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誰かの幸せを祝えなかった時


日曜日ですね。今日は一日勉強しようと思っていたのですが、youtubeを見てご飯を食べて、部屋の掃除をしているうちに日が暮れそうです。休日の醍醐味ですね。

突然ですが、誰かの、周りの大事な人の幸せを祝えなかったことってありますか。そんな人間いてたまるか、と思われるかもしれませんが、私は何度かそんなタイミングを経験したことがあります。

高校生、大学生の頃なんかは特にそうでした。もともと自己肯定感が低くて、恋愛が両思いになるような経験もまともに無かったので、周りのクラスメイトが放課後に話してくるような、「彼氏が出来た」とか、「告られた」とか、そんな恋話を聞く度に、笑顔で聞きながらも、自分だけが疎外感を食らったような感覚を得ました。当時の恋愛に対する飢えや、思春期のコンプレックスの強さがそうさせていたのでは無いかと思います。

院生になって以降にも、そんな時期がありました。修士2年目の、しんどい時期を過ごしていた頃で、社会人になった周りの友達の結婚ラッシュが始まった頃です。

院生の1年次は、勉強や研究への熱意に燃えていて、周りの子達に今何してるのか聞かれた時に、ちゃんと答えられるような人間でいたいと思っていたので、そんな目標を掲げながら、日々バイトと学生生活を順調に進めることができていました。が、いよいよ修論を本格的に執筆する時期に入ってくると、目指していたものに暗雲が立ち込めて、何も見えない日々が訪れました。したいと思っていた研究が全く形にならなかったのです。

方向性の定まらない研究テーマや、進まないゼミ発表の原稿に日夜悩まされていて、同時に、
「将来どうしたらいいんだろう」「この業界でやっていけるのかなあ」など、目の前のこと以上に、先のことを考えては勝手に追い詰められていました。
お金が足りない時は、日頃行っていた家庭教師のバイトに加え、コールセンターのバイトにも行ったりしていて、たまにいる怒鳴りつけてくるお客様に手を震わせながら答えるなどして、もうこのまま消えようかなあなんて思うこともあって、とにかく心が荒む毎日でした。

そんな中、社会人の友達が、幸せそうにInstagramで結婚の報告を上げていたり、親友から結婚の報告を聞いたりして、その時は、精神的にどん底に落ち、八方塞がりになるような感覚を味わいました。

その子達は大事な友達で、勿論、幸せになっていて欲しいとは思っていたのですが、当時の、お世辞にも幸せな状況だと言えない自分には、どん底状態の自分との比較対象が急に視覚化されたことが、とにかく辛かったんだと思います。私が持っていない何もかもを見せつけられたような気がして、傷つけられた訳でもないのに、夜中に泣いたりしていました。

友達のことは変わらず好きだったので、辛うじてお祝いの言葉は伝えられたのですが、一旦距離を置こうと思って、それ以降はInstagramを辞めました。(友達とは今でも時々LINEをしています。今も仲良しでいてくれています。)

けれども今となっては、Instagramを辞めたことについて、若干の後悔があります。誰かの幸せを祝う、祝わないに囚われすぎて、自分がとっておきたかった思い出まで消してしまったことに対してです。

友達との青春の1ページや、自分がその日見た夕暮れの綺麗さとか儚さも、時間が経つと見返したくなるもので、大切に取っておくべきだったなあと折に触れて思います。自分の心を守るためには必要な時期だったとも、理解はしている上で。

これから先にもいつか、また誰かの幸せを祝えないような時期が来るのかもしれないですが、私の選択はおそらく変わりません。

薄情かもしれませんが、周りにいる誰かの幸せは、祝えない時期があっても仕方ないと思っています。自分にそれだけの余裕がない時、相手や自分をそれ以上傷つけないためには、一旦離れて気持ちをクールダウンさせてみるしかないと思います。

自分で自分を満たせるようになって、その時に縁があったら、心から祝えば良い。自分だけは、そんな自分という存在を理解してあげようと思います。

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