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定期的に自分の心の立ち位置を確かめる

ずっと観ようと思っていた100分de名著のハンナ・アーレントの回を観た。『全体主義の起原』と『エルサレムのアイヒマン』、自分で読もうと思ったら間違いなく気が挫けてしまうだろう。

印象に残ったキーワードは2つ。ひとつは、「分かりやすい世界観」だ。これは現代も、もしかしたら現代のほうが陥りやすいものなのではないか、と思った。経済的に行き詰まったり、次にどんなアクションを起こしたらよいか分からないような状況下で"信じたい嘘"が提示されると、容易にそれが受け容れられてしまうという現象。自分たちのポテンシャルを不当に奪っている"異分子(番組内の言葉)"の存在を仮想的に作り出して敵とみなすことで、鬱屈とした状況を打開しようとする。アーレントの時代はそれが反ユダヤ主義へと向かってしまったわけだが、同じような構造の大衆の動きはいくらでも起こりうる気がする。トランプ政権下の「アメリカ第一主義」はまさにそういうものだっただろう。分かりやすい、信じやすいものが目の前に出されると、その道徳的な是非がどうであれ飛びついてしまう、そこに抜け道を見出してしまうというのは、かなり自覚的になったほうがよいだろうな、と思った。

ふたつめのキーワードは、「悪の陳腐さ」。これは、ユダヤ人移送の実務責任者だったアイヒマンについて、彼の裁判を傍聴したアーレントの表現だ。アイヒマンは悪の権化というよりもむしろ平凡な市民、有能な官僚で、命令と法に従っていただけだということに、アーレントは"戸惑った"と番組内では説明されていた。そのうえで、「政治において、服従と支持は同じ」であり、たとえ彼の行ったことが時代と立場による不運だったと仮定しても、「政治を支持し実行した」というその罪によって、アイヒマンは絞首されなければならなかった、アーレントはそう著したという。異なる者同士で成り立つ世界、この世界の複数性を否定したという限りにおいて、私たちは世界を共有することができないのだと。

悪の陳腐さ、それはたとえば、誰もがアイヒマンに成り得たとか、だからアイヒマンが許されるとか、そういうことでは全くないのだと思う。番組内でも「いかに(アーレントの言っている意味で)考えることを普段していないかを自覚するしかない」と説明されていたけれど、アーレントは過去に向けてというよりむしろ未来に向かってこれを言っている気がする。悪の陳腐さを知ったうえで、ひとりひとりがどう行動するか。

その答えは今ここでぱっとは出てこない。が、その方向性に向かってできるのは、「定期的に自分の心の立ち位置を確かめる」ことなのではないかと思う。心の立ち位置、と曖昧な言い方をしてしまったが、具体的に言うと、自分が今共感することは何か、反感を抱くことは何か、安堵することは何か、悲しいと思うことは何か、といったような世界に対する心の動き、シンパシーを、見落とさずにきちんと拾っていく、みたいなこと。それを怠らずにいれば、自分が守りたいもの、これだけは譲れないもの、大事にしたい信念、そういうものが明らかになって、より能動的、自覚的に世界と関われるようになるのではないか。

たとえば今日この番組を観ていて、まず当たり前のように、ナチスによるユダヤ人虐殺という出来事に対して怒りと恐れを抱いたし、その事実を知ったときのアーレントの感情、人間が生まれながらにして持っているはずの普遍的権利が奪われることに対する動揺に、共感し、安堵した。安堵した、ということを自覚したときに、あれ、共感するのは分かるけれど、なんで私はここで「ほっとする」んだろう、と思った。考えると、私は私の中に「ひとは誰もが尊重されるべき存在だ」という思いを持っていて、それが当たり前のように揺らぐ世の中で日々不安に駆られていて、だからこそその思いに根差したひとが確かに存在していたという事実に「ほっとする」んだな、と思い当たった。こうやって、自分の心の動きを辿ることで、自分が本当は何を思って、何を願っているか、本当はどうしたいのか、というのが見えてくるのだ。

そのための媒体は、ニュースでも、身近な人との会話でも、ラジオでも、映画でも本でも音楽でも、なんだってありだと思う。とにかく、自分以外のもの、生活の外側にあるものとの関わりを絶やさないで、自分の心の立ち位置を確かめ続けることが、今ベーシックに大切なことだと思う。半ば願うようにそう書いている。切実な、願い。

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