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夫婦にとってセクシュアリティは必要か?

(2008年11月mixiの投稿からその当時の文章)
先日、知人から自宅出産の報告を受けた件に関して、
「?・・おや?」と思うところがあったので。

まず、

自宅で、夫婦だけでのお産について。

プライベート出産ということが、ある一部で話題らしいが、
そのプライベートな意味を取り違えているのではなかろうか?(そのような本も出ているらしいが、まだ未読だが、書評やコメントを読む限りでは、夫婦家族のみでお産することがプライベートとなっている感じがする。)

Privateの意味をどう捉えるかはそれぞれではあるが、
出産に関して家族のみに限定するというのはあまりにも狭義な考えに思う。

この件に関しては、見解がいろいろあると思うが、
出産は、命の現場であるので、実験の場ではないということは釘をさしておきたい。
なぜこんなことを述べるかというと、
子供の父親となる人が、『実験もかねて自分で取り上げてみようと思った』と報告にはあったからだ。

以前、子供の父親が、医者(産科の研修はわずかだがしたことがあるが、産科医ではない。小児科医でもない。)を仕事としている夫婦のお産の時に、(それも何組ものカップル)同じような話や考えを述べていたのを思い出す。

それと呼応しての記憶について。

まず、自然出産、アクティブバースなどに考えを寄せて、あるいは夫の興味が先に来て積極的なカップルのときに感じることだが、
夫は積極的(まさにアクティブ)なのだ。そうすると、あたかも、自分が子供を産むかのごとく一生懸命になる。それについては、そう悪いことではないのだが、
そのアクティブさを実際に産む本人に強要する。また、何か思い違い(私はそう思えるのだが)をしているように感じるのは『自分が取り上げる!』という錯覚に陥る。

 正確に言えば、本当に産婦がアクティブであれば、夫(子どもの父親)は、あまり出る幕はない。これは出産から父親を排除するということではない。ただ、産む生まれるということは、母体と児が一体となっておこりうるのである。そのときには、子どもの父親がそばで見守っていることはそのときのシュチュエーションとしてありえるということぐらいなのである。

これに関して、詳細は、いずれ別の形でまた書いてみたいと思うが、
『取り上げる』意識が出産前もあとも同じである場合、
私のしっているカップルをみると後の夫婦の離婚が多い。(これは正確に割合は出していないので、あくまで私の主観だが、それでも、数は2桁にはなる。)

ところが
『・・・・すごい』
『・・・自分は何も出来なかった(お産のとき)』
『生まれてきてくれてありがたい』
『疲れた、・・・』

等、多々あるが「自分が、・・・」と主体、我を出すような発言をしないように変化した場合は、その後も夫婦家族形態は変化は無い。

もっとも、出産という一面から私が見た感じだが、これが全てではないだろうが、
考えてみる余地はあるだろう。

「夫婦にとってセクシュアリティは必要か?」

上記のことも少し関係するのだが、
出産の現場にに夫がかかわる時に、どうかかわるか?
どこにいるのか、どのポジションで、どのように?

考えてみてください。

実験的に、興味でといったかかわりは、何をもたらすのか!?

『産後二日間はおもゆだけの断食をするそうで、奥さんの下の世話も一週間の休み中はがんばってみるそうです』

と報告は続くが、

野口整体の考えに基づいてのやり方に、沿ってということらしいが、
友人の故片桐助産院では、その方法を取り入れていたが、
成果のほどは正直よくわからないが、
あくまで助産士(女性)がお世話をしていた。

しかしながら、夫が、まだこれから[起きて]生活を共にしていく関係の夫婦にとってこれをするということはその後の夫婦関係はどうなるのだろうか?

若いカップルが家族の情愛だけで長い人生を過ごしていけるのだろうか?

動物(人間という種)は、数年で恋愛の感情が冷めてしまう。という説がある。
だからこそ、その期間をどう細く長く伸ばすかが、一夫一婦制の社会では問われてくる必要?もあり?

ただ、子どもが介在する夫婦家族関係の時に、親は子どもにとって、実の(生物学的な)親が一緒に仲良く暮らせて入れる方が、何かと、ちょっと大変な苦労などは無くてもよいと、おもう。


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