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三文小説家の肖像

 ジェイの腑抜けっぷりといえば、このあたりなら誰でも知っている。普通、どんな人間にも人生山あり谷ありで、今が最悪でも、いつかの時代は薔薇色だったなあ、と振り返ってみたりすることはできるもんだ。
 ところが、アイツときたら、生まれてからこの方一度だってうまくやった試しがないんだ。母親のお腹の中から飛び出したその瞬間から、アイツには何一つ目を見張るものがなかった。何を聞かれても、知らぬふり。どこを見つめているかも分からない。瞳は力なく泳ぎ、幼稚園に入っても、幼なじみたちに二、三度存在を忘れられた。え? その幼稚園の先生はどうだっただって? 両手の指じゃ、納まりきらないほどさ。
 そういう奴って、大人になってから意外な才能が見つかったりするだろう? ほら、絵が死ぬほど巧かったり、数学の天才だったり。ところが、アイツときたら、大人になっても鳴かず飛ばずで、何をやっても誰にも見向きもされない。空想好きでも、オタクでも、知能が高い訳でもなかったんだな。平凡な公立の中学校を下から数えた方が早い成績で卒業し、平凡な公立高校を下から数えた方が早い成績で何とか卒業し、小さな商売をやっている親父の口利きで、親父と同じ三流大学に裏口から入学して、二、三年留年しながらも何とか卒業したってわけさ。

 大学でもアイツは、あんまり存在感が薄かったな。格好はいつも同じ。ロゴも模様も入っていない無地のTシャツとジーパンで、春と秋にはその上に灰色のパーカ羽織ってさ、冬はそのパーカの上に見すぼらしいベスト羽織ってさ。とにかく一年中変わりばえしなかったよ。それで、当然ながら誰からも好かれず、かと言って誰からも嫌われず、一回生の入学日から、三度目の四回生の卒業式まで、何にも喋らず、教授に当てられても何も答えず、機械か何かで動いているみたいに淡々と黙々と通っていたよ。え? それだけ真面目に通っていれば、留年なんかするはずもないだろう、だって? おいおい、アイツのことを見くびってもらっちゃ困るよ。アイツときたら、四則演算と短い日本語の文章以外、何一つ理解できないんだ。勉強してどうにかなるタマじゃあないね。それだけは、火を見るよりも明らかさ。まるで、最初から、世界中から戦力外通告受けてるみたいな感じなんだよ。

 それで、やっとこさ大学を卒業したアイツは、また数年間、スーパーでレジ打ちのバイトをしながら就職活動を続けてさ、ハローワークに通ったりなんかして、どうにか田舎のこじんまりした運送会社の経理に落ち着いたってわけさ。朝から晩まで、計算表やら契約書やらと睨めっこ。一緒に働いていたのは、みんな女性だったんだけど、アイツは業務と叱責以外では最後まで話しかけてもらえなかったなあ。

 もう、分かってると思うけど、元々何か強い動機で生きてるんですってタチじゃあないんだ。大体、ああいうやつはいつ、死んだって良いんだよ。誰も悲しまない。ちょっくら死んでくるわって感じで新幹線に飛び込んで、時速220キロで、あっという間にあの世へゴー。死に方さえ喜劇的なら、十分じゃねえか。まあ、体は木っ端微塵だから、そこら中に飛び散った髪の毛や肉片をかき集めるのが大変だけどな。
 でも、ジェイっていう男には喜劇的に死ぬ動機すらないんだな。最期にでっかい花火を打ち上げる気すらないんだ。生きてるっていうよりも、もはや「在る」とか、「漂っている」みたいな文学的な言い方をした方がいいかもしれない。凧や案山子と同じ部類の生き物なんだよ。

 そうして、いつの間にか35歳になってたジェイ。世の男ならそれなりに大人だよ。でも、ジェイはずっとジェイのままだった。もう何年間も何一つだって変わらない内容の仕事を、一人で黙々淡々と。けれど、仕事ができるってわけじゃあないんだ。中学生か高校生が三日でできる仕事を、一ヶ月かけて終わらせるのがアイツの持ち味さ。それで、その年入ったばかりの新人社員にもすぐに顎でこき使われるようになって。それでもアイツ、黙々と職場へ通ってた。
 一つだけアイツのすごいところは、小学校ぐらいからずーーっと同じリズムで生活を続けているんだ。朝は6時半に起きて、水を150ML飲む(アイツはきっちり秤で測ってた)。それから、洗面所で親の仇をとるみたいに丹念に髭を剃ってさ、三十分も四十分もかけて歯を磨いて、いつも卵を二個だけ食って職場に行った。朝に卵を食べれば、食事は夜までしなくていいんだ。元々、三食も必要になるようなエネルギーを持っているわけでもない。あとは、休憩も取らずに、淡々とパソコンに向かって辺りが真っ暗になるまで仕事さ。定時になったら、まっすぐ家まで歩いて帰る。雨が降っても、アイツはびしょ濡れになりながら歩いて家まで帰ってたよ。台風警報が出ていても、傘だけは持っていかなかった。どうして強情な野郎だよ。

 家に帰ると、アイツ、鍋いっぱいに水を入れてスープを作るんだ。具は日によってまちまちで、コーンポタージュやビーフシチューみたいな日もあれば、帰り道で拾ってきたウシガエルの肉を入れてフレンチ決めこんでみることもあったな。アイツの夕食はそれだけなんだ。出来上がったら、窓辺に座って、汚れた小さな木製のスプーンで街を見ながらいつまでも飲んでいるんだ。それで鍋が空になったら、風呂入って歯磨きしてベッドに入った。
 ベッドに入ると、やっこさん、目をつむったまま延々性的な妄想をするんだよ。これまで自分とすれ違った女の顔を逐一記憶して、眠れるようになるまでその女たちを犯し続けるんだ。アイツが特別お盛んってわけじゃないんだよ。ただ、眠るためにしょうがなくやっているんだ。他の空想を何時間も続けても、アイツは一度だって眠れた試しがない。けど、女を犯す時だけはどこか心が落ち着いて眠れるんだよ。そこは、変といえば変かもしれないな。

 そうやって、抑揚のない生活を続けていたジェイはある日、突然仕事を失った。倒産でも不景気でもない。ただ、解雇されたんだ。いつものように、アイツがパソコンの画面に埋もれるようにして仕事をしていた時、社長がてくてくとアイツの机に歩いていって、肩を二度叩いたんだ。ぽん、ぽんと。これで、全てが完了した。翌日には、アイツはバック一つ分しかない荷物で故郷に帰っていったよ。

 まるで何年も前から実家で暮らしていたみたいに、アイツはいつも通りの表情で戻ってきたんだ。ただ一言、「ただいま」と言ってね。事情を聞いたアイツの親父さんは、「俺の会社で働くか?」とアイツに問うた。アイツの親父さんは、小さいけど会社をやっていて、それでどうにかこうにか、家族を食わせながらここまでやってきたんだ。それで、幸いにもその会社にはちょうど経理補助の枠が空いていたから、親父さんもあんまり期待しないで最低限の給料だけは保証するつもりでアイツに話したんだろうな。いいじゃないか。もっと早くから、アイツはそうしておくべきだったんだ。どうせ、家以外の世界にアイツが落ち着けるような場所なんて鼻っから無かったのさ。アイツにはもちろん断る理由が無かった。アイツに限っては、何かを断る理由があったことなんか、一つもあったためしがないのさ。
 ところがどっこい、驚き桃の木三銃士。やっこさん、どうしたと思う。なんと、自分の親父さんに向かって首を横に振ったんだ。何の取り柄もねえ、良いところなんか一つもない自分を曲がりなりにもスカウトしてくれた男を、だぜ。
 それで、アイツは翌日から自分の部屋に籠もってずっと何かを書き始めた。まるでメトロノームのような正確さで黙々とキーボードを叩き始めたんだ。その間はやっこさん、親父さんが何を聞いても反応しない。今までにも増して食事に疎くなり、たまの外食に誘っても付いてはいかない。夢の中で女を犯すことも無くなった。35歳のいい大人が、その日から突然小説を書き始めたんだ。これには、俺もびっくりしたね。最初知ったときは危うくぶっ倒れそうになったよ。だって、これでジェイの書いた小説が何かの間違いで売れてしまったら、俺がこれまでアイツについて書いてきたことを全部、ひょっとするとアイツが生まれる前に戻って書き直さなくちゃならないんだからな。
 でも、安心してくれよ。アイツに限って、そんな夢みたいな出来事は起きようもないんだ。何本書いても、アイツの小説は見向きもされなかった。アイツは一つの小説を書き上げるたびに家の壁に、ペンキで「正」の字を一画ずつ書き足していったんだけど、壁に書かれた「正」の字が20個を超えても、アイツの小説は新人賞の一次選考すら通過することはなかった。たったの一度もなかった。それでも、アイツはずっと部屋に籠もって書き続けていたよ。朝、起きたらコップに水を一杯だけ注いできて、デスクの上に置く。そのデスクは、パソコンと水以外、何も置かれちゃいけないんだ。何時間かおきにコップの水を一口飲みながら、延々パソコンを叩き続けるのさ。食事を一度もとらない日が一週間に二日か三日、時には四日になることもある。日に日にアイツは痩せていった。まん丸だったお月様が右側から少しずつ欠けていって、半月になり、三日月になり、ついには全く見えなくなり、一周回ってまた満月になって帰ってくる間も、アイツの体の線だけは細くなっていく一方だった。そのうち、お月様の方が心配して、アイツの容態を聞くために地球に落っこちてくるんじゃないかってぐらいだった。

 アイツがぶっ壊れた前時代の印刷機みたいに文字を紡ぎ始めて、何年も経った。その間に、小説は世間の誰にも読まれなくなり、アイツが作品を送る新人賞は一つも募集をしなくなった。それでも、アイツの家の壁には、日に日に「正」の字が増えていった。お行儀よく並べていくと、とてもスペースが足りないから、アイツは昔書いた「正」に何度も新しい「正」を重ねていったんだ。そのうち、それが「正」だってことは通り過ぎる誰にも分からなくなり、前衛的なアートか何かと思われるようになった。そしてアウトサイダー・アートやグラフィティ・アートの研究者が入れ替わり立ち代わりその壁を見にくるようになり、遂にはどこか大きな美術館のお偉いさんがジェイの家に訪れて、展示をしたいと申し出るようになった。壁が持ち去られてからも、アイツは隣の壁にまた新しく「正」を書き始めたって話だ。

 ジェイが自分の部屋を出なくなってから二十年も三十年も経ったある日、ジェイは突然、書くのを辞めた。工場が稼働停止に陥ったみたいに、ピタッと前触れもなくキーボードを叩くのを止めると、アイツはパソコンを閉じて、かかとのあたりまで伸びきって脂まみれになった髪を洗うため洗面所に立ったんだそうだ。
 園芸用のでかい枝切りバサミで頭をうなじのあたりから切り落とそうとしたその時、ジェイの親父さんが洗面所に入ってきた。親父さんはとっくの昔に事業を他人に譲って、譲ったお金でのんびりと暮らしていたんだが、かといって息子があんなだから、田舎へ引っ込むこともできず、ずっとジェイと一つ屋根の下に暮らしていた。その間に、気付いたら外を歩く気力が無くなるほど老いていた。
 そんな親父さんが、本当に久しぶりに息子が部屋を出たものだから、物珍しく思って、節々が痛む肉体に鞭を打ちながら、杖をついて洗面所まで行ったんだそうだ。アイツが髪を切り落とそうとしたその時、洗面鏡に親父さんの姿が映った。頭がすっかり禿げ上がり、二回りも三回りも体が小さくなった実の親父の姿がね。「病気でもしたのか?」と、ジェイは親父さんに尋ねた後、答えも聞かずにぽろぽろ涙を流し始めたよ。嗚呼、やっこさん、自分が部屋に閉じこもってから何年の月日が流れたのか、全く解っちゃいなかったんだなあ。

 その夜、何十年ぶりにジェイは髭と髪を剃り、これも何十年かぶりに親父さんと一緒にワインを開けたそうだよ。親父さんはもう、自分で何かを飲む体力もなかったから、ジェイが一つだけ持っている木製のスプーンでひとさじずつすくっては親父さんに飲ませてやった。
 夜がだいぶ更けてから、程よく酔った親父さんを寝室に運んだ後、ジェイは窓辺に座ってしばらく庭を眺めていたそうだよ。手入れをする者がいなくなって、雑草と野良猫の糞で埋め尽くされた庭に、その日は秋の月が透き通るような月光を投げかけていた。
 月が完全に山陰に隠れて、向こうの空がほんのり明るくなった頃、アイツは窓を開けて、庭に出た。ジェイの庭には、小さな物置小屋があるんだが、アイツはその小屋から、サビだらけになった大きな薪割り用のナタを取り出すと、親父さんの寝室へ入っていったそうだよ。

 それからジェイの姿を見たやつには一人も会っていない。ジェイの家の壁の「正」は増えなくなったけど、実はまだ自室に閉じこもってキーボードを叩いているのだ、と言う奴もいるし、ボートに乗って大海原へ漕ぎ出していったのを見た、と言う奴もいる。でも、どうだっていいんだよそんなこと。

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