想像力の向こうへ
2022年3月25日。東京大学を卒業しました。
「4年間を一言で言い表すなら?」と問われると何も出てこないのに、思い出の粒を記憶の底から引っ張り出すと、目の前があたたかい靄で遮られてしまうのはなぜだろうか。
カッコつけてダダ滑りするのはまっぴらなので、等身大の偽りのない言葉でそれらをただ拾い上げていきたいと思う。
2018年
3月10日。東大の合格発表。
もう手触り感のあるたしかな思い出として振り返ることはできないけれど、自分の番号を見つけたときの瞬間最大風速的な感情のうねりを忘れることはないと思う。山あり谷ありの浪人生活を経て、わたしは周回遅れで東京大学文科一類に入学した。
予備校の祝賀会に来たアメフト部の人たちに盛大に胴上げしてもらった。
その時、わたしの前に並んでいて挨拶を交わした男の子と同じクラスになって、大学4年になって就活のメンター仲間にもなった。
最初から第二外国語はイタリア語にすると決めていた。
ウェイは嫌だけどそこそこ楽しそうなところがよかったから。上クラに何人か知り合いがいるから安心感があったから。イタリアンが好きだったから。そして、マイノリティになりたかったから。
4年間の大学生活を通じて、いつもわたしは唯一無二の何者かになりたかった。いや、振り返れば幼少期からずっとそうだったかもしれない。
東大に年間50人以上が進学する都内中高一貫校を卒業して「東大女子」になったわたしにとっては、ぜいたくにも自分の経歴があまりにもありふれたふつうに見えてならなかった。だから、第二外国語くらいは人と被らない選択肢を選びたかった。
ちなみに、二外の教員に連れて行ってもらった中目黒のピッツェリアはたいそう美味しかったので、#二外はイタ語へ。
浪人時代にお世話になったStudyplusという勉強アプリで知り合った北海道の女の子とチャットしたら、二外をどれにするか迷っていたので「一緒にイタ語にしようよ」と熱烈に声をかけた。その後、同じクラスになって、二人旅をするくらい仲良しの友達になった。
先に入学した友達や先輩がいたから、わたしは最初から大学にあまり期待なんかしていなかった。授業が始まったくらいの時期に吹き荒れる「授業おもんなくて萎えた」のツイート。そんなもん、幻想を見てるから落差にガッカリするんじゃん、なんて斜に構えながら大教室後方で指を咥えながら総合科目F系列の授業を観覧していた。
あの頃、わたしはけっこう歪んだ感受性をもっていた。
クラスのパ長に立候補したのは、食べ物の生殺与奪の権を安直に人に委ねたくなかったから。自意識が強すぎていやんなっちゃいますね。
なんか尖り散らしてるなと傍目から見ていたクラスの男子と学食で鉢合わせたときに「死ぬの怖い?」と大真面目にテーマを持ち込まれた。よくわからないけど面白い人間に出会えて、東大に来てよかったと思った。
誕生日に『哲学の誤読』という本を地で贈ってくれたきみのおかげで、死生学に興味を持ちました。
サークルの新歓にたくさん行ってビラも毎日眺めた。それなのに優柔不断すぎて決められなくて「とりあえず身体動かしたくて飲みが激しくなさそうなところ」という理由でなんとなくバドミントンサークルに絞った。
わたしの大学時代の三大後悔のひとつはサークル選びだ。結局、2年に上がるタイミングでサークルに入り直すことになった。1限がない日は寝てないで朝練に行ってれば何かが変わったかもしれないけど、実は球技がそもそも苦手だった。好きなものに最初から向き合えていたら、駒場時代をもっとサークルの思い出で飾ることができたかもしれないね。
ちなみに大学生活をやり直せるなら、わたしは演劇サークルとダンスサークルに入りたいです。みんなはどうですか。
夏休みに清里の小学校の校庭に忍び込んで、まっさらに澄んだ満天の星空を眺めたこと。同クラの幼馴染みの家のベランダにあげていただいて、打ち上げ場所の真横から花火が打ち上がるのを見たこと。あんなに大きな花火はあれ以来一度も見たことがなくて、歴代首位。
なんだか塞ぎ込んでいた冬の時期、逆評定に並ぶあたたかい言葉を目にして涙が出そうになったこと。恋が破れてせめて背筋を張って生きていたくて、小顔矯正やら何やらのサロンの体験に行きまくったこと。
赤面するくらい初々しい過去の自分の剥き出しの感情、今のわたしがぜんぶ抱きしめてあげたい。
他大の知り合いの先輩に誘われて、夏くらいから学生団体で機械学習を勉強するようになった。文系でも理系っぽいことができるようになりたかったから。
共通テストに情報科目が登場する時代だというのに薄っぺらくて笑えてきちゃうけど、当時の自分は大真面目だった。偏差値というわかりやすい尺度で測られる受験勉強に比べて、得体の知れない「自分らしさ」が問われる大学生活の中でわたしは生き急いでいたし焦ってもいた。
知らないことができるようになる瞬間は勉強に似て純粋に楽しくて、そのまま長期インターンもした。でも、ふと「これ、わたし本当に好きなんだろうか?」と振り返ったときに溺れてしまいそうだった。
もっと自分の好きなものをゆっくり考える時間が欲しくて、そして春を迎える頃、サークルもインターンもリセットすることにした。
2019年
モラトリアムの文ニート期間。
まず、新しくサークルに入り直すことにした。
天文サークルに入ったのは、星を見るのが好きでプラネタリウムを制作してみたくなったから。バンドサークルに入ったのは、せっかく高3までピアノを弾いていたので誰かと一緒に音楽をやってみたくなったから。
創造性、万歳。
授業も興味のあるものを好きに取ることにした。
博報堂と東大が共同で開講しているブランドデザインスタジオでは、自分のオリジナリティや独創性が尊重される環境は居心地がいいなと思った。人に選ばれるために汗水垂らしてあっと驚かせられるアイデアを考え抜くプロセスも脳汁出るくらいアツいと思った。
主題科目「医学に接する」では医学部に進学する人たちと一緒に、毎週研究室を訪問して東大病院を見学させてもらった。合唱の授業では、初夏の心地よい風が教室に吹き込む中で譜面と向き合ったことを現像フィルムで焼いたがごとく思い出す。
イタ語インテンシブは少人数の授業だったのに1限に耐えかねてほぼ毎回遅刻した。なのに優上くれてやさしい。「ラテン語読めます」と言えたらかっこいいなと思ったので、第三外国語でラテン語を履修した。
美術論は2回履修登録したのに、レポートを書くのが面倒になって出せなかった。
あの頃、図書館には思い出を宿しすぎた。
わかったふりをして哲学やアートの専門書を読んでみたり、知り合いたちと投資の勉強会を小部屋でやってみたり、メンタルがやられたときは授業をさぼって机に突っ伏して爆睡したり。
図書館には自分のもっとも幼くておセンチな部分の亡霊がきっと今も成仏できずにさまよっていると思う。
主題科目「医学に接する」で毎週金曜日、本郷キャンパスに通っていたとき、学生が無料でドリンクを飲めるカフェがあることを知った。恐る恐る2階に続く階段を登った。自分と同じ東大生の店員さんがかっこよく見えた。
「駒場にもあのカフェができるらしい」と聞いたとき、あの人たちのようになりたくてなんとなく応募した。それが半年間オープニングスタッフを務めた知るカフェ東大駒場店だった。
あとで聞いたところ、公募で申し込んだのはレアケースだったようだ。
知るカフェ東大駒場店と出会ってから、わたしの大学生活の歯車はようやく回り出したように思う。
非力な主人公が強敵に立ち向かうスポ根漫画に熱狂するように、店舗立ち上げから半年で全店優勝するという大きな目標に「仲間」と一緒にタックルする高揚感。もっとこの場所で自分にできることを見つけたいと思ったから、本郷店に移籍するタイミングで役職を希望した。
大学時代の後悔その2。
進学選択は散々迷った末に、そのまま法学部に進学することにした。
「とりあえず法学・政治学の勉強をしつつ、他学部の講義も取ろう」と淡い気持ちで進むべき道を選び、法曹のキャリアとはまるで異なる進路を選択したこと。社会のダイナミズムに関心があったのとここでもちょっとレアな道を選びたくて、所属人数の少ない第三類(政治コース)を選んでみた。
自分にとっての幸せとは何か、自分の学びたいものは何か、それがどこでなら実現できるのかを考え抜く姿勢がその時あまりにも足りなかったばかりに、大学という教育機関に未練を残すことになったことについて、この頃わずかばかり真面目に考えている。
そモラトリアムのSセメスター、井の頭線沿いを歩いて下北のカレー屋さんを開拓したこと。天文の資格を取得したこと。海辺の街に出向いた体験学習プログラム、人目につかない魅力を発掘して届けるおもしろさを知ったこと。
学年がひとつ上がっても、わたしはいつまでも青臭いままだった。
2020年
不意に訪れたコロナ禍。
ずっと家にいて暇だったので、就活とやらをはじめてみた。なんとなく広告の仕事がしたいと思ったけれど、それがなぜなのかわからなかった。
自分はひとつひとつの選択に対して「なぜ」をきちんと突きつけてこなかったのだと、これまで目を瞑ってきた自分自身への不誠実さを思い知った。
だからわたしにとって、就活は自分を構成する言葉を見つける長旅だった。就活のおかげで、少しばかり生きやすくなった。
「優秀」とか偏差値のように一元化されたものさしで評価される世界ではなく、いろんな「おもしろい」が認められる場所に行きたかった。できる限り簡単には敵わない人がごろごろいて、それでも頑張りたいと思える確率がいちばん高いところはどこだろうと思った。
飽き性で、捻り出したアイデアで人を喜ばせることがたのしくて、偏見や先入観が邪魔をするシチュエーションが耐えがたくて、世の中の死角に生まれている生きづらさを解消したくて、心を動かし動かされる場面にあふれ、なるべく「この人の後を追いたい」と思える人に多く出会えそうな環境に身をおきたいと思った。
コロナ禍だというのに、わたしの日常はむしろ繁忙を極めていた。
カテキョ先からは、塾が休講になってしまったのでもっと来て欲しいと頼まれ、人と接しないように電車ではなくチャリを漕いでほぼ毎日通った。
知るカフェ本郷店に移籍するとともに、約1年間、店長代理を務めた。
授業のオンライン化が進み「大学の目の前のカフェ」というアドバンテージを失う中で、わたしたちの居場所が忘れられないために何ができるのか。
直接話したことのない先輩たちに囲まれながら、施策の立て方やコミュニケーションの取り方、ロジカルシンキングを手取り足取り教わった。
記憶に残っている会話も山ほどある。「同じような役割を果たす人はたくさんいる中で伝説に残る人ってどんな人だと思いますか」という質問に対する「文化や伝統を作った人」というとある先輩の返答。就活の面接でも何度か話したものだ。
インターン選考の企画課題に没頭しすぎて、満足に勉強が捗らなかったSセメスターの期末。試験期間が終わる頃にはあまりの不勉強ぶりに、涙目で半狂乱になってしまっていたっけ。
企画立案や建築のコンペにも出してみたりしたけれど、少しでもいいアウトプットを出すために頭を捻る時間がたまらなくて、この先もこんなことを考えて生きたいと思った。
幸運なことに、駒場に残してしまった後悔のひとつを学部に上がってから回収することができた。
法学部の五月祭模擬裁判。例年3000人以上の観客を動員するこの目玉企画にて、3年次はキャストを、4年次は副責任者を務めさせてもらった。
YouTube配信という新しい試みにチャレンジし、安田講堂の壇上に立つ一瞬のために何ヶ月も時間を投資して、ああでもないこうでもないとお芝居の練習に励む日々。身体を想像の通りに動かすむずかしさ、想像の範疇を大きく超える反応が生まれたときの感動の大きさ。
自分にとっての幸せとは何か。それは心が大きく動く瞬間を積み重ねること、想像を超えた現実を創り出せたときなのだと実感した。
雑音を入れたくなくてひとりで就活していたけど、一つ上の先輩に縋りたくて申し込んだエンカレの特別面談。面談終わりに不意に「メンターやらない?」と声をかけてもらった。
名前しか知らないメンターの先輩たちだったけど、それぞれの眼鏡で切り取られた投稿を見るのが好きで、わたしはslackの通知がくるのを密かに楽しみにしていた。だから、一つ下の代でいいから仲間に加わりたくて「やりたいです」と即答してしまった。自分の就活すらおぼつかなかったのに。
こんな時代でも生まれた人とのつながりに感謝しつつ、こんな社会だからこそ生まれた自分だけの時間を慈しんで、たくさん紅茶を啜った。
2021年
1年半も活動してしまったおかげで、エンカレは大学生活の後半戦の大部分の思い出を占めている。
就活支援というワードがずっと嫌いだった。それ以上に嫌いだったものは、「お金がもらえないのになんでやってるの?」という質問だった。
大学生活を通じてわたしは一向に写真写りがよくならなかった。
そして、自分の口から発する自己表現が苦手だった。
しっくり来る自己紹介ができた試しは今まで一度もない。「好きです」と好きなひとの瞳をまっすぐに見つめて言えたことなんてない。沈黙が怖くてつい会話で埋めようとして、後から反省した回数は数えられない。
ヘタクソな駄文を書き散らすことをやめられないのは、PCのキーボードだけは静かに言葉を待ってくれるから。
けれど、自分にとって大事なものの価値はわたしが決める。
そのかぎりにおいて、この1年がなぜ宝物だったかまだ上手く話せないけれど、それでもかけがえのない時間だったことだけは断言できる。
組織づくりから終焉まで見届けられたこと。
一つ上の代の先輩たちの活動に錦を飾りたくて、構想を練りに練った引退式。コンテンツのクリック数を毎週追い続けたこと。通算何十回も学生向けイベントを企画したこと。香ばしすぎる衝突と仲直り。ES添削のために開いたドキュメントの数。重すぎて開けないスプレッドシート 。
絶起した朝のミーティング、夜遅くまで続くミーティング。(別にディスってないんだからね!)
無知の知。面談のたびに自分が何も知らないのだということを実感した。自分に一体何ができるのかを頭を悩ませながらも、いい報告をもらうたびにうれしい気持ちでいっぱいになった。
何よりも決定づけるものは、紛れもなく人との出会いである。
親友や盟友、尊敬する仲間たち、
憧れの先輩、大好きな先輩たち。
出身も年齢も今後の進路もバラバラの人たちとの出会いは、渋谷のスクランブル交差点の信号が赤から青に変わる間に巡り合えたようで、偶然が生んだマリアージュだったように思う。
お話させていただいた23卒の後輩の皆さんが納得した進路を選べることを心から応援しています。
「在学中にやりたいことリスト」の中には、むろんできなかったこともあるが、最後の年にやり切れたものことの方が圧倒的に多い。
法律事務所のプロジェクト、東京五輪のバイト、通信制高校の学生TAとか、とにかくユニークなアルバイトができた。
実は初だったユニバにも弾丸で行けた。少し息継ぎしたくなって、無理やり予定をこじ開けて関西にも一人旅しに行った5日間。まるで『ローマの休日』みたいだなんて思った瞬間に自分の勘違いっぷりが恥ずかしくて、穴がなくても掘って入りたくなった。
動画クリエイターになった。わんこそばにも挑戦した。実は煙草とスロットも味見してみたけど、あいにくハマりはしなかった。
2022年
告白すると、わたしの大学生活の舞台は決して広いものでもなければ、突飛なものでもなかった。
足踏みをしていたらあっという間に留学に行ける情勢ではなくなり、実は飲みすぎて記憶を飛ばしたことはない。肩書きが内面を醸成させることは決してなく、感受性は平々凡々たるものから飛躍することはなかった。
「東大女子はモテるっしょ」「恋人がいてしかるべき」という"当たり前"が重荷でいつも苦しかった。かわいい東大生の女の子を見るたびに、わたしは何もかも欲しくなって上を見てキリがなかった。大学生を構成するすべての要素を揃えようと必死になっては、ふと振り返るたびに「わたしって何だっけ?」とわからなくなって立ち止まった。
圧倒的な個や知性と出会うたび、自分に才覚がないことを呪った。
でも、物足りないなんてほとんど思わなかった。行った国の数で競うことはできなくても、連れ出してくれた人たちのおかげで見えた世界や価値観はそれだけ広かったのだと確信している。
卒業旅行やお出かけラッシュを経て、ずっと続くご縁のありがたみを実感する。年月が経てばきっとわたしを取り巻く人間関係の形は変わると思うが、それでもずっと近しい存在でいてくれる人たちを大切にしていきたいと思う。
人生を進めるたびに追いたい人や憧れの人に囲まれて、気付いたらここまで来てしまったようで、まるで空を見たくてもがいている深海魚みたいな自分。
この間、美容院に行ってオン眉赤髪にしてきた。
とってもお気に入りの髪型になれたけれど、それ以上に自分のことをもっと好きになれたとき、鏡の前の自分にようやく100点を出せるのだろうとぼんやり考えた。
早くそうなれるように、新しい環境でも好きな自分を貫けるように頑張りたい。その時、はじめて「人のため」「社会のため」にようやく頑張れるようになるのだろう。
そして、自分もいつか後を追われるような静謐な魅力をたたえた人間になりたい。
@all
当たり前のことばかりではありますが、常に想像を超えられるように、自分らしく頑張ります。次に会えるのを楽しみにしていてください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?