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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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東畑開人「贅沢な悩み 第8回 臨床心理学の二柱の神——生存と実存(承前)」(『文學界』)/村上春樹「河合隼雄氏との対話」(『約束された場所で』)

☆mediopos3523  2024.7.10 東畑開人が『文學界』で連載している 「贅沢な悩み」の第8回は 「臨床心理学の二柱の神————生存と実存(承前)」 前回までの連載については随時とりあげてきているが 今回で「序論」としての第1部が終わるにあたり やっと「贅沢な悩み」の位置づけが明らかになっている (ここからやっと新たな問いへと向かっていくようだ) 臨床心理学には「二柱の神」 「生存」と「実存」がある 「生存」は「いかに生き延びるか」を問い 「実存」は「い

田中彰吾『身体と魂の思想史 「大きな理性」の行方』/頼住光子「道元の哲学」(『世界哲学史 別巻』)/道元『正法眼蔵(一)』

☆mediopos3522  2024.7.9 田中彰吾『身体と魂の思想史』は ニーチェが啓蒙主義的な理性を「小さな理性」 到来すべき身体を「大きな理性」として とらえていたことをふまえ 身心論を中心に二〇世紀の身体論をふり返りながら 現在及び近未来を展望する試みだとしている 二〇世紀の身体論として フロイトと精神分析の思想 精神分析から派生したライヒの生命思想 サルトルの実存主義における精神と身体をめぐる議論 メルロ=ポンティによる身体論 そして身体性認知科学がとりあ

釈徹宗「宗教と「笑い」(『群像』)/バタイユ「[非−知、笑い、涙]」/桂米朝・筒井康隆『対談・笑いの世界』/戸井田道三『狂言』/高橋睦郎『遊ぶ日本』/白川静『常用字解』

☆mediopos3511  2024.6.28 「笑い」は 時間を問われたときのように 問われないでいるときは だれもが「笑い」のことを識っているのに それを問い直したとき 「笑い」とはなにかがわからなくなる 私たちは日常的に冗談を言っては笑い 笑いたいがためにお笑いの芸を好んだりもする 「笑い」にはさまざまなかたちがあり カタルシスとしての笑いもあれば 冷笑といったような悪意をもった笑いさえあるが 釈徹宗は若松英輔との往復書簡 「宗教の本質とは?」において 桂米

中島啓勝『ておくれの現代社会論:〇〇と□□ロジー』

☆mediopos3506  2024.6.23 本書には『ておくれの現代社会論』という 少し変わったタイトルがつけられている なにが「ておくれ」なのだろうか・・・ 私たちはどの時代においても じぶんたちの生きている「現代」を 特別な時代だとしてとらえ それなりの危機感をもって生きているが いわゆる先人たちもまたそれぞれ 「現代」への危機感をもって生きたのであり 「先人たちがその時々に繰り広げた現代社会論が 傾聴に値するものであればあるほど、それはとりも直さず、 我

岩川ありさ「養生する言葉〜アンラーンの練習 学びほぐすことと学び返すこと」/西平直『稽古の思想』/東浩紀『訂正可能性の哲学』/大江健三郎『定義集』/鶴見俊輔『新しい風土記へ 』

☆mediopos3487  2024.6.4 学ぶ「ラーン(learn)」に対して 学んだことを忘れる・離れる「アンラーン(unlearn)」 という言葉があるが クィア批評・トラウマ研究の岩川ありさが 『群像』での連載「養生する言葉」で 「アンラーンの練習————学びほぐすことと学び返すこと」 について書いている 岩川の学びかたはこれまで 「「物知りの人」に「正しいこと」を 教えてもらう態度にほかならなかった」が 「自分よりも上の世代の人たちにしか学べない という

酒井隆史インタビュー「「だれがみずから自由を手放すだろうか」──2010年代と現在をめぐって」/『賢人と奴隷とバカ』

☆mediopos3480  2024.5.28 酒井隆史『賢人と奴隷とバカ』については mediopos-3115(2023.5.29) およびmediopos3281(2023.11.11)で とりあげているが 今回は「以文社」のサイトに掲載されている 酒井隆史へのインタビュー 「だれがみずから自由を手放すだろうか」  ──2010年代と現在をめぐって」から 『賢人と奴隷とバカ』についてあらためて 賢人きどりの知識人の多くは「バカ」が嫌いで 賢人になりたい奴隷の多

伊藤亜紗『手の倫理』/『目の見えない人は世界をどう見ているのか』/古田徹也『それは私がしたことなのか』

☆mediopos3477  2024.5.25 伊藤亜紗『手の倫理』については mediopos-2158(2020.10.13) 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』については mediopos-155(2015.4.19)でとりあげているが 今回は以前とは別の視点「倫理と道徳」からあらためて ここでいう「倫理(moral)」と「道徳(ethics)」の違いは 「道徳」が抽象化された主体にとっての 一般化された「実在しない「仮説」」であるのに対して 「倫理

ほぼ日の「老いと死」特集 養老孟司×糸井重里「生死については、考えてもしょうがないです。」

☆mediopos3476  2024.5.24 ほぼ日の「老いと死」特集のはじまりに 養老孟司×糸井重里 「生死については、考えてもしょうがないです。」 全七回が掲載されている 糸井重里が鎌倉にある養老孟司の自宅を訪ね 「老いと死」についてお話を聞くというもの 「養老さんはそんなに簡単に 死を語ってくれないんじゃないかなぁ」 という糸井重里の予想どおり そしてタイトルのとおり 「考えてもしょうがないです」との答え とはいえ「考えてもしょうがない」のは 下手に考えす

森田真生「絶版本の贈り物」(J.クリシュナムルティ『英知の教育』)(『絶版本』)

☆mediopos3473  2024.5.21 以前も取り上げたことのある 「あなたが、いまこそ語りたい『絶版本』はなんですか?」 に答えるという企画本を拾い読みして再発見 数学をはじめとした独立研究者・森田真生は 高校生のときH先生から贈られたという クリシュナムルティの『英知の教育』を挙げている H先生の本業は山伏 学校では体育の授業を受け持ち バスケットボール部の メンタル・フィジカルトレーナーでもあったが 「瞑想の方法を指導してくれ」 「苦しいときに相談に

高橋巖インタビュー「エラノスで会った〈非〉学問の人」/若松英輔『井筒俊彦』/井筒俊彦 『東洋哲学の構造 エラノス会議講演集』

☆mediopos3469  2024.5.17 シュタイナーの人智学を紹介し 長きにわたって牽引してきた 高橋巖が亡くなった 高橋巖と井筒俊彦の関係について語られる機会は稀で まとまったかたちでは 井筒俊彦の全集の月報がはじめてだったようだが その後KAWADE道の手帖『井筒俊彦』(二〇一四年)で 安藤礼二・若松英輔を聞き手として行われた 高橋巖へのインタビューでその最初の出会いや エラノス会議での再会などについて語られている そのインタビューのタイトルは 「エラノ

井筒俊彦英文著作翻訳コレクション『老子道徳教』

☆mediopos3458  2024.5.6 井筒俊彦に『老子』の翻訳があることを知り 小躍りしたことを思いだす なんといっても『老子』は ぼくにとっては半世紀前からの 変わらぬバイブルのようなもので それを井筒俊彦ヴァージョンとして読めるのだから 翻訳といっても英語への翻訳である それが英文著作翻訳コレクション『老子道徳教』 として出版されたのは二〇一七年のこと 井筒俊彦の英語への翻訳が完成したのは 一九七七年のイラン革命が起こる前のことだそうだが それが生前に

現代詩手帖 2024年5月号 特集 パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く

☆mediopos3454  2024.5.2 『現代詩手帖 2024年5月号』の特集は 「パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く」 現在ガザは イスラエルによる大量虐殺下にある この特集では パレスチナという経験を共有する 来歴も世代も異なった12名の詩人の声が 詩とプロフィールそして解題のかたちで わたしたちに届けられている 最初に紹介されているのは ガザを代表する詩人のひとり 若い作家たちの精神的支柱 「We are not numbers(わたしたちは数では

三村尚央『記憶と人文学』/中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』/ベルクソン『物質と記憶』/沢耕太郎『写真とことば』/ロラン・バルト『明るい部屋』/ソンタグ『写真論』/ベンヤミン『写真小史』/ゼーバルト『アウステルリッツ』

☆mediopos3451  2024.4.29 三村尚央『記憶と人文学』第一章 「写真と記憶、記憶の写真」から すでに本書は吉田健一『時間』とあわせ mediopos2397(2021.6.9)でとりあげているが 今回は写真との関係における「記憶」について ベルクソンをガイドに・・・ 「写真は一体何を写し出しているのか?」 写真が誕生して以来 繰り返されてきている問いである 一葉の写真には 「被写体」「撮影者」「鑑賞者」が 多様な関係で結ばれている たとえば過去

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』/『世界哲学史1』/『世界哲学史8』/納富信留『世界哲学のすすめ』/山川偉也『パルメニデス 』

☆mediopos3450  2024.4.28 『ミリンダ王の問い』という バクトリア周辺のギリシア王のミリンダと 仏教僧ナーガセーナとの対話が残されていて 「ミリンダ・パンハ」(パーリ語)と呼ばれる 仏教の外典となっている ギリシア人が最初にインドに赴いたのは 前五〇〇年アレクサンドロスの遠征によってだが それから二〇〇年近く経った前二世紀半ばに 上記の対話が行われたとされ テクストの原型が成立したのは 前一世紀前半から半ば頃と考えられている ミリンダ王は 「「あ