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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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2023年3月の記事一覧

禅、ヴィパッサナー、時々不二一元論①

今回扱うのは禅の立場からの瞑想(ヴィパッサナー)批判です。これをヴィパッサナー実践の立場から更に批判的に見ていくわけですが、それがなぜ必要なのかということをお伝えしておきます。 禅、特に曹洞禅の只管打坐という立場とテーラワーダのヴィパッサナーの実践方法は比較されます。まぁ一般の人から見ればどちらも座ってやっているし、変わらないのですが、やってることは全然違う部分もあるし、同じ部分もあるように思います。ある意味、近いからこそ両方の狙いをちゃんと見定めて分けておかないと、実践の

禅、ヴィパッサナー、時々不二一元論②

前回、禅とヴィパッサナーについて本質的な話を伝えるため、ネルケさんの文章を引用しつつその坐禅体験をまとめました。最初にその体験を図にまとめたものを再掲します。今後この図を基本図として他の教えや実践法と坐禅を比較していくことにになります。 ネルケさんにとって坐禅というのは哲学的な内省から、今ここにある身体へと意識を引き戻すような体験でした。 そしてネルケさんはこのようなご自身の宗教的原体験を語られた後、その体験と他の思想との比較に入ります。まず比較対象として挙げられるのがラマ

禅、ヴィパッサナー、時々不二一元論③

前々回ネルケさんの坐禅体験から始まり、不二一元論との比較、そして初期仏教との比較まで進みました。前々回の最後にのせた禅とネルケさんの考える瞑想(ヴィパッサナー)と私が考えるヴィパッサナーの違いを表した図を再掲します。 ここで申し上げておきたいことが一つあります。この図に関してネルケさんの意見を批判的に取り上げてはいますが、実際ヴィパッサナーの実践を続けている人にも上の図は理解されていないということです。 私の記事では何度か触れていますが、ヴィパッサナーの実践は意識よりも「

意識について4(量子論の観点から)

この投稿では、意識について量子論の観点から考えた物理学者の3つの説を紹介します。 量子論的な脳理論というのは、脳をニューロンの電気回路と捉える古典的モデルではなく、場の量子論や量子重力理論のミクロな観点から考えるものです。 「意識について1(脳科学の統合情報理論などの観点から)」では、意識について、統合情報理論を紹介しながら、脳科学(神経生理学)的に考えました。 その中で、統合情報理論では、統合情報量が自然数で表されるので古典的に捉えられているけれど、ダブリン大学・トリ

先生の代わりに

伝統宗教の価値が薄れた現代は、 倫理的価値観から経済至上主義へと あらゆる事をお金に換算する、 「金銭的に価値がなければ価値がない」 と言っても過言ではない価値観が蔓延る 時代でもあります。 宗教団体が引き起こす事件や問題が多く、 宗教への信頼が失墜し、人の善意が 信用しにくいため、言いにくいですが 本来は宗教は倫理の実践のための、 それを裏付ける価値観、哲学を学べる 教育機関として代々機能する事で、 現代社会に受け入れられるべきでした。 今回意訳し

今すぐ瞑想を始めましょう!(全訳)

アチャン・チャー ●この法話は、1978年7月、雨安居に入る当日、ワット・パー・ポンで新たに出家をした比丘たちに対して、ラオスの方言で語られたものです。    吸う息、吐く息に気づき(サティ)を向け続けてください。たとえ誰かがあなたの目の前で逆立ちをしたとしても、そんなことはあなたには関係のないことです。そういったことに、煩わせられないようにしてください。ただ、吸う息、吐く息に集中し、呼吸に気づく。それだけで十分です。それ以外のことは、何もしなくて結構です。もしそうしたほう

大乗起信論①

しばらくインド密教を見てきました。即身成仏の思想や修行の実践方法など、大乗仏教と異なる点も多く見られますが、哲学的な理論についてはほぼ同じ、即ち、大乗仏教が「空」と消極的に表現した真理を密教は「法身大日如来」と積極的に表現しているだけの違いのように思われます。 さて、今回からまた大乗仏教の思想へ移ります。おさらいになりますが、中期大乗仏教に含まれる唯識思想と如来蔵思想は、どちらも初期大乗仏教の経典である「華厳経」の三界一心(三界唯心)作の思想の展開であると考えられています。