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蛇と彗星

(「noteのcakes」にて、2020年6月5日に書いたものを転載)

 数字は国境も文化も生まれの貴賤も関係なく、万国共通の公用語である。

 僕には、今のところ何の目標もない。しかし、もし会社員として成功を目指すならとりあえず「年収1000万円もらえる人」みたいなものを目指すかもしれない。「年収1000万円」は分かりやすい到達点だからだ。

 分かりやすい目標に魅せられる思考様式を、僕はビジネスマン的だと思う。

 書店に並ぶおびただしいビジネス書、自己啓発書が「1万時間の法則」、「20:80の法則」など、成功・成長・効率化にまつわる簡潔明瞭な法則を打ち出すのは、それが第一に分かりやすく、読む者に明確な指針をもたらしてくれるからだ。これらの本に求められるのは文学や思想書、学術書のように正確な理解に多大な時間を要する思索のコンテクストではなく、ただ「即効性」のみである。その即効性にしても読んだ後数日間に渡ってこの世の「勝者」に成り上がるための普遍法則を会得したかのような気分に浸れる精力強壮剤のようなものだったりする。

 例えばスタンフォードやらハーバードやらアメリカの大学のビジネススクールで教鞭をふるっているというその道の権威の人が書いたビジネス書を手に取る人たちの多くはエビデンスなんて気にしていない。それを読んで、自分にとりあえず明確な数字的指標がもたらされ、安定するのがただただ気持ちよく、仕事に便利な公式や定理さえ手に入れば、その他のことはどうでもいい。肝心なのは、アメリカの大学のビジネススクールで講釈を垂れているどこの馬の骨ともわからぬ大先生の提唱する耳障りの良い定理だけである。

 端数を切り落として、キリの良い、分かりやすい数字で思考を完全に統御する考え方を、僕は憎む一方で愛してもいた。

 しかし、こうした思考様式は、どこか角ばっているように感じる。僕は知らず知らずのうちに人生を機械のように硬質で無機質なブロックの集まりだと考えていて、年収いくらだとか、史上最高の文学100冊とか、些細なものが綺麗さっぱり取りさらわれて、数字的にキリが良く、その道の権威が用意してくれたセットメニューを一つ残らずたいらげていけば、それで豊かになれると信じてしまっている。

 まるでスタンプラリーである。

 このことについて考える時、反射的に僕が連想するのは、ユンケルが隙間なくビッシリと並べられたイチローの特注ケースと、コンクリート打ちっ放しの角ばった住宅である。つまりカッチリしている。髪をボマードできっちりと固めあげ、パリッと上質なスーツを着こなしたサラリーマンみたいなものだ。

 高校時代から今に至るまでよく遊んでいる友人がいる。彼は一言で言えば天才だった。

 創ることに情熱を燃やし、その時の気分に合わせて絵を描き、音楽を創り、文章を書く。それら全てが文句なしに優れていると言えるわけではないが、一度「創る」となれば彼は寝食を忘れて打ち込めた。深夜4時に唐突に音源が送られてきたこともある。僕の考えたストーリーを15分ほどで見事な4コマ漫画にして送り返してくる。認められたいと言う欲求ももちろん持ってはいたけれど、それよりも先に自分がイメージしたものを具現化すること、親しい友達を楽しませることに意識が向いている。何より僕が彼を凄いと思うのは、どんなに整っていない環境下であっても、ひとまず作品を作り上げてしまうことである。絵を描くときには、教科書に頼るのではなく、自分でスケッチを繰り返し、書きたいものの特徴を手に馴染ませた上で一気に完成に持ち込んでしまう。スマホにインストールされたGarageBandのアプリさえあれば、彼は自己流でテクノや日本歌謡、メタル風の音楽を作った。

 それに比べて僕はなんだろう。友人はそのあたりに落ちている廃材を使って自由に家をこしらえることができる。しかし僕は物事を始めるには「基礎」が必要不可欠だ、と言う概念から抜け出すことができないし、万全な準備が整うまでは動き出すこともできない。何かを創る時にも、絶えず「型」を必要とし、あらかじめ確立された枠組みの中でないと安心できないし、誰かに評価してもらえないと自信が揺らいでしまう。その結果、生まれるのは大抵人並みかそれ以下のクオリティの、どこかで借りてきたようなオリジナリティのないシロモノである。

 「天才は外的偶然を内的必然に転化できる」。そんなことを坂口安吾が書いていた。ありあわせのものを使って何かを作り上げることができる。レヴィストロースはその才能を「ブリコラージュ」と呼んだ。今、僕はお金さえ出せば絵も音楽も本もいくらでも手に入れることができる。友人が作った音楽や漫画の数々は市販されているプロの作家によるものと比べて稚拙で荒削りであったが、だからと言ってそれらに意味がないとはならない。メインストリームからこぼれ落ちたものを「稚拙」「荒削り」と捉える感覚が、「飼いならされている」とも言えるのだ。

 僕の思考は、角ばっている。官僚的である。軍隊的である。絶えずルールを必要とする。絶対的な規則を必要とする。例外に対して不快な気持ちを抱く。食事の時間も、毎日の読書のページ数も、就寝時間も、逐一決めないと落ち着かない。身につける衣服をユニクロで揃えると決めたら、他のブランドでどんな着心地が良い服を持っていてもゴミ袋に入れてしまう。ずっと白の無地Tとジーンズで生きて行くと決めたら、クローゼットの中を真っ白に統一しないと落ち着かない。実に機械的。実に非人間的。機械的な強迫性神経症。

 人間には少なくとも二種類のタイプがある。革命家と実務家である。創造できる人は、革命的である。対して、僕はただの実務家である。それも、決してエリート銀行員や官僚にはなれない類の出来損ないの実務家である。革命家は、自分の好奇心に任せて子供のような心で時にとんでもないものを作り出す。僕の友人はそんなタイプだ。彼を見ていると、とても偏っている。時間は守れないし、自分の興味のあること以外に手をつけない。その代わり、興味を持ったことに対しては恐ろしく創造的であった。僕は彼を見ていると、一本の直線を連想する。能力を限りなく先鋭化させると、やがてグラフは直線に近づく。そして同時に、自分の情熱のままに目標へ向かって猛スピードで滑って行く彗星でもある。

 対して、実務家は円形である。実務家は常に様々なことに注意を配り、今やっていることが将来的に何につながるかを考えている。彼らは偏りを嫌う。常に物事が美しい秩序に収まっていることを確認したいのだ。実務家の行うことには、常に理性的な動機がある。実務家が行うことは、良きにつけ悪しきにつけ、いつか結果となって返ってくる。結果として現れないものは初めから認識しない。彼らは輪廻の信奉者である。僕は実務家について考える時、自分の尻尾に噛み付いている蛇を連想する。

 それまでの常識を覆してしまうものを作るのは、革命家であり、革命家が作ったものを世界に適用し、継続的に運営していくのは実務家の仕事である。それはそれで、これまでは完成したシステムだった。

 しかし、工業化以来、機械が実務家の領域を徐々に侵食してきた。頭を使わなくてもできる単純作業から始まり、機械は知性を必要とする仕事をも人間に変わり担うようになってきた。実務において、機械は人間をはるかに凌駕する。なぜなら、機械にはたまのメンテナンスを除けば、食事や睡眠といった「休息」は必要ないからだ。実務において、機械は寝食を忘れて作業に没頭してくれる。そのうち機械も機械に作らせればいいということになってくる。意志のない実務家は彗星と蛇のハイブリッドであった。

 だから、「創造」は誰にでも求められるのではないかと思っている。創造するには、どうすればいいのだろう。僕は、自分なりに創造的だと思う人たちの著書を片っ端から取り寄せて読んでみた。官僚型の僕にはこんなことにまで教科書が必要なのである。

 坂口恭平という人がいる。建築家、芸術家、音楽家、文筆家、女装家、新政府総理大臣……。どんなカテゴライズからもはみ出してしまう。僕には、僕が天才と思う友人と坂口恭平がとても重なって見える。坂口氏は、多摩川や隅田川沿いに住むホームレスたちの手作りの住居に関心を持ち、従来にない住居の形を模索した作品集「0円ハウス」で世に出てきた。それ以来、東日本大震災をきっかけに熊本に帰って、新しい国家を建設したり、自殺者を減らすために電話番号を公開して毎日10本もの電話を受け続けている。彼は、感覚の人だと思う。自分が持った疑問や問いを決して忘却するのではなく、フィールドワークを通して考え続け、行動し続ける。

 「疑問」「違和感」「一見馬鹿げた思いつき」をそのままにせず、突き詰めることってとっても大事だと思う。言葉にするのが時間の無駄に思えるぐらいに、得体の知れない感覚が頭をよぎることがある。僕はそれを馬鹿げた妄想だと思う。でも、本当は違うかもしれない。頭をよぎった時に手を伸ばしてその直感をつかみ取れば、何か、何かにはなるはずなのだ。

 この「何かになる」というのがすごく大切で、結果は求めない。予測だけでは生きていけない。僕の生家は、北向きの窓から街の向こうにうっすらと山が見えた。僕は子供ながらにあの山に行きたいと思った。それは現代の冒険だ。でも、そんな考えは馬鹿げているとも同時に考えて結局やめた。あの山に行ったとして、一体何があると言えるのだ? 結局、そのまた向こうに同じような形をした街と同じような形をした山が見えるだけだろう。僕はそうやって予測した。

 でも、あの時に「これは馬鹿げている」と思いつつも、実際に歩き出していたらどうなっていただろう? ともふと考える。何かに出会えたのかもしれない。たとえたどり着いたのが陳腐な風景だとしても、途中で何かに出会えたかもしれない。僕はそうやって、いつでも後ろ向きに考えている。ない物について考えている。喪失性症候群である。僕が今までに触れたり読んだりした聴いたりした中で感銘を受けたもの、エリック・ホッファーの著書、かまぼこ板にしか興味を持てない男を歌った『異端児の城』という曲、世界一長い小説『非現実の王国で』、『シュヴァルの理想宮』、そういったものはみんな一方通行の、一筋の彗星であった。社会規範とか、バランス主義では決して到達しえないものが、この世界には確かに存在するのである。坂口安吾の『夜長姫と耳男』で、耳男が、ここが死に場所と心に決め、蛇の生き血をすすりぶちまけながら姫の像を作るように、ステータスとか、ブランドとか、記号とか、そういったものを超越したところに行きたいと僕は考えている。友人が送ってくれる曲を聞きながら今日も僕はそんなことを考えているのであった。これはやっぱりないものねだり。嗚呼、イカロス。誠にイカロス。

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