆遣いの粗さ・自由さに「バルセロナってどんな街なんだろう?」と憧憬を抱いた。―

  建築家:清家清氏主催の事務所で、公共建築物・ホテルの設計・監理業務をいくつか担当したが、卒業時に見た白囲いアートの強い印象とスペインに対する思いは断ち難く、事務所を拝辞しスペイン政府給費を得てバルセロナ建築大学都市計画講座の博士課程に入学。自分は学業に不向きであることが分かったため、エンリック・ミラージェスとベネデッタ・タリアブエのスタジオ(Enric Miralles・Benedetta Tagliabue Architects Associates 以下スタジオを称す)での協働を開始した。

 スタジオは1996年当時実施の仕事がほとんどないものの、30代の若さでイグアラダの墓地(*1)や、バルセロナオリンピックアーチェリー競技場(*2)などで、新進気鋭の建築家として既に世界的な名声を勝ち得ていたため、ヨーロッパ、南北アメリカのみならずアジアからも多くの研修生を集めていた。エンリックはヨーロッパ建築を良く理解した上で、その建築を地域の環境や材料・工法を観察し、彼独自の感性で再構成しようとしており、図面は2つの三角定規とコンパスで描かれ、平行定規などどこにもなかった。私が所属したころは丁度CADを導入したばかりで、エンリックの不定形な形態をスムーズに、また内部空間を見上げたときのイメージをスタディーし続けていた。

 (*1)イグアラダの墓地

 (*2)バルセロナオリンピックアーチェリー競技場

 1997年になってスタジオはスペインのみならず、イタリア・ベニス建築大学校舎、ドイツ・ハンブルグ音楽学校、オランダ・ユトレヒト市庁舎、スコットランド国会議事堂と立て続けに国際コンペに優勝し、とても活気づいていた。
 私はバルセロナ周辺のサンタカテリーナ市場再生計画とパラフォルス公共図書館等を主に担当しながら、週末はコンペの手伝い等、スタジオの仕事をフル稼働で愉しんだ。
 文化庁派遣芸術家在外研修終了後もEnricから「続けたい?(彼は所員を引き留めるとき、この言葉を使う)」と言われたので、スタジオでの業務を続けることとした。

エンリックとの写真 2020年2月エンリック・ミラージェス

スタジオでの研修・仕事(バルセロナ)2/2へ続く


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