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かつて親だった者へ

かつて親だった者へ

清々しい気持ちである。
幼少期に「実母は死んだ」という自己暗示でストレス軽減を図っていた私は、やっと壮大な家族ごっこを終えたのだ。

娘を友人だと勘違いしていた実父。
娘を過去の清算だと錯覚した実母。

限界を感じたら死刑覚悟で殺そうと決意した13歳の私はやっとここで救われる。
親に生活を、命を、握られているのが苦痛であり悔しかった。
なにより「目立った虐待はしていない」という物的証拠のなさが学生時代の課題だった。

1人暮らしでやっと離れられると希望を持ったが、鬱になって実家に戻ったときはもう無理だと思い死を覚悟した。しかし死にたくなかった。
友人の声掛けが一番の支えであり、また怒りを取り戻せた。

怒りは私の力だ。
あの日、あの時、私の感情を踏みにじった血族たちを決して許してはならない。
15年間殺そうと思っていた。思春期などという生易しいものではない。

金をかけることや、時間を割くことが、愛ではない。
私が愛と感じなければ愛ではない。
性交渉の同意と同じ仕組みである。愛は、愛するものと愛されるものの同意で成り立つ。
私は親の独りよがりな愛に同意しなかった。

きっと楽しい思い出もあっただろう。
これも性交渉の同意と同じで、合意させられた状況が存在する。
金銭、食事などの権限の有無。我々日本人が脳裏に刷り込まれている立場主義。
環境による威圧で、子供は親の愛に同意させられる。
子供はそれを見ない振りをする。楽しいことをしているはずだと錯覚する。
子供は親の過去の清算や、家族という幻想に付き合わされる。

15年殺意を持ち続けると同時に、情状酌量の余地を考えた。
しかし親が親としてぎりぎり機能したのは13歳までだと思う。それは中学受験だ。
今の友人は受験がなければ出会わなかった。
裏を返せば、13歳以降は私の人生に親がいなくても金さえあればある程度成り立つのだ。

ここで出資したことを恩だと言う親は悪である。
何故なら生活保持義務と生活扶助義務というものが民法に定められているからだ。
つまり親が子供の生活水準をある程度保証するのは恩でも愛でもなく義務である。
妊娠を決めた人間は、これを考慮しなければ出産する権利はないと私は考える。

そして家族は替えが効く。必ずしも親類がかけがえのない存在とならない。
私は家族という概念や、親子愛の定義について考え続けた。
子供は親を愛さなくていいのだと結論づけた。
親も子供を愛さなくていい。しかし、扶養義務がある。
愛さなくても、子供が愛されているかのように錯覚させる努力は必要だ。何故なら子供は心身共に健やかに生きる権利があるからだ。

家族愛はなくてもいい。上質な友愛は家族愛を上回ると感じている。

今後も私の実の両親は罪の意識を持つことはないだろう。
この文章を読んでも、
私の気持ちを「誤解」と言うだろう。
私の気持ちを「それくらい」と言うだろう。
私の気持ちを「終わったこと」と言うだろう。

化粧をする私を嘲笑した実父よ。
歩く姿を揶揄した実母よ。
残念ながら、あなた達は親ではなかった。

特に男性に恨みを持つ実母は、その嫌な男性たちと同じ行為を私にしている事実に最後まで気が付かなかった。

あなた達もまた、十分な教育と友人に巡り合えなかった時代と運命の犠牲者である。
子供のまま、大人になれなかったあなた達は、子供のまま死ぬことになる。
脳は退化する一方で、見ていて背筋が凍る光景だ。

せめて私は、私くらいは、下の世代に誠実でありたいと思う。
私もいずれ死ぬ。人生には終わりがある。
今際の際で私を見る人間の眼差しが、どうか軽蔑ではありませんように。

今の私を形作った友人に恥じない人生をここに誓う。
そのために、私は親を捨てる。

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