がん闘病記#5 救急搬送とがん告知①
妊娠24週で突然の大量出血があり、切迫早産の疑いで緊急入院。
妊娠23週で行った子宮頸がん検査の結果が判明し、「classⅤ(浸潤したがん)」だったということと、腫瘍外来の先生の見立てから、妊娠30週で帝王切開する可能性が出てきたことまで書きました。
赤ちゃんはNICUに入院する必要があるということで、〇〇大学病院への受入れを相談することに。
今回はその続きから。
第1次入院生活 後半戦
入院5日目(祝日)点滴再開
前日にMRIを撮る際、張り止めの点滴を外し、開放的になった身体。
明日一旦退院できると喜んでいたのも束の間、ノンストレステスト(お腹の張りのチェック)により、頻繁にお腹が張っていることが判明。
張りを落ち着けるために点滴を再開することに・・・。
点滴の針を刺そうとすると血管が逃げる(?)らしく、この時も2~3回失敗しながら、点滴開始。
入院6日目(土曜)転院先決定
朝一番に主治医の先生がベッドに来てくれた。
先生「〇〇大学とうまく連携できないので、××大学病院に相談したら、受入れてくれることになったよ。」
「ありがとうございます」とは言ったものの、××大学病院になったことに不安を覚える。
××大学病院が嫌なわけではなく、セカンド候補だったことがひっかかった。
〇〇大学病院なら自分の出身大学だし、知り合いの小児科の先生もいると思い安心していたのに。
だけど、ここまでスピード対応してくれたのだ、贅沢は言えない。
(この時はそう思っていたものの、××大学は本当に本当に先生方が優秀で、この時〇〇大学に転院出来なかったのは、とても幸運だった。)
先生「週明けの月曜日には転院できるから。」
私「え?・・・明後日ですか?一旦退院して家には帰れないですか?」
先生「点滴もしてるし、そのまま転院になるかな。月曜日には病状のことなど説明するから、旦那さんにも来てもらって。」
まさか、緊急入院したまま、別の病院に転院になるとは思いもよらなかった。
ただ、入院してからちょうど1週間、やっと旦那に会える。
顔を見たら泣いてしまいそうだ。
入院8日目(月曜)主治医の説明と転院
そしてついに××大学に転院する日がやってきた。
朝一で主人も病院へ来て、病状の説明を受ける手はずになっているが、コロナ禍のため主人が入院室ゾーンに来るのはNG。かといって、私が外来ゾーンに行くのもNG。
ということで、主人が外来ゾーンで主治医の先生から説明を聞き、私がZOOMか電話を繋ぎながら話を聞くということになった。
え、逆じゃない!?
私が説明を聞くんじゃないの・・・?
戸惑っていたものの、もう説明が始まるとのことで、仕方なく電話室に入る。
そしてここで、主人がLINE通話をしてくるというポカをする。
もちろん、普段ならLINE通話で構わない。
だけど今回は超重要な局面。
一言一句聞き漏らしたくないのだ。
そして不安は的中し、通信状況が悪すぎて、話の半分くらい聞こえなかった。。。
どんな説明だったか、後でLINEで問うことに(涙)
先生の説明は以下の通り
色々検査していく中で、全く違和感があったわけではないが、異常に進行の早い腫瘍
初妊婦検診をしたドクターは子宮がん検査の時異常を感じておらず、この数か月で急激に大きくなったと思われる
今後の方針は××大学病院と相談してほしいが、日本の医療は「母体優先」だということを認識しててほしい
抗がん剤治療科、即手術か、抗がん剤で少し引っ張って手術の時期を遅らせるかになると思う
抗がん剤は胎児に影響しないと言われているが、放射線は絶対にNG
赤ちゃんのことを考えれば、出来れば30週を超えたいが、そこは××大学病院と相談
抗がん剤治療、という選択肢に少しの希望を持つ。
もしかしたら、肺の完成する34週まで待てるのではないか・・
病院の転院は、先方の受入れ体制が整ったら連絡をもらえることになり、一旦主人は帰宅。
私自身は非常に元気なため、コロナで救急体制が逼迫している中、救急車を使うのは申し訳ない気持ちになる。
「シャワーを浴びるときのように、一旦点滴を外してもらえれば、自力でタクシーで向かいますよ」と申し出たが、「なにかあったら大変!」と看護師に一蹴される。
そして昼過ぎに救急車が到着し、主人も再び病院に来てもらい、一緒に救急車に乗って搬送されることに。
実に1週間ぶりの再会。
感動の・・・とはならなかった。
というのも、これまで自力で歩いていたのに、急に車椅子で移動することになり、点滴の棒を両足に挟んで車椅子に乗るスタイルで私が登場したからだ。
その姿を見た主人は明らかに笑いを堪えていた。
××大学病院へ ~第2次入院生活スタート
車椅子で移動し、ストレッチャーに乗せられ、救急車に担ぎ込まれる。
さっきまで普通に歩いていたのに、そして自分で歩けるのに、不思議な気分。救急車に乗るための儀式としか思えないが、実際これくらい慎重に動かなければいけない身なのだろうか。
大学病院に到着し、救急車から降りたところで担架に乗せられる。
主人は私の入院荷物を持ったまま、別の入口へ誘導される。
そして、看護師さんに「中には通せないので荷物だけ預かりますね。」と言って帰されたそうだ。
まさかのここでお別れとなった。
そして、このまま私の長い長い入院生活が始まる。
処置室に運び込まれ、看護師さんから大量の質問を受ける。
看護師「今なんでここに自分がいるか分かりますかー?」
・・・え?
救急車で運び込まれたから、どこかで倒れていた患者だと思われているのであろうか。
そして産科、婦人科と診察を回る。
婦人科の診察
こちらの病院でも改めて内診を受ける。
ここまで怖くて「癌」という言葉を口に出したことはなかったが、初めて自分から聞いてみる。
私「あの・・・私は癌なのでしょうか?」
先生「明日以降も色々検査しますし、精密検査の結果が返ってきてないのでなんともいえませんが、腫瘍の周りを少し触るだけでボロボロ崩れるので、まず間違いなく癌でしょう。」
ああ、やっぱり癌なのか。
まだ大丈夫なんじゃないかって、どこかで信じたかったけど、いよいよ覚悟を決めないといけないのか。
先生「詳しく説明しますので、ご主人いますか?」
私「そのつもりで一緒に来ましたが、”中には入れないから”といって帰されたそうです。」
先生「え、そうなの?それは悪いことしちゃったなぁ。今回はお子さんのこともありますし、状況が状況なので、またどこか別の日にきちんと説明する場を設けますから。」
どうやら看護師さんと先生の間で行き違いがあったようだ。
主人にはせっかく会社を休んでもらったのに、ただ救急車に乗って荷物を一緒に運んでもらうだけになってしまった。
今日絶対に話そうと思っていたことを切り出す。
一番大事な手術のタイミングだ。
私「できれば34週まで待ちたいのですが。」
先生「今週、病理検査の結果が返ってくるので、今週すぐに手術ということはありませんが、早ければ2-3週間後の可能性も覚悟しておいてください。
赤ちゃんのためには手術は遅い方がいいけど、それではお母さんが元気なくなります。今後、子育てをしていくのに、お母さんも元気じゃなくちゃいけないんです。治療方針は教授にも診察してもらって決めますので、しばらくお待ちください。」
ここで初めて、治療を遅らせるということは、自分の命に関わってくることなんだと感じる。
だけど、自分の命を優先することで、子どもに障害を残してもいいのか。
この瞬間からは、ずっとそのことばかりを考えるようになる。
入院初日
入院にあたり、ここでもPCR検査を受ける。
検査結果は翌日出るということで、ここで一晩過ごしてくださいと案内された場所は、明らかに病室ではない。
上から色々なチューブの様なものがぶら下がっているし、ライトが複数あるし、手術台のようなものもある。
後日判明するが、そこは分娩室だった。
それだけ部屋に空きがないということなのだろうか。
もはや通常分娩が望めない私にとって、分娩室で時を過ごすのは人生で最初で最後の経験だったと思うと、泣けてくる。
そしてまた別の先生がやってきて、いろいろな書類のサインを求められる。
切迫早産の処置、帝王切開、麻酔、輸血など、今後必要になりそうな手術への同意だった。
病名に”子宮頸がん合併妊娠”とある。
頭がクラっとする。
説明の節々で「子宮を取る」と当たり前のように言われる。
まだ、治療方針も決まってないじゃないか。
精密検査の結果だって返ってきていない。
そう思うと、サインをすることに抵抗がある。
ただ、切迫早産も併発しているので、急に破水をすると緊急手術になる可能性もあり、先にサインをしておく必要があるらしい。
ここで抵抗しても病院を困らせるだけだ。
1週間色々ありすぎて、もう何も考えたくない。
心を無にしてサインすることにした。
こうして大学病院へ転院をし、新たな入院生活がスタートするのでした。
この後、教授の診察、治療方針の決定と進んでいきます。
続きはまた次回!
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