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銀座の檸檬_産めなかった命の記憶

銀座の路地裏で

銀座の路地裏で、ふと見つけた昔ながらの八百屋の店先に、檸檬がひとつ置かれていた。その檸檬は、年季の入ったカゴの中で、ひときわ静かにその存在感を放っていた。
傷ひとつない、鮮やかな色とつるんとした典型的な檸檬の曲線美に、不意をつかれついうっとりと見つめたあの日の記憶。
梶井基次郎の『檸檬』ってこんな感じだったかな?と、昔の国語の教科書を思い出しながら、堂々とした美しい檸檬に心惹かれた。
あまりにも色鮮やかで綺麗な檸檬の色は、いまだ記憶に鮮明に残っている。
社会人になったばかりの、まだ将来の希望に満ちあふれていた頃の記憶。

大学を卒業してすぐに、私は銀座の路地裏の会社で働いていた。もうかれこれ20年以上前の話。

それからしばらくして、記憶の色は暗闇の色へと染まっていく。

肯定できない過去

コロナ禍以降、在宅でデザインの仕事をしている。新たな得意先からの受注があり、打ち合わせのため横浜に来ていた。久しぶりの横浜。いろいろ変化している街並みを見ながら歩いていると、リニューアルオープンしたビルのキャッチコピーが目にとまる。

ー過去は未来をつくるー

確かそんな内容のコピー。振り向きながら微笑む女性の、凛とした、かつ過去を懐かしむような、穏やかな表情が際立つビジュアルだった。
「過去か…」
急にずっしりと心が重くなり、過去の暗がりの記憶が断片的に蘇る。まさにそれは横浜で起きた出来事。私は過去を肯定できない。小さな未来を奪ってしまった過去を持つ。それからずっと後悔を抱え生きてきた。

ー過去を素直に肯定できる人生を、私も歩みかったー

小さく深呼吸をし、何人かとぶつかりそうになりながら、打ち合わせの時間に間に合うよう、足早にまた歩き始めた。

好奇心

20年以上前の、まだ20代前半の頃、就職氷河期で採用されたのは銀座の小さな広告代理店だった。
華やかな業界での仕事はとても充実していて、世間知らずの私にとって、刺激の多い毎日となった。遅くまで残業をしては、バブルのノリがまだ残る先輩たちに誘われ、仕事帰りの飲み会に明け暮れた。明け方まで飲んでニ日酔いで仕事をこなすみたいな、20代ならではのパワフルな生活をしていた。

刺激的な毎日にすっかり酔いしれ、完全に浮かれていたんだと思う。
その頃、結婚を考えていた彼もいた。学生時代から付き合っていた彼の絃斗はサーファーで、私も学生の頃からサーフィンを覚えて、週末は絃斗と一緒に海に通う日々だった。
けれど就職をしてからというもの、絃斗と行く海よりも、夜の街で飲み歩くことに魅力を感じるようになってしまっていった。
夜の世界は物珍しく、好奇心を掻き立てられた。カクテルの名前をより多く知っていることがかっこいいと勘違いした。
そんな隙だらけの私に言い寄ってきたのは、一つ年下の会社の後輩、裕貴だった。飲みに行くにつれ仲良くなり、お酒の席で口説かれた。恵比寿や銀座、六本木のおいしいお店をたくさん知っていた。地元と海がテリトリーの絃斗とは、真逆の存在だった。
裕貴は真面目そうな見た目にも関わらず、話すと面白くてよく笑う子だった。もともと営業志望だったらしく、国立大卒の頭脳で、社内でもすぐに頭角を現していった。仕事に対する意識も高くて、得意先や先輩からの信頼も得ていった。得意先の目上の方とも臆せず付き合っていき、どんどん仕事の幅を広げていった。夢を語るときの瞳はキラキラとして魅力的だった。
絃斗とはマンネリ化もしていたので、当時の私は新しい世界に飛び込むことを選んでしまう。

  ーここから私の人生が狂い始める-

人生をやり直すとしたら、この頃に戻ってやり直したいと、ずっとそう思っている。海へ通う週末は私にとってかけがえのないものだったのに、もう2度と元には戻れない。

絃斗との別れはクリスマスイブだった。恋人たちの大切な日を、気持ちに嘘をついて過ごせなかった。絃斗は泣いて別れを拒んだ。私も泣きながら、ごめんねとありがとうを何度も伝え、長い間ハグをした。まるでドラマみたいな別れ方。

翌日、泣きはらした目で出勤すると、寝不足の顔をした裕貴が心配そうな目をして言った。
「昨日の夜、起きてずっと連絡待ってたんだ。彼氏と話すって言ってたから」
口が達者な裕貴のことを、ストンと信用してしまった瞬間だった。

年末の仕事納めの帰りに、裕貴と恵比寿のホテルにジントニックを飲みに行った。その日は部屋が予約されていて、ベッドには大きな真紅のバラの花束が置かれていた。まるでananのデート特集に載っていそうなロマンチックな夜だったはずなのに。
記憶の中でその光景は、真っ暗な広いホテルの部屋と、ポツンと置かれた黒紅色の薔薇の花束に、いつしか変わってしまっていく。

記憶の色は、感情の色が上書きされていくのかもしれない。

2本の赤い線

裕貴とは、半同棲みたいな付き合いが始まった。お互い飲み会や仕事に忙しい日々で、予定が合う日はどちらかの家で過ごし、週末は2人で街にデートに出かけた。
海のない毎日に、どことなく物足りなさも感じてはいた。海に入りたかった。絃斗のところに戻れないか、電話をしようか何度も悩んだ。この時に戻っておくべきだった。絃斗との海での日々は、2度と手に入れることのできない、こんなにもかけがえのないものだったと、当時は気付くことができなかった。

その年の成人式は、珍しく雪が降っていた。振袖姿の新成人が、可愛らしくもありどこか懐かしかった。
裕貴と一緒に帰る日は、会社から少し離れたカフェで待ち合わせをした。その日も裕貴を待ちながら、一人読書をしつつコーヒーを飲んでいた。携帯が鳴り「先輩につかまったから先に帰ってて」と連絡がきた。
仕方なく席を立った時、急に「ウッ」と吐き気をもよおした。そういえば生理が遅れていた。
帰宅途中のドラッグストアで、一人検査薬を買った。何か悪いことをしているようで、店員さんと目を合わすことができなかった。帰宅後すぐに、恐る恐る調べてみたら、結果は「陽性」だった。赤い線が2本くっきりと浮かび上がった。

ーどうしようー

後悔もあるけど嬉しさもあった。困惑した気持ちと不安も入り混じり、ため息をつき一度座った。無意識に、手はお腹を押さえていた。不安と同時に、お腹の奥の命の優しさも感じていった。
結局その日遅くに帰ってきた裕貴は、酔っ払っていて話どころではなかった。
翌日の帰り道、ひとまず会社から少し離れた銀座の病院に一人で行ってみた。
「おめでとうございます、恐らく妊娠ですね。もう少ししたらはっきりしますので、また来てみてください」
年配の女医さんにそう言われ、喜べないとは言えなかった。

ようやく落ち着いて話ができたのは、週末の夜。話があるからと言って、早めに2人で帰宅した。

「できたみたい」
「え?何が?」
「赤ちゃん」

一瞬で裕貴の顔が曇った。瞬間的に答えを悟った。

「ごめん…話し合おう」

私は産みたいと言っても、裕貴はごめんと言ってうつむくばかりだった。いつもなら隣に座って話すのに、薄暗い部屋の中で無意識に部屋の端と端に、はす向かいに座っていた。まるで2人の距離を物語っているかのようだった。

そして「産まない」を選んだ場合の、身体へのリスクが少ない方法を調べることになった。翌日土曜日の午前中に、近くの大学病院へ2人で行ってみたけど、うちでは中絶の手術はできませんと断られてしまった。

「ちゃんと話し合って決めよう」

しばらくの間飲みにも行かず、仕事も早めに切り上げて、お互いの気持ちを確認し合った。私の答えは「産みたい」で、裕貴の意見は最終的にいつも「NO」だった。

話し合いという名の説得だったのかもしれない。
裕貴は、まだ独身のまま仕事の幅を広げたいとか、もっと大手の代理店に転職するつもりだとか、CMの仕事も飲食店のプロデュースもしたいし、いずれ起業もしたいと、数年先のビジョンを熱弁した。
夢はそれまで何度も聞いていたし、仕事への情熱を語る時の裕貴の目はキラキラしていたから、私にしてあげられることは何だろうと考えたりしていた。

ふと、大学の友達のことを思い出した。友達は、付き合っていた彼氏との間に赤ちゃんができてしまった。まだ早いからと、泣く泣く産まない選択をした。必ずまた赤ちゃんを迎えようと2人で誓い、2人は卒業後すぐに地元に戻って結婚をした。

裕貴が思い描く未来に、当然のごとく私はいなかった。
夢を叶えるために、今はこの命を諦めるということなのかもしれないけれど、夢を叶えたその先の未来で、赤ちゃんをまたいつか迎えようなんて発想は、当然だけど微塵もなかった。
付き合って間もない2人だったから仕方ないことかもしれないけど、私と赤ちゃんが軽んじられたようで悲しかった。

裕貴にとっては、単なる出来事の一つなのかもしれなかった。
私にとって小さな命は、愛情を注ぐべきものとなっていった。

けれど「シングルマザーとなって産んで育てる」と言い切る力を、その時私は持っていなかった。
シングルで産む場合、実家の力を借りなければ成り立たず、実家の母は世間体を気にする人だった。就職し数年も経たずに、娘がシングルマザーになって地元に帰ってくるなんて、考えられないはずだった。
もしも産むなら最低でも結婚という形を取る必要はあった。けれど裕貴との結婚がないことも知っていた。
唯一信頼している地元の先輩に相談をしてみたけれど、私や実家の両親をよく知る先輩からも、産む方向で背中を押されることはなかった。

暗闇の記憶

お腹の中の新しい命にそっと手を乗せ存在を感じつつ、不安と申し訳なさで、毎日謝ることしかできなかった。
時間のリミットが来てしまう。これ以上結論は引き伸ばせなかった。
駅前の小さなレディスクリニックで、その手術を受けられることがわかった。
同意書に2人の名前をサインした。

前日にタンポンのようなものを予め入れて子宮口を広げる処置を受けた。
当日はノーメイクで生理用品をたくさん持ってくるように言われた。
麻酔で眠る間に、処置は終わっていた。目を覚ますとお腹の痛みとともに、全てが済んでしまったことを知った。
目の前に、何人もの幸せな家族の映像が、祝福されて生を受けた赤ちゃんたちの映像が、グルグルと回った。
友達夫婦や、
 絃斗の兄弟夫婦や、
  私の姉夫婦の赤ちゃんたちが、
愛され、
 大切に抱きあげられて、
  笑顔で見つめられる映像が、
代わる代わる、
 映像として流れ、
  涙が止まらず、
気づけば
 嗚咽とともに
  声をあげて泣いていた。

赤ちゃん、ごめんね。
ごめんね、産んであげられなくて、本当にごめん。


申し訳なさそうにベッドの脇でたたずむ裕貴は、その痛みをどこまで感じたのだろう。ただ過去のできごととして、記憶の片隅に葬り去られてしまっているとしたら、本当に浮かばれない。
若かった頃の美談として、現在のパートナーに語られたくもない。

鬱状態

仕事は、体調不良を理由に数日間休暇を取っていた。仕事をする気力もあまりなかった。しばらくは毎晩のように泣いて過ごした。裕貴は、目の前で毎晩泣いて過ごす私をどう扱えばいいか、きっと困惑していたのだろう。
つわりはなくなったと伝えると、元気づけようとしたのか、美味しいお店に連れていってくれた。けれど食事を楽しむ気分にはなれなかった。

少ししてから会社に退職届を出すことになる。当時の仕事の記憶がほとんど残っていない。鬱状態だったのかもしれない。本当にあまり覚えていない。
新しい仕事を覚えようにも全く頭に入ってこなくて、上司の前で急に泣き出して困らせてしまったこともあった。

ちょうどその頃から、デザインの仕事をしたいと思うようになっていて、裕貴にもそう話していた。すると「夢があるなら叶えなよ」と、とても熱心に学び直すことを勧めてくれた。学校に通うなら仕事はやめた方がいいという話になった。
純粋に私の夢を応援してくれたのかもしれない。けれど今思えば、私が仕事を変えた方が好都合だったんだろう。毎晩泣いてばかりいた私には、判断する力はもはや残っていなかった。
「デザイン学校に通いたい」という理由で、会社に退職願いを提出し、引き継ぎの期間を経て仕事をやめた。今思えば銀座の仕事を続けながらでも、デザインを学ぶことはできたはずだったけど、割とハードな代理店の仕事を続ける気力が、もはや失われてしまっていた。

反対の頬もぶつべきだった

定時で帰れる派遣の仕事に就き、中目黒の夜間のデザイン学校に通った。
目黒川の夜桜がキレイな季節だった。桜を見上げると、その先の高い位置に三日月があった。そこに赤ちゃんがいるのかもしれないと、お腹にそっと手をあてながらごめんねと言い、暗がりの中で少しだけ涙を流し歩いた。
裕貴は、仕事や得意先との付き合いに忙しそうで、電話があまりつながらなくなっていき、会わない日が続いた。最後に会ったのは直感的に家を訪ねた日。

合鍵で中に入ると、男物のワイシャツを1枚だけ羽織った、ロングヘアの知らない子がキッチンでニンジンをむいていた。口の大きな女の子だった。誰かと聞かれ、彼女だと答えた。裕貴の浮気は何度目かも同時に聞かれた。一応はじめてだと答えると、その子は安堵した表情を浮かべた。赤ちゃんのことを言わなかったのは、きっとその子もすぐに飽きられて、捨てられるだろうと思ったから。不思議と微塵も未練はなかった。

隠されていた私の荷物をまとめ、引き出しにしまわれていた2人の写真も、ちぎってゴミ箱に捨てた。
「ぶってもいい?」
最後にマンションの廊下で、裕貴の頬に一発平手打ちをしその場を去った。
唯一残っている後悔は
「赤ちゃんの分も、反対側の頬をぶっておくべきだった」ということ。

それからというもの、もらった薔薇の花束も、話し合いを重ねた部屋も、最後に頬を平手打ちしたマンションの廊下も、全て暗闇の中の記憶となった。

罪の意識

赤ちゃんへの申し訳なさで、長い間、毎日のように泣いていた。来る日も来る日も泣いていた。
「いつかあなたを幸せに迎えてあげられるように、ちゃんと笑えるようにならないと、こんなお母さんでごめんね」
と、鏡の前で泣きながら笑顔をつくってみたりもした。泣くことはやめられなかった。

生理の代わりに血の塊のようなものが出てくる日がしばらく続いた。見るたびに心が張り裂けそうな気持ちになった。数ヶ月かけていつもの生理に戻っていった。けれど悲しみは全く癒えず、部屋で1人いつもいつも泣いていた。

罪の意識が、心に重くのしかかっていた。そう、一番の感情は罪悪感なのかもしれない。ひとつの命を自ら奪ってしまったことへの罪悪感。
重たい罪の意識を一人で心に抱えて生きていけるほど、私には強さが備わっていなかった。それまで散々、命の重さや尊さを学んできたはずなのに、その命を大切にできなかったことに対する罪の意識が、重たい十字架となって常に心に暗い影を落とした。ふとした瞬間に、ごめんねをつぶやく人生は、その先何十年も続いていく。

赤ちゃんには名前をつけた。
男の子でも女の子でもいいように「光」か「幸」と書いて「コウ」。コウちゃんと呼ぶことにした。コウちゃん、ごめんねと、ことあるごとに呟き泣いた。

まだ20代前半の、就職をしてほんの数年たらずの、新たな人生をスタートしたばかりの頃だった。
楽しいことを純粋に楽しいと心から感じて笑い、嬉しいことは嬉しいと100%喜ぶことができていた日常が、急に幕を閉じることになった。
私の人生は、心の底から素直に笑えるものではなくなってしまったのだ。

裕貴のせいだけじゃないことは分かっている。自分にも責任はあった。だけど女性側が受けるダメージは、身体的なものだけではない。主にメンタルの部分で強く影響を受け、その後の人生で何をしようにも取り返しがつかない。
パートナーとの関係が終わると、一人でその後悔を抱えて生きていくことになる。どうか避妊をしてください。私が言っても説得力はないかもしれないけれど、同じ罪の意識を若い子たちに抱いて欲しくない。あまりにも人生が一変する辛い過去となってしまう。誰にでも起こってしまう可能性はある。

ごめんねコウちゃん、ごめんね、本当にごめんね。

命日には、ごめんねの花束を毎年部屋に飾った。

2度目の手術

それからいくつかの恋愛を経て、ようやく結婚をした。
トラウマからか、その後の恋愛はこじらせてばかりいた。またすぐに裏切られ、傷つくことになるのではと、相手を信頼できず束縛をしてしまった。赤ちゃんが欲しいあまりに、子どもができたという嘘をついて結婚を急かすようなこともしてしまった。海仲間をつくり大勢で海に通った時期もあったけど、絃斗と行った海とは全く違う海にしっくりこなかった。
何度も恋愛に失敗し、ようやく今の夫に出会うことができた。
けれど結婚してもなかなか妊娠に至らず、不妊治療に5年以上費やした。早く赤ちゃんに会いたかった。高齢だったせいもあるけれど、子どもができにくい身体になってしまったのかもと、一人過去を悔やんだ。因果関係はないかもしれないけど、身体へのリスクがなかったとも言い切れない。

そしてようやく授かることができた赤ちゃんは、早い段階で成長が止まり初期流産となってしまった。悲しい手術をまた受けることになる。全て自分のせいだと、悔やんで泣いた。絶望に打ちひしがれ、赤ちゃんに会えないことをまた泣いた。夫はしっかり受け止め一緒に涙を流してくれた。私が悲しんでいる間、一緒に悲しむことをしてくれた。毎年命日には、二人でお空の赤ちゃんに祈りを捧げた。
もうひとつの命日は、私だけで祈りを捧げてきたけれど、そのことは夫には話していない。

メディアが生み出した風潮

横浜で打ち合せた仕事も順調に進み、在宅でのデザインの仕事も軌道に乗っている。割とコンスタントに受注をもらえるようになった。ようやく生活のリズムも整い、朝は早めにMacを広げその日のスケジュールやメールを確認する。

朝の情報番組を、会社の人と話すような感覚で、毎日つけたままにしている。在宅ワークは気が楽だけど、人恋しくもなる。たまに番組の企画でとがったテーマも扱うので、そういう時はつい見入ってしまう。

その日も、いつものようにドリップコーヒーを入れてMacを広げた。
番組テーマは、性についてのものだった。何気なく耳を傾けていると、世代によって性についてのイメージが違い、最近の若い世代は性の関係がなくてもパートナーとしての関係が成り立つことなどが語られていた。
なるほど、最近の人とは感覚が違うなと思って見ていると、戦後すぐの世代は結婚するまで体験しないことが美徳とされていて、バブル期からバブル崩壊前後の世代の人たちは、ある程度の年齢になると性体験があることが当然という意識が強いと解説されていた。
雑誌やTVで、若者世代の需要を引き出すために、恋愛にまつわる消費行動を促すようメディアを使った演出がされてきたようだった。ドライブデートや夜景の綺麗なレストラン、ブランド品のバッグや香水、ファッションなどの、雑誌の特集やトレンディドラマのワンシーンを懐かしく思い返した。

番組後半で、当時編集をしていたという方の感想が紹介された。
「若い人たちの消費を促すため、メディアがこぞってデート市場を盛り上げていったことも事実で、引退した今となってはどこか申し訳なさも感じている」という趣旨の内容だった。社会の風潮としてメディアが生み出したものだったと、はっきりと説明されていた。
私も、まんまと乗せられた世代の真っ只中にいた。雑誌のモデルさんに憧れて、紹介されていた香水やバッグを買ったりもしてきた。彼氏がいない時期は人生負け組だともと思った。
もしも生きる時代が違っていたらと、複雑な気持ちのまま意識を仕事に集中させた。

20年以上経ってなお

SNS上で、望まれなかった命のことで、他の誰かもまた傷ついてきたことを知る機会が何度か訪れる。そんな悲しい想いを目にするたびに、産むことができなかったコウちゃんを想って、ごめんねと小さくつぶやく。

あれから20年以上もの時が経ち、結婚をして幸せなはずの日常を送っている。けれど忘れたくない忘れてはいけない、誰に話すわけでもない過去のできごとを、心に秘めたまま、何食わぬ顔で生活をしている。
心の奥底では、20年以上ずっと悲しいままで、ずっと懺悔の気持ちを抱えてきた。あの出来事に、どんな意味があったのだろうかと何度も考えた。私はどんな教訓を学ばなければならなかったんだろう。

誰にも話すことがない分、自分の過去はまるで他人の物のようで、過去と現在がくっきりと分断されてしまっていた。
当時の先輩や同僚たちは、まるでパラレルワールドが実在しているかのように、遠い夢の中の人に思えている。

もしも戻れるなら

午前中の仕事を終え、PodCastを聞きながら軽めのランチを用意した。

 ーもしも過去に戻れるなら、どの時代に戻りたい?ー

PodcastのMCの言葉に、不意に心を奪われた。調理中の手が止まった。

 ーもしも過去に戻るとしたらー

裕貴とのことが始まる前の、海での日々に戻りたかった。毎週末を絃斗と海で過ごした懐かしい日々。暑い太陽に照らされ、エアコンがあまり効かない車の中で、絃斗と2人で笑い合いながら海を目指したあの日々に。もう2度と戻ることができない、懐かしい笑顔のもとに…

「戻りたいな」
そっと呟いた。

結婚してからの今の暮らしも十分に幸せで、夫との未来しか今は考えることができない。もしもあのとき海に戻っていたとしても、廻り廻って今は夫と過ごしているだろう。

だけど、ギラギラと眩しく照らす太陽の日差しのもとで、くったくなく笑っていられたあの日々が、日焼けした素肌に光る、砂の光が恋しかった。あの砂浜で潮風を感じながら、いつまでも波を眺めていたあの日々が…

その後の、裕貴との頃には戻りたくない。
消し去りたい記憶、暗闇の記憶はなくていい。

予期せぬ感情

「コウちゃんとのことは、消し去りたくない」

思いがけない言葉がふと脳裏に浮かび、ハッとした。心拍があがり、急に涙がとめどなく溢れ出してきた。

出会えなかった小さな命。
小さな命のコウちゃんを想って悩み後悔し、懺悔しながらも生きた日々を、決して無にはしたくないという、大切で、小さな望みに気が付いた。小さな命と一瞬でも過ごした記憶を、消してしまいたいと思うことはできなかった。裕貴とのことはなくていい。けれどコウちゃんの記憶まで、消し去りたくはなかった。

過呼吸のような状態になった。胸の奥にしまっていた予期せぬ感情が、涙とともに溢れ出てきた。そのまま誰もいない昼間のキッチンで、うずくまるようにしてむせび泣いた。

出会うことはできなかったけれど、小さな命のコウちゃんとずっと一緒に生きてきたことに、20年以上経ってからようやく気づくことができた。

大切な命。
傷つけてしまい、受け入れることはできなかったけど、私にとってかけがえのない大切な命であることは、たとえ出会えてなくても変わらなかった。

ごめんね
本当にごめん
だけど
これからも一緒だよ
一瞬でも
私のもとへ来てくれて
ありがとう

大切な大切な
私の小さな命

後悔の懺悔が
「小さな命への愛」に
たどり着いた

そうだった
ちゃんと20年以上
愛を持って
大切な小さな命と
向き合ってきた

ふとあたたかな感情に包まれた

過去が今とつながっていく

ゆっくりとおだやかに

ようやく
見失っていた過去の自分が

過去の暗闇の奥底に
深く遠く離れてしまっていた心が

今の姿の自分のもとにまるで戻ってきたかのように
スッと重なり、ふと肩の力が抜けた

重たかった冷たい暗がりの心は
ほんの少しだけ柔らかな暖かな灯りを取り戻したように思えた。

風の噂で、裕貴が過去に語っていた夢を実現させ、パリと日本を行き来する多忙な日々を送っていることを知る。

私は悲しみの中、苦悩にあえぎ、後悔とともに懺悔とともに生きてきた。夢を叶えることよりも、泣くことをやめ笑顔をつくることに精一杯に生きてきた。

もしも産めていたとしても、裕貴に認知してもらえなかったかもしれない。もう過去のことで覚えてもいないだろう。きっぱりと縁が切れてむしろ良かったと思った。

けれど、もしも産めていたら
もしも小さな命を受け入れ迎えることができていたら…

今ごろ夫と家族になって、幸せな時を一緒に過ごしていたかな。

もしも産めていたら

もしも産めていたとしたら



そうだ
久しぶりに花束を贈ろう
過去の自分と
愛しい小さな命に

ありがとうでも
ごめんねでもない
たくさんの愛の詰まった花束を



ps. 小さな命が、確かに存在したという証になりますように…

※一部フィクションも含まれています。

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