無職でも腹は減るなり

無職、実家へ帰る。の巻

社畜が無職になったのは去る夏のことだった。28才だった。
「このままではコロナより先に鬱で死ぬ、働き続けたら弊社に殺される」と再三のたまわっていた社畜は、年度始めに退職届を提出しその夏の終わりに晴れて無職となった。

社宅を追い出された元・社畜は逃げるように横浜市を去り故郷へと帰った。4年半社畜として見事に心身を壊した無職を咎める者は誰もいなかった。まるで帰還兵を迎えるかのようだった。無職は、長年ろくに帰省しなかったのにも関わらず、まだ自室が存在していたことを大層喜んでいた。

無職は無職となったあとも引越しや役所の手続き云々に東奔西走していたためにひと月ほど連絡が取れなかったのだが、最近やっと落ち着いたらしく、ようやく向こうから連絡があった。

ようやく残暑も落ち着いた9月某日、某喫茶店にて無職と会合す。

久しぶりに訪れた喫茶店は相変わらず誰なのか分からない胸像や壁から落ちてそのままの春画や信楽焼の狸や招き猫や達磨や瓢箪や紫色のエッフェル塔や傾いていないピサの斜塔や店内を縦横無尽に走る鉄道模型やシャンデリアやら提灯やらの有象無象で客が埋もれており、隙間を縫うように辛うじて存在している先人の作った通路を何とか歩き、店の最奥の角、通りに面した大きな窓を背に座った。日焼けした、元は深紅だったであろうソファの座り心地は相変わらずだった。この町では何もかもが相変わらずなのである。

いつも通り待ち合わせの時間を30分過ぎた頃、フラリと無職が顔を出した。よお、と右手を挙げる仕草にも力がなく、顔は別人のように緩みきっていた。何故か自由の女神像を脇に抱えていた。

「毎度の如く、待たせたね。」
「毎度のことだ、気にするな。」

何がスペシャルなのか分からないスペシャルコーヒーを無職が注文したところで、早速近況を聞き出すことにした。

「ところで、やっと会社を辞められたそうじゃないか。」
「ああ、お陰様で自由の身だ。命の危険と隣合わせの日々からの解放だ。」
余程嬉しいらしい。無職は両手を広げて天井を仰いだ。

「いちいち大袈裟なやつだ。でも、おめでとう。最近は何をしている?時間なら腐るほどあるだろう?」
「それがそうでもなくてねえ。色々な変更の手続きをしなくてはならない。引越しの最中に腰をやってしまって、医者にもかからなくてはならない。将来の事も考えなくてはならないが、今は少し休まなくてはならない。もう目が回りそうだ。」
「それでもこうして会ってくれているということは、一通り落ち着いたのだろう?」
「まあそうだな。忙しい時は貴君に連絡する気力も湧かなくなっていたから。ラジオを聞くことが精一杯だった。」

実物を見てもネーミングの由来が分からないスペシャルコーヒーが運ばれて来たが、無職は砂糖を溶かしただけで口を付けなかった。無職は猫舌なのである。

「で、栄光ある無職さんは最近何をしている?」
「何もしていないのだなあ、これが。」
「何もしていなくても、何もしていない、ということはないだろう。散歩だとか読書だとか、何かをあるだろう。」
「聞いて驚け、本当に何もしていない。」
「まさか。じゃあ昨日は何をしていた。」
「さっきから何もしていないと言っているのだがなあ。」

無職はため息をついたあと、慎重にコーヒーを啜った。まだ熱いという顔をした。

「参考までに、昨日一日の行動を教えてやろう。まず、朝は6時半に目覚めた。顔を洗って歯を磨いて、ゴミを出した。なんせ私は無職だからな、実家を追い出されないためにもゴミ出しくらい率先してやらないといけない。それを終えて、母君が作った朝食を食べた。母君が作った、と言っても会社勤めの弟の食べ残しだ。そのまま母君とテレビを見ても良かったのだが、貴君もご存知の通り私はテレビ嫌いなので、すぐに自室に引きこもってしまった。もう一度寝るにしても目は覚めているし、だが読書をする気持ちにもならない。集中力が続かないのだ。仕方なく無難なラジオをかけてみたが、耳に入れど脳に入らない。畳んだ布団に寄りかかり部屋の窓から見える大きな木が揺れるのを、ただ、見ていた。そうしていたらどこかから鐘の音が鳴ったのだ。近所の学校のチャイムだ。なんとなしに時計を見るとすでに正午になっていたから驚いた。母君が昼食は食べるのか、と聞いたので1度断った。そうしたらその後、更に驚くべきことが起こったのだ。」
「転職先の天啓でも降りたか。」
「冗談でも今後その手の発言は辞めてくれよ。あのな、腹が減ったのだ。」
「腹が減ったのか。」
「腹が減った。そうだ。腹が減ったのだ。」
「腹が減ることの何がおかしい。」
「よく考えてもみろ、その日の私が朝食を摂ったのは朝8時頃だ。その後4時間、部屋で横たわり何もしていない。ただ、窓の外で揺れる大木を見ていた。外に出るどころか部屋からも出ていない。しかし、腹は減る。これ如何に。腹が減る理由も無ければ権利もないのだ。そうだ、私には腹が減る権利がないのだ。なんせ労働をしていないからな。社会に何の貢献もしていない。何故神は空腹の権利を私から奪わないのだろう。」
「もしかして空腹は権利ではなく、義務だったのかもしれないな。」
「安定して働き続けている貴君には分かって貰えないかもしれないが、私にはこの空腹がなんだか刑罰のように感じるよ。」
「私には到底出来ないだろうが、あまり悲観するな。それで、その後は。」
「母君と昼食を摂った。働かざるもの食うべからずとか言われたから、腹が減っては戦は出来ぬと返したら中々笑って貰えたよ。」
「相変わらずだな。」
「そうだ。相変わらずだ。働いていた時の私がおかしかったのだ。」

ようやくコーヒーが丁度いい温度になったらしく、無職は美味そうにコーヒーを飲んだ。しかしカップの中のコーヒーを深淵を見つめるような顔つきで覗き込んだ。

「どうして腹は減るのかな。何もしてなくても減る。じっとしているだけだが減る。不思議だなあ。会社勤めをしている頃は朝から晩まで必死で働いていたが、腹は減らず食事も摂らなかった。普通、反対の気がする。無職でも腹は減るなり、これ如何に。」

さりげなく名句を詠んだ無職はまた腹が減ったらしく、具に何が入っているのかよく分からないスペシャルサンドを注文した。

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