田中彰吾『身体と魂の思想史 「大きな理性」の行方』/頼住光子「道元の哲学」(『世界哲学史 別巻』)/道元『正法眼蔵(一)』
☆mediopos3522 2024.7.9
田中彰吾『身体と魂の思想史』は
ニーチェが啓蒙主義的な理性を「小さな理性」
到来すべき身体を「大きな理性」として
とらえていたことをふまえ
身心論を中心に二〇世紀の身体論をふり返りながら
現在及び近未来を展望する試みだとしている
二〇世紀の身体論として
フロイトと精神分析の思想
精神分析から派生したライヒの生命思想
サルトルの実存主義における精神と身体をめぐる議論
メルロ=ポンティによる身体論
そして身体性認知科学がとりあげられているが
現代における身体性認知科学の展開としては
「身体と環境のあいだに拡がる心」が
新たな身心の見方となっている
その研究においては
「身体性(embodiment)」に始まる
四つのEが連動しているという
行為を通じてそのつど認知が実現される
「エナクティヴ(enactive)」
認知が具体的環境の中に埋め込まれて成立している
「エンベデッド(embedded)」
身体を介し道具や外界を巻き込み拡張して成立している
「エクステンデッド(extended)」
をあわせた4つのEである
その4つのEの視点から
「心」は「身体や脳の内部には位置づけ」られず
身体と環境の「あいだ」に拡がるものとして
とらえられるようになっている
それはいわば「主体感」の拡張でもある
そしてそれは脳科学的にいえば
「脳ー身体ー環境」という系が
「脳ー身体ー外部デバイスー環境」という系へと
拡張するということでもある
「外部デバイス」とは身体が環境と出会う
技術的なインターフェイスだが
それはかつては石器や鉄器のような原始的な道具であり
現代においては「コンピュータ、携帯電話、
タブレット端末のような現代の情報機器」
そしてさらに「脳と連動する電動義肢、
脳と連動する乗り物、脳と連動するロボット等」にまで
拡張されようとしている
本書の最後ではその「拡張」において
「「自己の身体」という所有感を濃密に含む
アバターとともに入り込める仮想空間」が
「「身体化された自己」の拡張にとどまらず、
人間が新しく適応すべき世界そのものを構築する
営みになるだろう」とし
それを「大きな理性」への展望としているのだが
その点に関しては著者の示唆に危惧を感じる
「仮想空間」は
「「自己の身体」という所有感を濃密に含む」
ものではあったとしても
そのヴァーチャルな有り様は
むしろ「大きな理性」を損なうものとはならないだろうか
おそらくそれはある種の「自我肥大」につながり
ほんらいの「身心」の「拡張」にではなく
その破壊につながるのではないかと思われるからである
ほんらいの「身心」の「拡張」とは
道元の「身心の脱落と悟り」が示唆するものではないだろうか
頼住光子「道元の哲学」(『世界哲学史 別巻』)によれば
道元の思索は「修行と悟りを軸して、自己とは何か、
世界とはどのように成り立つのかを根源的に問う試み」である
「仏道をならふといふは、自己をならふ也、
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
という『正法眼蔵』「現状公案」巻からの言葉のように
固定的な我という捉われから脱する(自己を忘れる)ことで
「すべての存在によって確かなものとしてあらしめられ」
「他の存在と自己とが切り離され対立したものではなく、
つながり合って密接な相関関係に」あり
「自己が悟ること(身心の脱落)により、
「他己」すなわち全存在が悟る」のだという
そして「一人の「悟り」の花が開くことによって、
全時空の全存在も悟り、それと同時に、
全時空の全存在に支えられて、
今、ここ、この私の「悟り」があるという、
世界と自己とのダイナミックな相互相依関係」が
自覚されるという営為によって
「自己は真の意味での主体」となるというのである
身体性認知科学的な視点である
「身体と環境のあいだに拡がる心」は
ヴァーチャルな自我肥大の方向ではなく
身心の拡張として「真の意味での主体」となる方向へと
導かれる必要があるのではないだろうか
■田中彰吾『身体と魂の思想史 「大きな理性」の行方』
■頼住光子「道元の哲学」
(伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富 信留 (責任編集)
『世界哲学史 別巻 ――未来をひらく』ちくま新書 2020/12)
■道元(水野弥穂子校注)『正法眼蔵(一)』(岩波文庫 1990/1
**(田中彰吾『身体と魂の思想史』〜「はじめに」より)
*「私たちの身体には独特の知性が宿っている。この知性の独特さは、「知識」と「知恵」という言葉を対比させると読者にも伝わりやすいと思う。」
「もっと大きな次元まで広げてこの「知恵」のありかを想像してみよう。もっとも大きな次元に位置するのが「生き方」である。ひとの生き方に関わることまで、身体には自ずとわかっている知恵がある。
十九世紀の思想家ニーチェは、頭の中で私たちが操作する知性のあり方を「小さな理性」、それに対して身体に宿る知性のことを「大きな理性」と表現している。ニーチェの生きた十九世紀後半から二〇世紀にかけて、何人もの思想家たちが「大きな理性」としての身体、知恵の宿る身体をさまざまな角度から豊かに発掘してきた。
本書はこの「大きな理性」という言葉で表現されるような身体性の深みを、二〇世紀に開花した思想に問い尋ね、改めて書き記そうとする試みである。また、歴史的なふり返りを経て、私たちの心と体、魂と身体がよって立つ現在地を描き、その近未来を展望しようとする試みである。」
**(田中彰吾『身体と魂の思想史』〜「序 章 大きな理性としての身体」より)
*「二〇世紀は、思想のさまざまな領域で「身体論」と呼ばれる議論がひとつの大きな潮流を作りだした時代だった。それは、哲学、宗教学。心理学、社会学、文化人類学、建築学など、多様な学問分野で論じられ、身体を共通項とする学際的な議論を生み出した。身体論はまた、片だー、エスニシティ、階級、環境問題、デザイン、ファッションなどの具体的な主題から、身心論、死生観、科学・技術論、宇宙論、認識論などの抽象的な主題に至る広がりを持っていた。これらすべてを網羅する思想家がいただけでも、巨大な統一理論があったわけでもない。しかし、分野や主題の違いを越えて身体に注目する共通の動向が、とくに二〇世紀後半には顕著に存在した。本書は、身心論(心の問題との関連で形成された身体論)を中心にして二〇世紀の身体論をふり返り、そこから、私たちの身体が置かれている現在、これから向かおうとしている近未来を展望する試みである。」
*「本書は、副題を『「大きな理性」の行方』としてある。「大きな理性」はもちろんニーチェから借りた言葉である。(・・・)ニーチェは身体なき近代的理性に対して、身体を取り戻した「大きな理性」が重要であると説いた。本書がとくに第4章以降の後半でとらえようと試みているのは、「大きな理性」として現代が回復した身体あるいは身心の行方である。身体性認知科学の展開を検討すると、新しい心の見方として「身体と環境のあいだに拡がる心」という見方が浮上してくる。これに呼応して、第5章では、自己と他者のあいだ、あるいは社会的次元に拡がる「身体イメージ」の問題を追い、他者と共存することの真の意味を問うている。さらに最終章では、「あいだに拡がる心」に呼応する概念として「拡張身体」を提示し、この概念に沿って私たちの身心が向かおうとしている近未来を論じている。」
**(田中彰吾『身体と魂の思想史』
〜「第4章 身体を取り戻した心――メルロ=ポンティと身体性認知」より)
*「身体性認知科学の具体的な発展を踏まえつつ、改めてこれらの研究が指し示す認知と心の見方を概観すると、「身体性(embodiment)」に始まる四つのEが連動していることが理解できるだろう。
第一に、たんに身体の形態や構造が問題なのではなく、認知主体がその身体によって遂行する行為(action)を通じて認知が実現していること。行為を通じてそのつど認知が実現される様子は「エナクティヴ(enactive)」と形容する。第二に、認知主体の「頭の中」で生じていることは、それ事態を独立して見るのではなく、環境の中に埋め込まれた身体がさまざまな相互作用を環境と繰り広げる過程と合わせてとらえねばならないこと。認知が具体的環境の中に埋め込まれて成立していることを「エンベデッド(embedded)」と形容する。第三に、認知の活動は固体の内部に閉ざされておらず、身体を介して道具や外界を巻き込みつつそれらへと拡張して成立していること。この拡張性を「エクステンデッド(extended)」と形容する。
したがって、身体性の観点から認知をとらえることは、「embodied」であることに加えて「enactive」「embedded」「extended」な観点かた認知を解き明かすことでもる。そのため、二〇一〇年頃から身体性認知は「4E認知(4E congnition)」という拡大した名称で呼ばれることも増え、現在ではほぼ定着している。」
*「以上の検討を経て私たちがたどり着くのは、心の見方の根本的な変更である。」
「私たちが依拠するのは、「われ思う」という私秘的な自己意識ではなく、「われできる」という潜在的な行為の能力として受肉した意識である。行為の能力は学習されたスキルとして身体図式のうちに沈殿し、私たちが周囲の環境を知覚する際に、環境の特定の側面を意味あるものとして切り出してくる。私たちは暗黙のうちに「そこで私は何ができるのか」という行為可能性を周囲の環境へと投射し、環境から反響として返ってくるものを知覚している。(・・・)こうした知覚が成立するのに、受容された感覚情報に対して脳内で記憶や概念を付与する必要はない。むしろ脳は、身体と一緒になって行為可能性を環境へと投射するこよに一役買っているのである。」
「また、複雑な思考や判断の過程も、実際には具体的な行為を巻き込むことで成立している。(・・・)他者の心的状態を読みとる場合のような、複雑な社会的知性も同様である。私たちは相手の心について推論や想像するだけでなく、自己の表情やしぐさを相手のそれに共鳴させることで他者理解のために必要な感触を得ている。他者のいる社会的環境もまた、身体がそこに埋め込まれることで私たちの心の活動を成り立たせる根拠なのである。」
「したがって、4E認知に依拠する心の見方は、心を身体や脳の内部には位置づけない。心をむしろ身体と環境の「あいだ」に拡がるものとしてとらえる。(・・・)「大きな理性」の現代的展開として見えてくるもののひとつが、この「あいだ」に拡がる心であると言ってよいだろう。」
**(田中彰吾『身体と魂の思想史』
〜「第5章 身体イメージと現代――「付き合いにくい存在」か「大きな理性」か?」より)
*「身体の付き合いにくさは、他者との共存の難しさである。現代人にとってのこの難しさは、(・・・)具体的に実在する他者を相手にするものから、抽象的でその実在さえたしかめにく他者を相手にするものに変貌している。これはいうまでもなく、現代では全般的に都市化が進み、具体的な他者との人間関係が前提とされる共同体が解体され、マスメディアやソーシャルメディアを介した人間関係に共同性が置き換えられてきた歴史的経緯を反映している。比喩的にいうと、ソーシャルメディアを通じて発信した自己の情報に対して、つながりのある人々かた与えられる「いいね」のフィードバックだけが、肯定的な身体イメージを維持する「他者の眼差し」になるような時代に私たちは生きている。
だが、人々の共同性がどれほど希薄化したとしても、発達の過程で具体的な他者の身体に囲まれていなければ、そもそも身体イメージが成立することもありえない。身体イメージの誕生に寄与した「他者の眼差し」は主として母親や父親のような養育者の眼差しであり、それはきっと温かく愛に満ちたものであっただろう。ひとが自己の身体と安定した関係を築くうえで、このような温かい眼差しが起原において与えられていなければ、身体は最初かた「呪われたもの」になっていたに違いない。」
「「呪われたもの」ではなく「祝福されたもの」としての身体の記憶こそ、身体を「大きな理性」としている歴史的起源なのである。」
**(田中彰吾『身体と魂の思想史』
〜「第6章 脱身体から拡張身体へ――脳科学から見る身体の近未来」より)
*「主体感の拡張は、「脳ー身体ー環境」という系が「脳ー身体ー外部デバイスー環境」という系に拡大することに関係していた。人類の過去の歴史を見ても、身体が環境と出会う技術的なインターフェイスが変化すると、しばしば環境世界との関わり方が劇的に変化する。石器や鉄器のような原始的な道具もそうだったし、コンピュータ、携帯電話、タブレット端末のような現代の情報機器も同様である。新しい技術は、今までになかったしかたで主体感を拡張し、身体と世界との新しい関わり方を可能にする。脳と連動する電動義肢、脳と連動する乗り物、脳と連動するロボット等。これらは、「脳だけが保存されていればいい」という発想で技術を開発しようとしても早晩行き詰まる。「脳ー身体」というユニットのもとで私たちが経験している主体感を拡張することでしか実現できない技術だろう。逆に、主体感を適切に拡張しつつ技術開発が進めば、私たちは今までよりもずっと微細なしかたで世界に関与できるようになるはずである。人間の手が持っている器用さ、巧みさ、細かさ、力強さ、正確さを技術的にさらに拡大したしかたで対象を制御することが可能になるからである。これは、私たち人間と環境世界との出会い方の質を無数の場面で変えることになるだろう。」
*「他方、所有感の拡張は、仮想現実へと私たちが生きる世界を大きく拡大することになる。「身体化された自己」が生きる環境は、もはや物理的世界だけではない。人間はもともと、メディアの発達とともに生活世界を重層化してきた。活字、書物、絵画、写真、映像など、私たちが想像力を介して構築してきた世界はたんなる物理的次元の上に幾重にも重なっている。VR技術がこれに加えるものがあるとすれば、「自己の身体」という所有感を濃密に含むアバターとともに入り込める仮想空間である。活字も写真も映像も、それを経験する主体にとっては、想像とともに入り込むことはできても、アバターの持つ行為可能性とともに入り込むことはできない。アバターは仮想空間内でさまざまな行為と知覚の能力を持つのであり、「身体とともに入り込める奥行きのあるメディア」である点が従来のメディアとは決定的に違っている。アバターとともに、人間は初めて物理的世界と異なる世界の中で、自ら行為する存在となるのである。これは「身体化された自己」の拡張にとどまらず、人間が新しく適応すべき世界そのものを構築する営みになるだろう。」
*「結局のところ、脳神経科学が進歩することによって、人間は「脱身体」という方向には決して進んでいない。また、そうした方向に技術開発を進めようとしても、おそらく行き詰まる。むしろ、「脳ー身体」というユニットがもともと宿していた柔軟な可能性を極限まで開花させる「拡張身体」の方向にこそ科学と技術の進歩が垣間見えるし、またそうした方向に進むところにこそ「大きな理性」としての信頼の未来があると言うべきである。」
**(『世界哲学史 別巻 ――未来をひらく』〜頼住光子「道元の哲学」より)
・自己と世界を問う————「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」
*「道元の思索は、修行と悟りを軸して、自己とは何か、世界とはどのように成り立つのかを根源的に問う試みであった。ここでは、まず、道元の主著『正法眼蔵』「現状公案」巻の次のような一説を取り上げて、道元の主張や世界に対する思惟の基底をなす考え方について検討したい。
仏道をならふといふは、自己をならふ也、自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
「「自己を忘れる」ということは、固定的な我(アートマン)があるという捉われから脱すること、すなわち「無我」に目覚めることを意味する。つまり、自己を追求して、自己とは実は固定的なものとしては存在しないということが分かる。自分だと思っていたものは、実は、自分ではないのだ。
そして、この「自己を忘れる」ということは、「すべての存在」(万法)によって、「証される」(確かなものとしてあらしめられる)ことであると道元は言う。この「すべての存在によって確かなものとしてあらしめられる」ということは、まさに「空ー縁起」に基づく事態である。
「空」とは、(・・・)永遠不滅の実体としては何ものも存在しないということ、すなわちあらゆるものは移り変わる「無常」のものであり、固定的な不変の本質を持たない「無我」なるものだということである。では、「無常」で「無我」なるものがどのように一つの存在として成立するのかというと、それは「縁起」(他とのつながり合い)によると考えられている。「縁起」とは、すべての存在(「万法」)との関係の中で、自己がこのように成立しているということである。つまり相互相依関係の中で、このようにあらしめられているということが「証される」ということなのだ。」
・身心の脱落と悟り
*「道元は、「証される」とは、自己と「他己」の身心を「脱落」させることであるという。この「他己」とは、道元が多用する言葉である。他の存在について言い表す際に、他の存在と自己とが切り離され対立したものではなく、つながり合って密接な相関関係にあることを示すために、「他」に「己」をという字をつけて「他己」とするのである。この場合の「他己」とは、人間に限らず山川草木をふくめすべての存在者をさす。
自己が悟ること(身心の脱落)により、「他己」すなわち全存在が悟る、すなわち、自己と「他己」の「悟り」とが連動すると、道元は言う。「身心の脱落」とは、「悟り」の瞬間に、身も心も捉われ————その捉我の背景にあるのは、自己や他の存在を固定的な要素として対立的に捉える見方なのであるが————から解放されるということを意味している。「悟り」において、人は、自己と世界の真相である「空ー縁起」を体得する。「空ー縁起」の体得とは、ありとあらゆるものが関係し合って成立し、本来、固定的な「我」などなと、文字通り「体得」することなのである。」
*「このことを道元は『正法眼蔵』の他の箇所では「花開世界起」(花開いて世界起こる)という言葉を手がかりに追求する。「花開世界起」とは、道元によれば、一人の「悟り」の花が開くことによって、全時空の全存在も悟り、それと同時に、全時空の全存在に支えられて、今、ここ、この私の「悟り」があるという、世界と自己とのダイナミックな相互相依関係を意味している。「悟り」とは、自己と世界との真相である「空ー縁起」の自覚である。修行によって、自己も、そして自己と相互相依関係にある全時空の諸存在も「空ー縁起」であると自覚し、そのことによってみずから「空ー縁起」の次元を、この瞬間、瞬間に顕現させ続ける。その営為によってこそ、自己は真の意味での主体となり続け得るのである。」
□田中彰吾『身体と魂の思想史 「大きな理性」の行方』目次
はじめ
序 章 大きな理性としての身体
第1章 精神分析における身体――フロイトの洞察
第2章 性と聖を結ぶ身体――フロイトからライヒへ、ライヒから現代へ
第3章 身体の思想としての実存主義――サルトルを超えて
第4章 身体を取り戻した心――メルロ=ポンティと身体性認知
第5章 身体イメージと現代――「付き合いにくい存在」か「大きな理性」か?
第6章 脱身体から拡張身体へ――脳科学から見る身体の近未来
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