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記憶と現実のパーセンテージ

 私は結構、小さい頃のことについて、よく覚えている方だと思うのですが、この本のベースになった日の記憶については、細かいところまで全部正確に覚えている訳ではありません。元々、夢だったのかな、と思うくらい朧気な記憶で、場面、場面として残っている、いくつかのシーンの狭間に何をしていたのかとか、家に帰った後どうなったのか等については、考えてもまったく思い出せないのです。
 
 また、そもそも記憶というのは、すべてが100%正確に間違いなく保存されているものではなく、時の変遷だったり、ストレスだったり、色んな要因で変容し、事実と違った形で保管されていたりもします。なので、今回のストーリーは、正確な事実をありのままに書き出したもの、というよりは、自身の記憶の中にある“あの時の感覚”を掘り起こし、パズルのピースをつなぎ合わせるような形で仕上げたものになります。
 いったいどこまでがリアルな現実だったのか。この思いは私の中でずっと燻っており、私としても、この本を制作するにあたり、なるべく忠実に「事実を確認したい」という気持ちに駆られていました。
 
 以前に聞いた母の話から、当日行った場所については、大体の当たりがついていました。絵を制作していくにあたっては“リアル”さが欲しい。制作にあたって、実際にその場所に行ってみようかと思ったのですが、どうしても足を運ぶ気持ちにはなれませんでした。今、行ったところで、別に何が起こるわけではないとわかってはいるのですが、記憶の奥底にある何かしらの“拒否反応”が働いたのかもしれません。
 
 絵に関しては、固まったページから描き進めてもらっていたのですが、絵担当のツジのカナさんに「新幹線のページは、どの新幹線を描けばいいですか」と聞かれた時にハタと気づいたのが「“リアルに再現”と言ったって、その場所だって随分、様変わりしているだろうし、何十年の前の風景を忠実に描き起こしたところで、かえって“古臭さ”の方が際立ち、逆に“リアル”でなくなってしまうだろう」ということでした。当時は携帯電話だってもちろんなく、実際に母が電話をかけていたのは駅の「赤電話」でした。
 
 そこで、絵に関しては全体的に「現代から少し前位の時代」にシフトさせる形にし、新幹線の種類や向かう方面に関しても「私の記憶の中に残っているイメージ」と「ストーリーとしての流れ」のバランスを鑑みながら決定していきました。

 今、世に出す絵本の形としてはこれがベストだったと納得できる形にできたと思いますが、そんな作業の最中に浮かび上がってきたのは「この日のことを、父はどうみていたのだろうか」ということでした。ここについては、次回、綴りたいと思います。


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