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眠いのに眠れない

2024/04/23
今日からnoteを書くことにした。
きっかけはあるけど、理由は特にない。
はじめに、眠いのに眠れないとか書いてるくせに、三行しか書かないですぐ寝た自分がいる。嘘つくな。
今日はレトロフトの“さいしょのさいご”を観に行った。最近はできるだけお金を使わないようにしようと心掛けていたのに、結果はやっぱり気に入って買っちゃう。
“さいしょのさいご”という言葉を初めてみたときには破滅的な印象を持った。そこから、2週間ほど前に別れた元彼のことを思い出した。好きじゃなくて、大切にしたい。そう思っていたのに、そう思えば思うほどお互いの価値観のずれに気づいてどうしようもなくて離れるしかなくなっていた。なんなんだろう。何が悪くて、どうすればよかったのか今でも分かっているような、分からないような気持でいる。こういう時自分は、本能のままに動きがち。「離れたほうがいい。」本能がそう言っていた気がする。
元彼と別れた直後に出会った人がいる。最初はただ一人じゃどうしても勉強する気になれなくて、「一緒勉強しよ。」それだけで会うことを決意した。それがその人とのはじまりだった。私の行動はいつも破滅的だと我ながらに思っている。その日はその人と会う前に、ずっと気になっていたRikiの時計を購入していた。 まだ会ったこともないのに「ドライバー持ってない?あったら持ってきてほしい!」そんな変なお願いをした挙句、結局ほぼ取り付けてもらった。その時間が楽しくてわくわくして、きっとあのお願いが最初でさいごのシンプルなわがままになるんじゃないかなと思っている。
着物は全部四角い布でつくられるらしい。丸くカットしたり、複雑に波を打つこともない。だからほどいてつくってを繰り返すことができる。
つまり自分のなかでは“はじまったものはもとに戻すことはできない”という解釈だった。時間がもとに戻ってくれないのと同じように一度縫った布、時間、感覚はもとにもどすことはできなくて、そこに愛着を感じるものだと思っている。それが人間でいう好きなのかなと。戻してしまったらそれはもう全くべつの何かになってしまう。人間関係のなかに入った傷はもとに戻すことはできない。あるいは関係が修復したとしてもそれは元に戻ったわけではないということ。そんなことを一番強く考えていた。
展示会の中に置かれていた紙に書かれていたエッセイを読んだ。
定年を過ぎるまで沢山おかねをためて、定年を過ぎたら自分の好きなことをする。あなたとも別々に暮らしてたまに会うくらいにしたい。そう話す彼女は結婚しているのに恋人のような関係でいたいといっているようでとてもかわいい。
そんな内容が記されていて、こころがあたたかくなった。
展示会にいたアーティストさんは人をみんな平らにみているらしい。だから若いころには人を好きになることが分からなくて、恋愛は自分には向いていないと、相当悩んだらしい。
これは反論になるかもしれないが、私は人を平たくみることは難しいんじゃないかと思っている。人間には誰しも偏りがある。嫌いなもの、好きなもの。いいと思うこと、悪いと思うこと。その価値観が似ていたり、違っていたり、そうして近づいたり離れたりを繰り返す。この時点で人間を平らにみることは難しいと思っている。でもおそらく展示会のアーティストさんが伝えたかったのはそういうことじゃない。
これもエッセイの話になる。
旅先で、同じ場所にいた誰かが薬物をやっていて、“お前もやらないか?
”と勧められた。もちろん断った。それは薬物がやってはいけないものだからではなく、お酒やたばこと同じように自分に必要ないものだと思うから。ただ、断った後に、お前は自分たちの仲間じゃないなと扱われることがすごく悲しい。
なんとなく印象に残っていたから文章にして残しておきたいと思った。
なんとなく残しておきたいことはかけた気がする。
この後書くことをやめてしまったら何をするか決まってない。自由はいいけど使いようによってはもったいなく感じてしまう。
何もせず書き続けるわけにはいかないから、終わろう。

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